空白の4世紀①

仁徳天皇陵

日本書紀と歴史

日本史には空白の4世紀と言われる謎の時代があります。大きな日本史の流れとしては250年ころ弥生時代から古墳時代へと移行するのですが、その古墳時代の前期にあたる270年~400年ほどの歴史が文字資料に残っておらず空白になっているのです。この空白を埋めようと多くの歴史家が様々な仮説を立てていますがどれも決定的とは言えない状況のようです。

しかし実は単純に日本の歴史書「日本書紀」を読み解くことで空白の4世紀が見えてくるのです。これは奈良時代、日本書紀の編纂時に意図的に封印し、後世正しい視点で読み解けば自ずから浮かび上がるように仕組まれたものでした。これは相当に高度な技巧を要するものであり、当時の日本の文化レベルが極めて高水準だったことを物語っています。この技巧は儒教で言う「中庸」の観点を文章に埋め込み歴史を表現するという、極めて高い精神性が要求される手法と言えます。

歴史というものは勝者によって描かれる、というのは否定できない事実です。奈良時代に現存していた各種の文献もそれぞれの立場によって描かれ、どれが真実の歴史なのか判別に困っていたのだと思います。しかし見方を変えれば勝者によって描かれた歴史自体がありのままに歴史を表現しているとも言えます。やはり自分に都合の悪いところは書きたくないとか、敵方の悪いところをは誇張するとかというのは自然であり、その描き様から当時の時代背景や為政者の気持ちを読み解くことができるわけです。奈良時代というのは一旦日本の歴史が元に帰り、まっさらな状態で時代を見つめることができた貴重な時期だったのだと思います。その時にどう歴史を残すのか、日本人の知恵と文化が結集され、世界に歴史書のあり方を問うた渾身の書が日本書紀と言えるでしょう。

ヤマトタケルについて

では実際に空白の4世紀を明らかにしたいのですが、避けて通れないのがヤマトタケルです。ヤマトタケルは景行天皇の皇子であり、熊襲征伐と東征を行い大和王権の拡大に寄与した人物です。生きた時代については記紀の年代をそのまま取れば紀元100年ころの人物になります。しかし実際は先の垂仁天皇、景行天皇の項でも触れたように293年に生まれています。そして310年に東征からの帰還中死亡したとされています。これだけ見ると天皇の皇子として2度の戦争を指揮し、皇位に付く前に病に倒れてしまった人物のようです。それにしては日本各地に伝説が残り、その名前や逸話を知らない日本人はいないほど有名であり、さらに武神として各地に祀られ信仰の対象にもなっています。なぜここまで過大に持ち上げられるのか、そこを説明しなくてはなりません。

  • まずヤマトタケルは310年で死んではいません。景行天皇の次の天皇は成務天皇ですが、ヤマトタケルは東征後景行天皇を殺し自ら成務天皇となりました。ここが日本史の大事件であり、その隠蔽はヤマトタケル自身が行ったものだと考えられます。
  • 次にヤマトタケルの生きた時代です。293年に生まれ、死亡したのは399年、実に数え107歳まで生きたたいへん長寿の人物です。古代で長寿と言えば武内宿禰が思い出されますが、武内宿禰はヤマトタケルのことであり長寿という部分は史書にも残っているわけです。成務天皇の享年は107歳です。古代の異常に長い歴代天皇の年齢のなかに埋没され見過ごしてしまいますが、その中に一人だけ本当の年齢の人物がいた事になります。
  • そしてヤマトタケルは仁徳天皇でもあります。仁徳天皇と言えば日本最大の古墳、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を思い出しますが、まさにあの古墳がヤマトタケルの陵墓です。成務天皇と仁徳天皇が同一人物とか意味がわからない、と思うかもしれませんが、天皇の事績として仁徳天皇記に書かれた出来事はヤマトタケルが天皇だった頃の史実ということです。これは後に解説していきます。
  • さらに武烈天皇もヤマトタケルです。暴虐で何一つ良いことをしなかったという武烈天皇の記述も、実は若き頃のヤマトタケルの事績なのです。武烈天皇は18歳で死んでいますが、18歳と言えばヤマトタケルの死んだ年齢でもあります。このように巧妙にヤマトタケルを隠蔽しながら、その史実はきちんと日本書紀に残されているのです。

空白の4世紀を知る上で、このヤマトタケルの事実を語らないことはできません。というよりも、日本史における空白の4世紀それ自体が、ヤマトタケルが王として君臨した時代そのものと言えるのです。このことを踏まえたうえで、今一度古墳時代初期からの歴史を見ていきたいと思います。

景行天皇の治世

垂仁天皇と景行天皇でも触れたように、景行天皇は馬韓(百済)からの渡来人だと思われます。九州での戦争では弥生人の国家を次々と滅ぼしており、それは景行記の12年に詳しく描かれています。

ちなみに邪馬台国がどこにあったのかという論争が現代でも続いていますが、これは次のように考えます。九州にはもともとウガヤ朝(首都大分、紀元前600頃~紀元前後)という王朝があり、その末期天変地異が相次いだのでウガヤ朝廷は占いにより近畿へ遷都しようとします。それが神武東征の伝説です。紀元前後の出来事です。
兄のイツセヒコなど多くの犠牲を払いながらも神武は近畿を掌握します。しかし神武の次の綏靖天皇の時代に近畿を維持できなくなります。近畿では各勢力が争う欠史八代へと時代は移ります。150年ころに倭国大乱となるのですが、これは欠史八代最終期の混乱です。それをおさめて各国が共立したのが女王卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)です。これが魏志倭人伝での女王の国、邪馬台国であり場所は近畿になります。
しかし同時期に九州にはウガヤ朝の末裔が残っています。それが景行記12年に出てくる神夏磯姫の国であったり速津姫の国であったりするわけです。ともに女王の国であり、当時の九州では一般的なことだったのかと思います。九州王朝説ではこれらの国々やウガヤ朝の遺跡などを根拠に邪馬台国九州論を展開しますが、魏志倭人伝の邪馬台国は正確には近畿にありました。この説明で議論は収束すると考えます。

290年九州を平定した景行天皇は大和へ向かいます。後にヤマトタケルは兄オオウスとともに生まれたことになっていますが、実はオオウスは景行天皇とともに九州から大和へ来たのだと思います。ヤマトタケルは武内宿禰でもあります。武内宿禰の父は武雄心命とされていますが、この人物がオオウスなのだと思われます。出生地は佐賀県武雄市です。景行天皇の軍勢は和歌山市付近に滞在します。そこで武雄心命は影媛と呼ばれる女性との間に子供をもうけます。しかし影媛は景行天皇の女性でもあったようで、293年に生まれた子ヤマトタケルは景行天皇の子供ということで育てられます。294年には武雄心命(オオウス)は美濃を任されます。

この頃の治世には倭姫の話埴輪の話などがあります。ともに垂仁天皇の治世のように見られますが、年代を計算すると景行天皇の時代になるのです。景行天皇は渡来人で暴君のようなイメージがあります。一方で殉死の風習をなくし埴輪を作らせるなどの政策も行ったようです。しかしそれも垂仁天皇の事績にされるなど、当時としても良いイメージはなかったのかと思われます。

306年、景行27年に再び熊襲が叛いたとあります。先の戦争で九州から船で逃れた熊襲、隼人が上総国(千葉県)にいる事が判明し、それを討ちに景行天皇は自ら出征します。しかしここでは思うようにいかずに敗退し、その帰路美濃へ立ち寄ったのだと思われます。そこで美濃の武雄心命(オオウス)とヤマトタケルが似ているとわかり、景行天皇は二人が親子だと悟ります。しかし今更そのようなことは言えるはずもなく、彼は兄だということにしたのでしょう。周囲の人たちも薄々気づいていたのだと思います。

景行天皇とオオウスは仲が悪かったという記述があります。上記のような経緯もあり、さらにオオウスを恨んだのでしょう。しかし美濃では一定の勢力があり簡単に討てる相手でもありません。ですがその存在は目障りなため一計を案じます。つまり美濃の勢力で相模、上総などの東国を攻めさせようと考えたわけです。しかしオオウスもそれに素直に応じませんでした。なので景行天皇は息子のヤマトタケルを東征へ向かわせたのです。16歳のヤマトタケルはその辺りの事情がわかりません。兄の代わりに自分が行くのだと単純に考えたのかもしれません。また戦果を上げるチャンスと捉えたのかもしれません。そして308年冬10月、ヤマトタケルは東征へと出発しました。16歳で無謀な気もしますが、吉備武彦大伴武日の軍勢をつけてもらっているので軍としては備わっていたのでしょう。ただし景行天皇の思惑としては成果の期待はしていなかったでしょうし、むしろそのまま戻ってこなくてもよいとも思っていたのではないでしょうか。他人の息子を皇子としておくわけにも行きません。

ヤマトタケルの東征については別に書きたいと思います。大筋としては静岡県、神奈川県相模での戦闘を経て上総国へ。途中浦賀水道でオトタチバナ姫を失います。上総国でも戦争を行っており主な目的はここだったのかもしれません。その後茨城県の鹿島神宮へ。そこから北上し福島県の勿来に陣を張ります。東北の軍と対峙しますがお互い争いは避けたかったのか、多賀城で会談をしたと思われます。帰路はそこから南下して新治、筑波を経て再度相模へ。武蔵の国はこの時に作られたようです。その後長野、美濃をへて尾張へ。ここでしばらく滞在しました。途中吉備武彦を越へ向かわせており、尾張で合流するのを待ちます。

309年尾張へ到着するのですが、ここはオオウスの支配地域です。ここで戦争があったと思われます。古事記にあるオオウスの手足を折って薦に包んで投げ棄てた、というのは半ば事実のような気もします。兄オオウスが自分を捨てた実父であると知ったのでしょう。さらにヤマトタケルは尾張で軍備を整えます。近畿へ攻め入り景行天皇を討つためです。まずは吉備武彦を帰国させヤマトタケルが三重県能褒野で死亡したと報告させます。死後白鳥になったとされていますが、その白鳥は奈良県琴弾原、大阪府古市邑と降り立ったといいます。これが近畿への侵攻ルートです。そしてその時の戦闘の記述が武烈天皇記の前半最後の部分です。東征の従者である大伴武日は垂仁天皇の部下でもありました。大伴武日が将となりその指揮に人々はなびき従ったとあります。310年、景行天皇は高穴穂宮(滋賀県大津市)で亡くなりました。近畿へ攻め入ったヤマトタケルは景行天皇を高穴穂宮へと追い詰め、ついに討ち取りました。つづく。

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