空白の4世紀②

310年~312年

310年、景行天皇はヤマトタケルとその臣下の大伴武日によって討たれました。そしてすぐにヤマトタケルは王位につき、成務天皇になったのかというと少し疑問な点があります。またもや天皇の年代が交錯するので混乱しますが少し説明します。

景行天皇は12代目の天皇です。13代目が成務天皇、14代目が仲哀天皇、ここで神功皇后をはさみますが15代目が応神天皇です。日本書紀の年代をそのまま取る、つまり初代神武天皇即位を紀元前660年として歴代天皇の年齢を単純に足していくと、15代応神天皇の即位年は西暦270年、そして崩御年が310年になります。実はこの応神天皇という人物に景行天皇が重なって見えてくる面があります。応神天皇というのは神功皇后が三韓征伐から帰国した直後、九州で出産したとされています。何かその出生に韓国が関わっているとのメッセージにも読み取れます。そして記紀の年代は景行天皇が実際に活躍した年代とかぶります。これは意図的に数字を合わせており、310年に景行天皇が死没したことの裏付けとも言えます。そして311年から312年は空位になっており、313年に仁徳天皇が即位します。

日本書紀ではこの空位の2年間、皇太子であった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とその異母兄の大鷦鷯尊(仁徳天皇)との間での皇位の譲り合いがあったことが記されています。最終的には弟は自殺し兄が皇位について仁徳天皇になるのですが、これはヤマトタケルと兄のオオウスとの兄弟間の争いを逆にした話だと思われます。そしてこの争いは311年から312年にかけてのことであるかのように見えますが、この時はすでに兄オオウスは殺されており、311年にヤマトタケルは王位についていたとする方が自然な気がします。しかしここでは日本書紀の意図に合わせ、ヤマトタケル(成務天皇、仁徳天皇)の即位を313年としておきたいと思います。

年表(313年~347年)

ヤマトタケルの即位を313年とし、ここからその在位の治世と空白の4世紀の実像に迫りたいと思います。

年表
西暦 出来事 備考
313年 ヤマトタケル即位 成務天皇でもあり仁徳天皇でもあります。宮は高穴穂宮(滋賀県大津市)か難波高津宮(大阪市中央区)かと思われます。
313年 楽浪郡、帯方郡滅亡 高句麗による。楽浪郡、帯方郡は漢民族の出先機関です。朝鮮半島での漢民族の衰えは決定的となります。
315年 成務天皇全国に国造を設置 成務天皇によるこの事績は各地に記録が残っており確認することができます。
316年~322年 課税の免除 仁徳記にあるカマドの煙が少ないのを見て3年課税をやめたという話。信ぴょう性は薄いですがもしかしたら実話かもしれません。結局6年停止したとあります。
335年頃 ヤマトタケル東北、北陸地方を視察 王としてではなく大臣武内宿禰として。東北や北陸の各地に痕跡があります。景行記25年の記述がこのことだと思われます。
342年 仲哀天皇即位 22歳。ヤマトタケルの次男。ヤマトタケルはこの時50歳で隠居のような身になったのかと思います。気長足姫(神功皇后)を皇后とします。日本書紀の仲哀記の初めの部分、白鳥の話があります。父を偲んで白鳥を献上させたが途中奪われたという話ですが、これはヤマトタケルが父と兄を殺害したことを暗示しています。
343年 敦賀に仮宮
仲哀天皇南海道巡幸
さらに山口県穴門豊浦宮へ宮を移す
敦賀の気比神宮。山幸彦の時代から由緒があり、この時期に拡大したのではないかと思われます。仲哀天皇、神功皇后、ヤマトタケルなどが祀られています。
その後仲哀天皇は紀伊(和歌山県)を経て穴門(山口県)へ。ここへ神功皇后を呼びます。3年ほど滞在しています。
346年 仲哀天皇熊襲を討つが勝てず
仲哀天皇崩御(26歳)
三韓征伐
この時神功皇后に神懸かりがあり新羅を討てと神託があったが、それに従わず熊襲を討って負ける(史実ではないと思う)。すぐ病に倒れ死亡。神功皇后、武内宿禰(ヤマトタケル)が三韓征伐へ。
347年 かご坂王、忍熊王の反乱 神功皇后が三韓征伐から帰国し誉田別(応神天皇)を出産。穴門を経て大和へ帰還すると、かご坂王、忍熊王が留守中に兵を挙げていた。武内宿禰が反乱を制圧。東日本の荒吐族と手を結びヤマトタケル不在の近畿を制圧しようとしたが失敗した戦争のようだ。
347年 神功皇后摂政元年(17歳) ヤマトタケル(54歳)は大臣武内宿禰として活動している。

成務天皇の治世

安積国造神社(成務天皇時代に建てられた)
安積国造神社(成務天皇時代に建てられた)

成務天皇は青年期、壮年期のヤマトタケルの姿です。年齢的にはヤマトタケル21歳から50歳までの時期にあたります。「成務」とあるように大和王権の確立に力を注いだ時期だと思われます。この頃目立った動きはしていませんが、全国に国造を設置して各地の領主を定め、治水や灌漑を行い田畑を開墾し、余った時間で陵墓(古墳)を作らせるという国家体制を築き上げたのだと思われます。陵墓を作らせるという労役により市民権が与えられ、衣食住などが保証されたのかと思われます。そうでなければ古墳という実質生産性のない構造物をあれだけの数作らせることは不可能だからです。そしてこれにより治安と雇用が安定し、耕作地は拡大して人口も増加し、社会生活にリズムが生まれてきました。

大安場古墳(4世紀中頃築造)
大安場古墳(4世紀中頃築造)

王と血縁にある各地の豪族に兵権が与えられ支配者層となり、その地域の民衆を古墳築造や治水、開墾などの労役で管理できるようになります。民は労役とは別に耕作や各種生産活動、商業活動を行います。戦争の危険が低くなれば生産力は向上して豊かになり人口も増えていきます。増えた人口は緊急時には武器をとり兵となって防衛力にもなります。この構造は世界各地の王国の統治制度と似たようなものだと思われますが、大和王権の大きな特徴は大規模な陵墓の築造にあると思います。これが日本人の勤勉性や忍耐力を育んだのかと推測します。

ただしヤマトタケルは即位時21歳です。王としての前半部分は数多くの過ちも犯したと思われます。武烈記には処罰が好きで様々な極刑を行い、国中が震え恐れたとあります。若くして王となり、しかもその経緯があまりにも不憫なため周囲も王のやることに口出しできない状態だったのだと思われます。多少のことは目をつぶっても時間をかけて王の怒りを収めなだめて、皆で支えて日本の王を作り上げようという雰囲気だったのではないでしょうか。
ヤマトタケル40歳前半の頃、武内宿禰として東北や北陸を視察しています。旅程は2年もかけた長期のもので、これも各地に遺跡が残っています。王となって20年がたち、自分の中で一つの区切りがついたのかと察します。そして王となる契機となった東征の足跡を再度巡り、遠き過去のこと、弟橘媛のこと、血気盛んな自身のこと、様々なことを回想されたのかと思います。40歳ともなれば当時は死期も見えてくる頃、人生を決算する意味合いが込められた旅だったのでしょう。しかしまさかまだ人生の半分にも達していないとは、この時は夢にも思わなかったでしょう。

仲哀天皇

気比神宮
気比神宮

仲哀天皇はヤマトタケルの第二子です。321年に生まれ王位についたのが22歳の時です。ヤマトタケルは当時50歳。もう息子に王位を譲ってもいいと思ったのかもしれません。

仲哀天皇は即位から4年後の26歳、熊襲を討とうとして敗北し、その直後病にかかって死亡したとされています。これも事実かどうかは少し疑問な点があります。ヤマトタケルは大臣武内宿禰として裏方に回りましたが、権力の実体はまだヤマトタケルが握っていたという雰囲気があります。敦賀に仮宮をたて、紀伊から南海道を経て穴門へ赴き、そこに宮を造って3年、九州で熊襲を討とうとして敗北し、神功皇后は三韓征伐へ向かう、というのはなにか景行天皇の足取りを逆にしたように感じます。

渡来人の王景行天皇により西日本は混乱状態に陥りました。その毒気がまだ世を覆っていたのかと思います。それを払拭するためにも日本国として軍を率い、三韓征伐を行うことは責務だと考えていたのかもしれません。これはヤマトタケルの意思であり、息子の仲哀天皇にその任を命じたのでしょう。しかし若き仲哀天皇はその直前に病に倒れてしまいます。

三韓征伐

三韓征伐を指揮したのは仲哀天皇の妃、神功皇后です。聡明で叡智、容貌も優れていたとあります。この時まだ若干16歳、武内宿禰が補佐を務めました。これは大和王権としての大規模な対外戦争であり年代は上記の通り346年です。西からの圧力に受身だった日本という国が、初めて反抗を試みた重要な戦争です。戦果としては諸説ありますが、その後の歴史を見ますと新羅、百済を属国にし、任那の支配権を強化することに成功したのだと思います。高句麗にも強い印象を与えたとも思われます。記紀では年代が不明なため神功皇后の存在を含めて史実かどうか疑問の声もありますが、こうやって年代を追っていくと346年になり、これは新羅の記録にも一致するので間違いない史実だと言えます。

まとめ

上記のようにヤマトタケルの即位から三韓征伐、神功皇后の摂政元年まで見てきました。空白の4世紀の前半部分が明らかになりました。悲劇的な即位から周囲に助けられ成長していったヤマトタケルの若き日が浮かんできます。そして実績を積んで自信をつけ、過去を見つめる旅に出ます。若き日の自身を思い返し、その葛藤に耐えられる精神力も身に付いたのでしょう。そして50歳を節目に自身は一歩引き、息子夫婦を補佐する立場になります。しかしその後の事績を見るとより積極性が増したようにも思えます。元来補佐をする役、軍師や大臣のような役回りが向いている人物なのかもしれません。50歳と言えば当時は高齢で死期も意識する頃だと思います。しかし裏方にまわり水を得たヤマトタケルはその後も活躍を続けます。大和王権は新羅、百済、高句麗、そして中国東晋などと交流を通じて国際社会へと歩み出していきます。つづく。

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