空白の4世紀③

大和王権と古墳

200mを超える大規模古墳
200mを超える大規模古墳

347年、亡き仲哀天皇の後を継ぎ神功皇后が摂政となります。まだ少女とも言える年齢ですので実務は武内宿禰(ヤマトタケル)が執り行っていたと考えるのが普通です。三韓征伐により日本は国際社会のひとつの国として歩みだしました。空白の4世紀の後半、日本は朝鮮半島の国家とわたりあい、国としてのアイデンティティを構築していった時期と言えます。その事績にも様々な国の名が登場してきます。しかしそれらの華々しい外交の記述だけに目を向けていては歴史の本質から遠ざかってしまうでしょう。国内では陵墓の築造が次第に大規模になっていきます。仁徳天皇陵の築造も開始された時期かと思います。そこにどれだけの労働力が動員されたのか、その働き方に無理はなかったのか、そういった記述されない部分にも思いを馳せなければならないと感じます。

年表(347年~400年)

以下日本書紀の記述から主要な部分を抜き出し、年代順に並べています。計算にズレが生じている場合がありますので、その年代の前後の事績と考えてください。

年表
西暦 出来事 備考
347年 神功皇后摂政元年(17歳)
磐余若桜宮(奈良県桜井市)に宮を遷す
ヤマトタケルはこの時54歳。難波の宮も並行して機能していたと考えられます。
348年 新羅から使者が来る 先の戦争での人質を取り返しに来た模様。記述からはお互い信頼できていない様子を感じます。
352年 隼別王子の反乱
武内宿禰、誉田別皇子と気比神宮へ
隼別王子の反乱は仁徳記にあります。これは内容から309年の武雄心命(オオウス)とヤマトタケルの争いの様子だと思われます。隼別皇子がオオウスです。
誉田別皇子(応神天皇)は若くして皇太子になっておりヤマトタケルも期待をかけていた様子です。この時も大宴会を開いたとあります。
354年 百済へ使者 仁徳記より。紀角宿禰を百済へ遣わします。国境を定め各種の記録を付けたとあります。新羅とは違い百済とは幾分友好的です。紀角宿禰は襲津彦などと対朝鮮外交で活躍しており、共に武内宿禰の子とされています。外交は重大事ですので親族に任せたのでしょう。
365年 上毛野田道を新羅へ派兵 仁徳記より。田道将軍と言われる人物です。
367年 上毛野田道を東北へ派兵 仁徳記より。田道将軍が伊峙の水門(石巻?)で討たれます。古墳文化は宮城県大崎市付近の大崎平野までとされていますので、この戦争と関連が深いと思われます。
369年 百済から使者が来る 神功記より。久テイら。同時期に新羅からも使者が来ており貢物の内容で揉めています。翌年の戦争の原因になっているようです。
370年 新羅再征 神功記49年の戦争の記述です。大きな戦果があったようです。また百済とともに戦ったとあります。攻めとったいくつかの国を百済へ与えており百済は朝貢を約束したとあります。
372年 七支刀をもらう 370年、371年と立て続けに百済から使者が来ており、百済へも使者を派遣しています。両国の友好的な様子が伺えます。2倍暦を用いて計算するとこの年に七支刀をもらったようです。
銘文にある「倭王旨」はヤマトタケルのことでしょう。「旨」は「うま(い)」です。武内宿禰の弟に甘美内宿禰(うましうちのすくね)という人物がいるとされていますが、双方ヤマトタケルの別名だと思われます。
377年 新羅を討ちに襲津彦を派遣 新羅の計にかかり襲津彦は新羅ではなく加羅を討ってしまったようです。襲津彦は王の怒りを恐れ帰国できなかったとあります。
380年 神功皇后崩御 享年50歳。若くして夫と別れながらもその事績からは力強さを感じます。
381年 応神天皇即位 36歳。ヤマトタケルの孫にあたります。この時ヤマトタケルは89歳です。
383年 高句麗、百済、新羅、任那から使節。韓人池を造る この頃高句麗が南下し百済が圧迫を受けています。応神記にある「百済が礼を失した」というのは高句麗に領土を削られたことを言っています。
388年 王仁渡来 王仁は百済における儒教の先生だったようで、経書をもって日本に渡来しました。高句麗が強勢になったため大和朝廷としても経書の研究が必要になったと思われます。
388年 弓月君が百二十県の人民を率いて帰化 秦氏の祖です。
390年 阿知使主(アチノオミ)が十七県の人民を率いて帰化 東漢氏の祖です。弓月君と阿知使主は帯方郡由来の漢人で多くの技術をもたらします。帯方郡は高句麗に滅ぼされており、その支配を嫌って日本に帰化したのでしょう。
390年 武内宿禰に弟の讒言 筑紫視察中の武内宿禰に謀反の疑いがあると、弟の甘美内宿禰が讒言する事件です。この時武内宿禰(ヤマトタケル)は90歳を超えており、とても謀反を起こすような年齢ではありません。ヤマトタケルの心中には兄(実父)オオウスを殺した罪の意識が強く残っており、その罪滅しの気持ちがこの架空の事績となって記述されているようです。また壱岐に似た人がいて身代わりとなって死んだとされる記述もありますが、これは高句麗のことで景行天皇と被らせています。それを死なすことで父景行天皇の負債を決算したという気持ちが見て取れます。
391年 広開土王碑の記述 広開土王碑は「百済と新羅は(倭の)属民なので倭に朝貢していた。よって391年海を渡って(倭を)破り百済と新羅を臣民とした」歴史の流れを見れば大筋このような文だと考えられます。高句麗はこの頃朝鮮半島を掌握し、更に海をわたって壱岐まで進出したようです。
394年 高句麗から使節が来る 上表文には「高麗の王、倭に教う」とあり太子はその無礼なことに怒ったとされています。
395年 武庫の船火災 応神記31年の記述です。高句麗に対抗するため500隻の船を集めたのですが、それを見た新羅の使者が危機を感じ放火した事件のようです。
398年 阿知使主を呉へ派遣 高句麗を経由して呉(東晋)へ向かったようです。
399年 ヤマトタケル死亡 107歳です。若くして王になり激動の時期を駆け抜けた世界に誇れる日本の王と言えるでしょう。
400年 応神天皇崩御
呉から使いが帰る
55歳です。死後呉からの使者が縫女とともに帰国したとあります。絹織物に価値を感じたのでしょう。ひとつの時代の終焉を感じます。

ここまで神功皇后から応神天皇、仁徳天皇の記述になります。年代が重なっていて一つ一つの事績を読みながら年代を当てはめていく必要があります。続いて履中、反正と続きますが、仁徳記の一部も5世紀の記述にあたります。例えば仁徳記の12年、高麗国から鉄の盾をもらった、というのは324年と考えるのではなく414年あたりの出来事かと推測します。
400年から458年までの天皇の在位はまだ明らかに出来ていません。仁徳天皇陵などは実際はこの時期に築造されています。458年が雄略天皇元年であることは間違いないようなので、これを手がかりにできるのではないかと思います。

神功皇后に込められた意味

韓国で復元された七支刀
韓国で復元された七支刀

神功皇后の治世には多くの戦争がありました。三韓征伐時16歳、まだ少女と言える年齢です。ヤマトタケルには他にも皇子はあり、それらの男子に皇位を任せることもできたはずです。

日本という国は縄文時代を通してずっと平和な時代を送ってきました。もちろん争いがなかったわけではないでしょうが、出土する骨などの遺物からも争いの痕跡がほとんど見られないといいます。紀元前930年頃から水稲文化を持った弥生人が西日本に進出してきました。当初弥生人は九州北部で細々と独自の生活を営んでいました。ゆっくりと東へと拡大していきますが、縄文人と協力し国作りをしていた時代もあります。国津神や三輪山などは双方が平和的だった時代の祭祀だと思われます。紀元前700年ころに大きな変動があり、天津神を信仰する天孫族が誕生します。天孫族はより侵略的であり弥生文化は東へと拡大のスピードを速めます。縄文人との抗争は激しくなり、その際多くの女性も犠牲になったはずです。

崇神天皇以降、今度は弥生人の国家が西からの圧力で崩壊していきます。ヤマトタケルの父であった景行天皇は九州一体の弥生人国家を次々と滅亡させていきました。景行天皇は近畿一体も制圧し、ヤマトタケルはその皇子として幼少期を過ごしました。若くして東征へと向かい、縄文文化とそこで生活を営む人々の姿を曇りのない視点で見ることもできました。日本の歴史と戦乱の原因を深く考察したのだと思います。

三韓征伐の際神功皇后は神懸かりにあいます。武内宿禰はこう尋ねます。「先ほど、新羅へ向かえば血を流さなくとも服従させることができると言った神は誰ですか?」するとこう答えました。「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(瀬織津姫)」他にもいるかと尋ねると、「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神(事代主)」他にもいるかと再度尋ねると、「日向国の橘の水底にいて、海藻のように若々しく生命に満ちている神、名は表筒男、中筒男、底筒男(住吉三神)の神」と答えました。こういった何気ない記述ですが、これらの神々を祀れば自ずから国が手に入るということは、国を取られた借りがあると解釈できます。そしてそれを指揮するのは年若い少女、神功皇后ということです。ヤマトタケルは日本の歴史を丁寧に背負ってこの戦争を遂行したと考えます。

老年期のヤマトタケル

50歳を節目に一線を退いたヤマトタケルですが、その後の事績を見ると大和王権はより積極的に活動をしている様子が伺えます。それぞれに深い洞察を感じるのでこの時期はヤマトタケルの意思で国が動いていたと思います。しかし事績を追っていくと次第に粗さも目についてきます。神功皇后が死亡し応神天皇が即位した頃はもう90歳間際です。偉大な聖王としての地位を不動のものとし、その意思には誰も逆らえない絶対的な権力を保持していたのでしょう。ヤマトタケルに溺愛されていた応神天皇でさえ、何を行うにもヤマトタケルの目を意識せざるを得なかったと思われます。日本と友好的であった百済は次第に高句麗の圧力を受けるようになります。領土を奪われたと報告を受けるたびに、老いたヤマトタケルは激怒し周囲を困惑させていたのかと推測します。広開土王碑によれば391年頃高句麗は朝鮮半島を掌握しました。ヤマトタケルは武庫に500隻もの船を集めさせ、高句麗への対抗姿勢を顕にします。しかしそれも火事により消失したときに、ヤマトタケルは自分の時代の終焉を感じたのだと思います。

死ぬ間際、呉(東晋)へ使者を出し縫女を求めたとの記述があります。自分の人生を振り返り、16歳で東征に出て、弟橘媛を失い、父と兄を殺して王位につき、なにも手がかりのないままに国を作りそして偉大な王となった、その人生の最後に何を求めたのか。それは日本の女性に美しい服を着せたかった、そんな人間ヤマトタケルの深い情を感じることができる記述だと思います。

まとめ

以上空白の4世紀とヤマトタケルについて、自身の研究で明らかになった部分を書いてきました。自分の知識を総動員しましたが、まだ知らないことも多くありその記述に間違いもあるかもしれません。ですがこの2倍暦を使った年代を求める手法は日本史を知る上で画期的なものだと思います。空白の4世紀を明らかにする上で確固たる足がかりになると思っています。是非私の研究を有効に活用してもらい、皆で真の日本史の姿を描くことができればと願っています。私も更に研究を続けていきたいと思います。ヤマトタケルの東征の詳細についてもまとめてみたいと思います。

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