占い、歴史、宗教などの研究をしています。

仏教

仏教の本質

仏教は日本人には馴染み深いものの、その教えの本質は何なのか、ということについては曖昧な感じがします。私が考えている仏教の重要な点というものを少しまとめたいと思います。

仏教は人間社会のみならず、魂や霊界なども含めた世界観、教義となります。人間は物質界に生まれ、死んでいきますが、基本的には五感で感じる世界のみしか認識していません。しかし本来人間は霊的な存在であり、肉体をまとって生きるこの地球での人生はある意味仮の姿、修行の場ということができます。物質界、地球は霊界から見れば副次的な世界であり、わかりやすく言えばゲームの世界です。この物質界で私たちは感覚を五感に制限され、いずれ老いる肉体を持ち、寿命が尽きれば霊界に戻ることになります。その目的は霊的な成長です。物質界で我々が経験し感じることは無駄なことではなく、少しずつ魂の浄化がはかられています。これは普段霊など意識しなくてもそうなっていることですが、仏教の教えはこれを意識して生きるための考え方、と言えます。本来霊的な存在と意識しなくても自分を実感できる物質界において、実は人間は霊的な存在であり、その霊性の向上を目的としてこの物質界へ生まれてきており、そう考えた場合の物質界での振る舞い方を、世界観を交えつつわかりやすく教えているものが仏教と言えます。

仏教の役割

ですが今の仏教は宗派も様々で教義も様々であり、その教え、そして目的すら本質からずれているように感じます。本来はこの仏教の世界観に基づき、現実社会を霊的な修業の場ととらえ、それに適したように社会制度を構築し、その意味をきちんと矛盾なく説明できることが仏教に求められた役割かと思います。

たとえば生まれた環境についての説明です。暴力的な親だったり、貧困の家庭だったり、先天的な障害であったりなどは何なのか。才能の不公平、環境の不平等、生まれつきのハンデ、こういったものを説明できて更にそれを生きる目的として前向きに捉えられるような社会制度、思想、教育の方法など具体的な手段にまで道筋をつけられる、仏教はそういった役割を果たさなくてはならないと思います。

修行の誤解

今から2500年前、釈迦が説いた仏教の教えは年月とともに色褪せ、様々な誤解から生まれた異端の教えが蔓延し、少なくとも日本においては仏教が人間社会に良い影響を与えるものではなくなってしまっているのだと思います。正法500年、像法1000年、末法1000年ともありますが、まさにこの通りになっているのではないでしょうか。仏教を学ぼうとすればまず「四諦八正道」という言葉を聞くこととなります。人生は苦であり、それを受け入れ正しく生きる、というものです。これは一つ間違えば大きな誤解を生む言葉だと思います。今日本にあるブラック企業の問題や学校でのいじめ問題、様々な現場ではびこる根性論、こういったものも「人生は苦」ということで片付けられる恐れがあります。

それを耐え忍んで正しく生きる、と言うのは個人の視点で言えばそう間違ったものでもないのですが、ではブラック企業の経営者の立場からするとどうなのでしょうか。経営者が無理をせずに経営を行い、社内でもルールを遵守し、さらに善を取り上げ悪を罰するという企業風土を作ればその会社は従業員にとって居心地の良い職場になります。部署一つとっても部長、課長などの管理職がまず自分の責任の及ぶ範囲でそれを行います。そういった職場、会社が一つ一つ増えることで社会は少しずつ健全になります。日本の企業がすべてそうなればブラック企業の問題はなくなります。

理想的で夢のような話ではありますが、ではこのように苦しみが取り除かれた社会、というのは仏教での「修行の場」とする物質界、人間社会のあり方と矛盾しないのか、と邪推してしまいます。ここが重要なところなのですが、人間はむしろ積極的にそのような苦を取り除いた世界を構築し、理想社会、地上天国を目指すべきなのです。地上天国が達成されたら修行ができない、ではなくて、物質界で修行を続けた結果地上天国が達成できた、ということなのです。ではそれはいつ達成できるのか、というとこれは人間の心次第、居心地の良い家庭も、無理なく健全な会社も、平和で安全な国家も、それぞれがその責任の及ぶ範囲で良くしようという心次第ということです。

仏教と儒教

仏教や儒教に馴染みの深い日本でも、双方の思想がリンクする部分がよくわかりません。しかし上のように見てみると、これは儒教の考え方と一致することがわかります。「修身斉家治国平天下」これこそが儒教も仏教も目指しているところだと理解できます。その手段として個々人が「一隅を照らす」ことに励めばついには地上天国をも達成できるということです。

釈迦はこの苦しい物質界から解脱するため一切の煩悩を振り払おうとし、「死後」にその恩恵を得られると考えました。孔子はこの地上社会、より絞って国、地域社会、家庭を良くすることを説きました。双方利点があり儒教はより現世を重視し、仏教はより死後を重視しています。しかし人間というのはもともと霊的な存在です。現世と死後を分けるのは物質、肉体というだけで、双方重なり合った世界だと言うことです。霊界で起きたことは物質界にも反映し、魂が物質界で感じたことは霊界へもフィードバックしているのです。「現世」や「死後」は環境の違いととらえ、物質や肉体がもたらす霊的な弊害を分析し、それを人間社会の仕組み、ルールへと反映していく必要があります。

仏教の世界観

そこで役に立つのが今まで培ってきた仏教の世界観です。六道輪廻、須弥山世界、因果応報など、現世では見えづらい霊的なルールを現実社会の法制度、教育制度、食文化などに反映させ、居心地の良く明るい地上世界を構築します。そこで肉体を持って生まれ生きることで霊的に成長し、また生まれ変わることを意識して寿命を終えます。もちろん物質世界には様々な不公平、不平等があるでしょう。それらの軋轢、差異こそが霊的な成長の機会を提供していると考え、悲観的にもならず過度な欲望も持たず前向きに生き、目の前の課題に取り組むことで霊的にそれらを克服していきます。

もし今生貧困で苦しむ課題を背負い、それを霊的に克服すれば次の転生では裕福な環境で生をうけるでしょう。そこでは裕福であるがゆえの誘惑や負の感情、例えば貧困者を怠け者と決めつけたり、さらに財産を増やそうという欲望を持ったり、財産を守るために肉親で争ったりなど、そういった人生を歩むことでまた違った魂の課題を克服することになるでしょう。

必死に生きていても自分自身の境遇に納得がいかなかったり、努力ではどうすることもできないような不遇な環境を前に生きる気力すら失いかけている、というときに仏教の世界観は貴重なヒントを与えてくれます。社会全体でこのような思想を共有し受け継いでいくことができれば、絶望の縁に立った人間を犯罪や自殺などから思い留まらせることができる防波堤となるでしょう。2500年もの長い年月、仏教が培った思想や教義をすべて無にする必要はなく、それらを整理し再構築することで、真に人間の魂の拠り所となる思想、世界観へと発展していけるのではないでしょうか。

上へ