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儒教

儒教の特徴

儒教というのも孔子から始まり2,500年以上の歴史があります。その当時中国大陸は数々の国が覇権を争う春秋戦国時代であり、そして数百年後、漢帝国が採用し以来東アジアにおける学問の基礎となりました。儒教はその本質を知れば、平和と人間の尊厳を追求し、それを合理的かつ簡易に習得できるよう細部まで工夫が施されていることがわかります。先人たちの知恵と努力がひしひしと伝わってきます。

しかし一方で、これも仏教と同じで誤った解釈も少なからずあり、また学問としての制度の在り方にも本質を伝えきれない部分が残り、これほどの偉大な思想体系であるにもかかわらず、現代において儒教が人間社会の進歩的発展に与える影響の小ささに懸念を感じます。なぜ儒教、論語を学ぶのか、孝や悌といった徳目が人間の心、そして社会へどう影響を及ぼすのか、これを為政者から市民まで納得させることができるのなら、儒教が社会へ与える良い影響は数倍、数百倍と計り知れないほど大きなものとなるでしょう。

儒教はわかりにくいのか、といえば一面で見ればわかりにくいと言えるでしょう。この真髄に触れることができるのは相当に磨かれた魂であり、わかりにくいのはある意味当然のことでもあります。一方で儒教は大変わかりやすい面もあります。論語を読んでみれば特別難しいことを言っているとは思えません。平易な言葉による口述であり、実社会に即した情景なので容易にイメージすることができます。まだ様々な経験を経ていない魂でも論語や孟子などの記述を胸にとどめておくことで、人間社会での振る舞いの規範とすることができるでしょう。社会の教義としては簡易で扱いやすく、しかしその真髄を知るのは難しいというのが儒教の特徴です。

儒教と科挙

「論語読みの論語知らず」という言葉もあるように、本来儒教の真髄は座学で学べることではないのかもしれません。なので平易な言葉で語られているにも関わらずどこか権威的で近寄りがたい教えにもなりつつあります。中国や朝鮮では科挙と呼ばれる官吏登用制度がありました。儒教の経典である四書五経を用いた試験であり、その難しさと試験突破後の栄誉栄達は今でも語られるほどです。日本ではこの科挙の制度は導入しませんでした。受験制度がもたらす弊害を考慮してのことだと思います。それはまさに受験地獄の様相であり、机上の試験で儒教の本質に迫れるのかという疑念もあったかと思います。

魂は霊界において母親を選び、さらに自らの人生に課される課題も選んで生まれてくるといいます。江戸時代のように、例えば武士の家庭に生まれたらそこで果たすべき使命を全うし、霊的に成長して生涯を終える、というのは、人生の目的を霊的成長ととらえれば理にかなっているかとも思います。ただでは農民に生まれたとして、自分の才能、例えば商才であったり学問の才能、科学への探求心などを持っていながらも生まれが農民なので農民を全うする、というのは少し酷とも感じます。自分の才覚を試したい、というのは魂の課題としても重要であり、さらに社会のおいても人材が適所で活躍できればより豊かで暮らしやすくもなるでしょう。商売で成功をおさめ多くの人に利便性を与えた、という結果がカルマを解消することにもなりえます。そういった社会の柔軟性、弾力性というのはある程度の幅で容認されるべきでしょう。

そこで科挙のような官吏登用制度にも合理性があるのかな、と思いました。受験は地獄と形容される世界でしょうが、そこへチャレンジして栄達を目指す、というのは自らが課すものであり、晴れて合格すれば大きな権力をもち、自分の意志で社会を良くも悪くもできるでしょう。儒教の真髄へ迫れるのは高度に磨かれた魂であり、それを正しく評価できる人物が採否を決めれば極めて優れた官吏集団によって国の運営が行われるでしょう。高度な魂には大きな責任を与え、自らが背負っている負のカルマを解消するために善政に貢献する、という理想的なシステムです。

別に官僚になることだけがすべてでもありません。自分の才能にあった仕事を選ぶこと、家業を継いで続けること、それぞれに課題があり自分を成長させます。ギャンブルで財を成すというのも一つの生き方でもあります。それは前世で不条理に財産を失ったカルマの埋め合わせかもしれません。いろいろな選択肢の中の一つとして官僚への道があり、それは誰もがチャレンジ可能なよう門戸が開かれ、厳しい試験を突破すれば国を動かすような大きな権力を持つことができる。今も国家公務員試験のような制度もありますが、試験科目は法律学や経済学であり、それを突破してもさほど力はなく、自らの保身や組織の維持に力を注いでいるのが現状です。儒教は正解がわかりにくいので採否を判断しずらいですが、正しく評価できれば高い霊格を選りすぐることが可能だと考えます。過去の遺物となりつつある儒教に再度力を与える手段として、科挙というものをもう一度再評価することも必要なのかもしれません。

経典と解説

儒教の経典、例えば論語などを子供のころに目を通しておくというのは社会にとって有益だと思います。社会を流れる緩やかな秩序として、そして長い歴史の中でこれを繰り返し学ぶという継続性からも評価できます。また国際社会においても、特に東アジアでは共通の言語として浸透しており地域社会の安定にも役に立つでしょう。儒教の経典はまずこういった表面的な部分で価値があると思います。

しかし本当に価値があるのはその奥の思想的、哲学的な部分となります。表面的な教義と哲学的な部分に少し距離があることで、無用な権威を生み出しているとも思えます。ここをつなぎ合わせる手段として経典の哲学的な意味を解説するというのが必要になってくるのかと思います。これは誰にでもできるようなものではなく、儒教の真髄に到達した人物が後世のために記述しておくべきことだと思います。これは平易であれば最善ですが、ただ普通の文章と同じように軽々しく扱われるようではそれも問題ではあります。私も論語や孟子など少しずつでも丁寧に解説していきたいのですが、フォルダにはパスワードを設定して一段高めています。別に儒教や論語ではなく新しく哲学体系として書くこともできなくはないでしょうが、先人の知恵を評価しつつ継続するということはより価値があることだと考えています。

これも私が時間を作って、丁寧にやっていきたいと思います。読みたい人は連絡ください。

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