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うお座の2,160年

うお座の時代

歳差周期のところでも触れましたが、今はうお座の時代から水瓶座の時代への移行期であると思われます。2015年はマヤ暦の区切りなど節目の年のようです。なので2015年を区切りとし、2160年の歴史を円の年表で描いてみました。2160年を5で割ると432年になります。その区切りを青い線で示してあります。主に日本の歴史を取り上げています。太陽や惑星の軌道は反時計回りですが、春分点は時計回りに進みます。なのでこの年表も時計回りです。五芒星を書きましたが、相生相剋の関係はこの年表でも生きていると思われます。そうした観点から見えない歴史を分析してみたいと思います。

魚座の2160年

前145年~287年

紀元前145年は司馬遷の生まれた年のようです。司馬遷は「史記」を記述しました。歴史を文字にして後世に残すことにより、人間や社会がどのような判断や理由で道を誤るのか、理想とすべき生き方や人物、歴史の大きな流れ方など、読者に共通の考え方や価値観を与えることで議論や判断の基準になり、その後の歴史に大きな影響を与え続けてきた書であると考えます。時代は前漢、中国では戦国時代が終わり劉邦が漢を打ちたて、約50年後の武帝の時代になります。儒学を国教とする過程の時期でもあり歴代中国王朝の統治の基礎が構築された時代と言えます。

その頃日本はどうだったのでしょうか。残念ながら正確な歴史の記述がないのでわからない点が多いです。時代区分は弥生時代、狩猟採集の縄文時代が西日本から徐々に農耕の時代へと変わりつつある時代です。秦の始皇帝は方士除福を東の海へ派遣しましたが、その一部が定住した頃でもあると思います。

徐福が渡来したことは間違いないようです。日本の各地にその痕跡を見ることができます。蓬莱山に不老不死の薬がある、そう信じて船出したのですから日本上陸後は現地の人との融和や摩擦を経ながらそれを求めたのだと推測されます。ホツマツタエでは長寿の薬として富士山にある千代見草というものが記されています。これを探し求めたのではないでしょうか。

紀元150年頃、中国の史書では倭国大乱が起こったとあります。これは西日本の弥生人、東日本の縄文人、そしていくつかの渡来人勢力などが入り乱れた争いだと思います。その混乱を収めて各勢力で共立したのが女王卑弥呼です。本当の意味で日本という国が初めて統一されたのはこの卑弥呼の共立ではないかと思います。

相生の関係ではこの前145年頃が287年頃を生ずる形となっています。287年頃は古墳時代の始まった時期です。前145年頃の出来事が古墳時代を生ずるのならこの頃それを生ずるような大きな出来事があったと考えることもできます。

287年~719年

この頃からまずは畿内を中心に古墳が作られるようになりました。卑弥呼の後に台与が立って国が治まったと魏志倭人伝にはあります。しかしその後100年ほど倭国の記述が中国の史書から消えます。空白の4世紀と呼ばれる時代です。最近の研究でこの古墳時代前半の歴史が見えてきました。後漢が滅び東アジアは群雄割拠の様相を呈します。日本もその影響をうけ、崇神天皇や景行天皇など渡来人の王が誕生しました。そんな中、日本に偉大な英雄が誕生します。それが伝説の人物ヤマトタケルです。その強烈なカリスマ性で大和王権を作り上げ、力の論理が支配する激動の時代にあって国を率い、日本を保ち続けました。

中国もその頃混乱期ではありましたが、史書に出てこない理由は中国に朝貢しなかったからだと思います。日本書紀を読み解いていけば決して国を閉じていたわけではなく、今まで以上に積極的に活動していた様子が伺えます。しかし日本にとってまず隣接するのは朝鮮半島の国々です。それを超えて中国と直接関わりをもつまでに至らなかったのでしょう。漢が力を持っていた時代は対外紛争などの調停にその威光を利用し、その返礼として朝貢を行っていました。しかし漢が滅んだことでその調停力が使えなくなり、独自の力で国を守る必要に迫られました。まずは国力をつけなければならない、中国を頼れないのであれば自分の力で立ち上がらなくてはならない、ヤマトタケルはこのような時代の要請に見事に応えました。

ただその負の側面も大きかったはずです。それが日本に残る無数の古墳から感じられます。そこには多くの労働力が動員され土木労働に従事していたのでしょう。そのような人々がどのように生活し働いていたのか、ということも日本人として知る必要があると思います。

ヤマトタケルの死後も日本は朝鮮半島の国々や東晋、隋、唐などと交流を深めていきます。大陸からは多くの文化が伝わります。儒教や仏教もこの時期に伝わりました。この400年は日本という国が国際社会で自立していく重要な過渡期だったと感じます。多くの経験を積み、自分を知りそして他国を知り、日本は大化の改新を経て奈良時代へとつながっていきます。

719年~1151年

大化という年号は695年から始まったようです。なので大化の改新はこの頃の出来事だと思われます。藤原不比等の業績は奈良時代から平安時代へと続く律令国家の基礎を作ったと評価されていますが、見えないところで大きな偉業を成し遂げた日本史上の偉人であると考えます。私の学生時代は大化の改新の年であった645年は乙巳の変と名を変えています。蘇我氏が滅ぼされたことは事実のようです。その時蘇我蝦夷は天皇記や国記などを燃やしたとあります。当然その頃も歴史書などの書籍はあり、歴史や文学などが記されていたでしょう。日本独自の文字も存在していたのだと思います。ヲシテ文字やアヒル文字などです。飛鳥時代から奈良時代にかけてこれらの書物が焚書され、藤原不比等を中心に日本書紀が記されました。日本の歴史書といえば日本書紀、そして古事記ということになります。また奈良時代は万葉集が編纂されました。古墳時代から貴族社会のみならず庶民の歌に至るまで4500首以上の和歌が収められています。成立時期不明と言われている竹取物語ですが、万葉集に「竹取翁の歌」が収められています。つまり竹取物語はその以前に成立していたと考えられます。成立時期から見ても作者は藤原不比等ではないかと私は思います。竹取物語が成立したこの時期、日本の文化はひとつの完成を見ています。そういう意味でも大化の改新というのは本当は何があったのか、かなり気になるところでもあります。

奈良時代、天平文化が花開きます。奈良時代は日本という国のスタートのような印象で私たちは認識しています。しかし奈良時代に至るまで、日本という国は様々な経験を積み、学び、成功や失敗を繰り返してきたことを忘れてはなりません。そしてその集大成としての天平文化についてより深い洞察と研究が必要である気がします。五行で言えば現代がこの時代を剋しています。聖武天皇が東大寺奈良の大仏を作ったのはこの時期になります。

その後平安京へと都は移され京都は1000年を超える都となります。先端文化であった唐の文化も見慣れてきた時期で、遣唐使を廃止し国風文化が花開いた時期でもあります。平安時代は藤原氏の貴族文化というイメージで戦争等の派手さはないのですが、それだけ太平な世の中だったのではと思われます。

1151年で区切られますが、この時期を前後して保元の乱や平治の乱など武家が台頭してきます。天皇の威光が相当弱まっていたと考えられます。古墳時代の始まりがこの時代を剋していますので、逆に見れば287年頃、天皇家の支配が始まったのではと推測できます。そしてこの時期源義経が生まれます。平家を打倒し鎌倉時代を成立させた功労者ですが時代の流れに乗れず歴史の表舞台から姿を消します。しかしチンギス・ハンとなって世界を席巻することとなります。

1151年~1583年

チンギス・ハンについては評価はわかれると思います。東洋に新たな秩序をもたらし、さらに東洋と中東、西洋の異文化を結びつけタタールの平和と呼ばれる安定した時代をもたらしました。一方で武力による破壊や殺戮、強奪など世界を恐怖に陥れ、力による支配の観念を今日まで引きずらせることにもなりました。チンギス・ハンがいなければ、もしかしたら核兵器などの大量破壊兵器は作られる必要がなかったのかもしれません。

義経が海を渡りチンギス・ハンになった、というのは近世知られたことでもあります。世界帝国を築いた人物が日本人だったというのは誇らしいようで、しかしその実態を知れば大きな闇を感じるのも事実です。その動機はどこにあったのか。これも日本人としてきちんと整理する必要があると思います。義経は本来誠実で目上を敬う真面目な人間だったのだと日本人は皆思っていることでもあります。

日本では鎌倉時代に入りますが、実権は北条氏が持つこととなります。宗教的には仏教が諸派乱立し力を失っていきます。また政治の中心は鎌倉へ移ったものの京都は依然健在であり不安定要因として残ります。後に天皇家は再度力を取り戻し建武の親政、そして足利氏の室町幕府と時代は移ります。南北朝の動乱は天皇家の正当性をめぐる対立であり、その力が依然健在であることを物語っています。南北朝が統一された後も足利政権は安定せず、応仁の乱から戦国時代へ入っていきます。

戦国時代は織田信長が覇権を極め、天下が治まると思った束の間、本能寺の変で明智光秀に討たれてしまいます。その後豊臣秀吉が天下人となりますがその死後徳川家康が台頭し、江戸幕府成立となります。

この期間は日本史上でも混乱期です。権力が安定せず仏教の教えも安易に流れる事となります。行き着いたのが戦国時代というのも納得がいきます。この時代の反省を踏まえて徳川家康は平和で安定した江戸時代を構築していったのでしょう。

1582年に本能寺の変で織田信長は明智光秀に討たれました。日本史上最大の謀反人として現在でもその動機を巡って様々な憶測がなされています。しかし一方で光秀は京都丹波の統治で善政を敷き、その恩恵が現在にまで語り継がれています。果たして謀反を起こすような人物だったのでしょうか。何か知られざる真相がある気がします。

五行で見ればこの時代は現在を生じる影響を与え、287年の古墳時代初期を剋しています。古墳時代は労役の時代、現在も日本は長時間労働や過労死など同じ問題点を抱えているように感じます。膠着して効率性を失い、異質な考えは排除されてしまいます。戦国時代は実力主義の時代です。研ぎ澄まされた戦国時代のような経験から閉塞した時代の解決策が見出されるのかもしれません。

1583年~2015年

明智光秀は謀反の結果人心を失い、落ち武者狩りの雑兵に竹槍で殺されたということになっています。謀反人の末路です。しかし実際はその後も生きており、家康の参謀であった僧侶天海がその人だという説も有力です。徳川幕府の基礎を固め、その後260年の太平の世を築いたのは天海、明智光秀だったのかもしれません。

将軍家を頂点とした徳川の統治機構は盤石で、朝廷は存続したものの力を与えず、長く太平の世が続きました。日本独自の文化も栄え、浮世絵など日本の個性がありながら世界を魅了する文化が発達しました。国を開く、例えば遣唐使もそうですが、海外の優れた文化を学び取り入れるというのは大切な事であり、世界の中の日本であることを確認することで客観的な視点ができ、他国の文化を尊重し異質なものを認め合う心も培われます。しかし遣唐使の廃止から国風文化が生まれたようにあるいは内に篭ってみて、身近で手に入りやすいものを加工して生活の質を上げたり、背伸びせずに美術や音楽を楽しんだりするというのはその国の文化の独自性を育むことになり、それが海外からも珍しがられ価値を持つということもまた事実です。江戸時代は貿易の門を狭くすることで日本という国の個性を伸ばす結果となりました。しかしそれを狭めすぎたことで大局的な視点を失い、江戸の統治は外側から崩される事となります。

江戸時代、水戸学が起こります。「大日本史」を編纂することで天皇家の正当性を再認識し、外圧からの危機感から尊皇攘夷運動へとつながっていきます。明治維新で再び天皇家が力を取り戻します。天皇が傀儡であるにせよ、その影響力に国民が従ったのであれば事実上天皇家の力と言えます。日本は急速に近代化し列強と共にアジア諸国への圧力を強めていきます。

この時期は飛鳥時代初期と関連がありそうです。遣隋使、「日出ずる国」と隋に国書を出しましたがその文化の差に圧倒され、日本は急速に大陸文化を吸収していきました。飛鳥寺や法隆寺などの仏教建築が建設されます。仏教についての扱いでも国論を二分し、仏教派と神道派で激しく争いました。百済が滅亡し大和は百済復興を掲げ唐と新羅と争い敗北します。十分に力を付けて勝算があっての事だったのだと思います。この流れは西洋の科学技術に圧倒され急速に近代化した明治以降の日本と共通する点が多くあります。最後はやはりアメリカに敗北してしまいます。日本は朝鮮を併合し中国大陸へと侵攻しましたが、この時代が飛鳥時代を剋しています。百済、高句麗の滅亡と大和の敗戦はこのように巡っているのだと思います。では報復戦争としてカルマを解消することは正しいことなのか。今後はビジネスや文化など形を変えて競争できる時代になることを願います。

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