弥生時代概略

時代背景

水稲伝播ルート
水稲伝播ルート

弥生時代というのは渡来人が稲作を広めた時期、と認識されています。西から徐々に稲作は広がりましたが、東日本は依然として縄文文化のままです。なので弥生時代と単純にくくるのは問題があると思いますが、現状は慣れている弥生時代という時代区分で考えていきたいと思います。

開始年代については最近の研究で紀元前930年頃、九州北部からとされています。これは韓国からの伝播でありさらに遡れば長江流域となります。この稲作文化は九州北部から徐々に東へ広がり、紀元前600年頃近畿地方へ至ったと思われます。九州も北部と南部では若干文化が違うようです。ゆっくりと東へと広がった弥生文化ですが、若狭湾、琵琶湖、伊勢湾のラインが境界だったようです。それから東は縄文人の生活圏です。

簡易年表

弥生時代簡易年表
弥生時代簡易年表

弥生時代の時代区分はわかりにくく、さらに最近になって開始年代も早まったので一層複雑です。なので私のイメージで3つに分けました。

前期は九州北部に水稲文化が渡来した時から近畿へ伝播するまで。

中期は近畿圏を含む西日本での水稲文化の定着期。

後期は徐福一行が渡来してから崇神天皇が即位するまでです。

考古学的には別の区分があるとは思いますが、弥生人と縄文人、弥生文化と縄文文化という構図から見ています。天津神というのは弥生人の祭祀です。渡来人が支配を正当化するには「天」から来たという信仰が必要だったのだと思われます。神話では高天原から天下ってきたということになっていますが、これは実際のところは朝鮮半島や中国大陸から船で来たことをさすのでしょう。発達した農業や技術、文化を武器にし、さらに天孫という信仰を使い、徐々に縄文文化を侵食していったのだと思います。

前期

水稲文化というのは以前の考え方では急速に広まったものと考えられてきましたが、最近の研究ではその速度はとてもゆっくりだったとのことです。特に前期はほとんど九州北部だけの文化でした。渡来してきたというのは新天地を求めてきたわけですから戦乱や対立から逃れてきたのでしょう。最初は九州北部でひっそりと独自の文化圏を構築していたのだと思います。

紀元前700年ころ、いわゆる天孫族が誕生します。ニニギホアカリなどの一族が九州の高千穂(宮崎県西臼杵郡高千穂町付近)を拠点とし勢力を拡大していきます。彼らは朝鮮半島経由ではなく南から海路九州へ至ったのだと思われます。水稲文化という面では九州北部の弥生人と同じであり、他にも文化的な共通点があったと考えます。

紀元前600年ころ、弥生文化は近畿まで伝播します。国譲り神話というのはこの時期の史実ではないかと思います。葦原中国というのは近畿のことです。記紀では前660年が神武即位ですが、これは紛らわしいですが嘘の年代だと思います。神武の東征という出来事は紀元前後の話で、辛酉という干支が正しいのなら神武即位は紀元前60年のことだと思います。記紀を編纂した時代にもこのことは分かっていたと思うのですが、あえて年代を前後させたのだと思います。

ニニギの三男にホオリという人物がいます。海幸山幸の神話で有名な山幸彦のことです。この人物が近畿へ弥生文化を広め定着させたのかと推測します。別名彦火火出見であり、これは神武天皇にも使われる名前でもあります。神武天皇は事跡がホオリと似ていたため、その名前を襲名したのかと思います。

中期

遮光器土偶
遮光器土偶
遠賀川式土器
遠賀川式土器

近畿へ稲作が伝播し弥生人はこの地に定住します。当初縄文人とは住み分けがなされていたようですが、徐々に文化は融合していきます。また九州ではウガヤ朝という王朝が興ります。ホオリの息子のウガヤフキアエズを始祖とします。首都は大分県でその詳細はウエツフミという文献から読み解くことができます。

前400年頃中国大陸では戦国時代に入り鉄器や青銅器なども伝わってきました。硬く美しい金属器は祭祀の道具にも文明の利器にもなります。稲作は徐々に広がったものの、東日本は以前縄文文化のままです。弥生式土器として有名な遠賀川式土器の分布が東西の分かれ目となっています。その境界が上の地図にもある若狭湾、琵琶湖、伊勢湾のラインです。この時期は西日本も複数の国家に分かれて争い、さらに東日本にとっても明らかな対立文化が現れ緊張状態が続いたのだと考えます。西日本では天孫という信仰で統治を正当化し、大陸から伝わった技術や文化を軸に国家を発展させました。東日本は以前の文化を守りながらも新しい技術や農業を取り入れ、弥生人と対抗しました。この時代二つの文化は一定の均衡が取れていたと考えます。

後期

弥生時代主要都市
弥生時代主要都市

紀元前221年、中国では秦が全国を統一します。始皇帝は不老不死の薬を求めて徐福を東の海へ派遣しました。その一部が日本に上陸し新たな文化を伝えます。蓬莱山というのは富士山のことのようで、静岡県に根を下ろします。登呂遺跡が徐福部隊の遺跡だと思われます。左の地図で酒折宮のところです。主に静岡県や茨城県など東日本を開拓したようです。東西のバランスは崩れ新たな極として関東東海地方で生活圏を拡大したのでしょう。

それまでの弥生人は稲作などの中国南部の文化、またさらに遠くの海洋文化を基盤としていましたが、今回渡来した徐福一行は中華文化を携えてきました。両者はお互いを認めつつも微妙な対立構造があったと推測します。遅れて来た徐福一行は中国の戦国時代を経ており戦争や農業などの実利面では進んでいたと考えられます。後期弥生文化には銅鏡と銅鐸の文化圏が存在します。推測ですが、銅鏡は中華文化と近く、銅鐸は初期の弥生人文化と近いのではないかと考えます。

思想的には不老不死の薬を求めてきたのですから輪廻転生の概念はなかったのだと思います。そもそも弥生人はホツマツタエに見えるように輪廻転生や魂の宗教です。神道につながりますが、元をたどればインドの哲学と近いようです。日本語はタミル語と言語的に近いとされています。そこには五七調の歌の文化も共通します。日本に仏教が根付いたのもここに遠因がありそうです。

しかし徐福一行が渡来したことでその価値観が大きく揺らいだのだと思います。先端技術や農業などを見せられ、より現実的な中国文化というものに傾いたのでしょう。ほどなく秦は滅び漢が中国を統一します。漢帝国の力と威光を背景に中国文化が主要な地位を占めます。この時期天孫を信仰していた人々は肩身の狭い思いをしていたのではないでしょうか。ホツマツタエもそうですが、日本書紀でも徐福の渡来については触れていません。この後期450年というのは技術的には中国文化の恩恵を受けたものの、日本の思想史にとっては暗黒期だったのではと考えます。

銅鏡
銅鏡
銅鐸
銅鐸

神武東征の伝説

池上曽根遺跡
池上曽根遺跡

紀元前1世紀ころ、九州地方で天変地異が相次ぎました。南海トラフ地震もこの時起こったようです。ウガヤ朝も大きな打撃を受け、占いにより近畿へ遷都しようとします。これが神武東征の伝説です。神武天皇(イワレヒコ)は日本国の初代天皇とされていますが、実際は九州で長く続いたウガヤ朝最終期の王という認識が正しいと思います。ウガヤ朝は多くの犠牲を払いながらもついに近畿を掌握します。この戦争は日本書紀に詳しく描かれており、比較的容易に史実として再構築することができそうです。

近畿を統治していた長髄彦は矢傷を受け東北へ退き、地族と融合して荒吐族となります。神武即位が紀元前60年の可能性が高く、池上曽根遺跡と関連があるのかと考えます。しかし近畿へ進出したウガヤ朝はそこを安定して統治することができませんでした。東北の資料では長髄彦の末裔が勢力を蓄え、後に近畿を奪還したとあります。神武即位から50年足らずのこととあります。ウエツフミも神武天皇の次の綏靖天皇の時代で突然記録が途絶えています。タギシミミの反逆と荒吐族の近畿奪還は関連した出来事の可能性もあります。そして近畿は欠史八代の混乱期に入ります。

弥生時代末期、倭国大乱が起こったとあります。年代は150年頃で欠史八代最終期の混乱のようです。孝元天皇、孝霊天皇、新羅の王子天日鉾などがこの混乱期の人物のようです。高地性集落や銅鐸の消滅など考古学からも変動が見られます。この時期何があったのかは明らかになっていませんが、その後の古墳時代へと繋がる重大な出来事が起きていると思います。これはまだまだ研究の余地がありそうです。

卑弥呼の共立

倭国大乱が終息し卑弥呼の共立へとつながります。卑弥呼は日本書紀に見られる倭迹迹日百襲姫命のことです。倭国大乱により日本国内のそれぞれの立場、初期の弥生人、長江流域からの呉や楚の移民、新羅や徐福の勢力、東日本の縄文人などがそれぞれの立ち位置を認識し、争いを収める最善の方法として卑弥呼を共立したのだと思います。国内は束の間の平和の時代が到来したのでしょう。

しかしそれとは対照的に対外事情は混迷の度合いを深めていきます。不変とも思われた漢王朝も衰退の兆しが見えてきて、黄巾の乱など国家を揺るがすような大きな混乱が起こります。220年ついに後漢が滅びます。これは日本や朝鮮などの東アジア地域にとっても新たな動乱の幕開けとなります。漢民族の支配が揺らぎ新たな秩序へ向けてそれぞれが自由に活動を始めます。崇神天皇というのもそういった時代背景に乗って力をつけ、ついに倭国の王になったのだと思われます。

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