弥生時代から古墳時代へ

時代背景

徐福の渡来後を弥生時代後期としましたが、その後の400年ほど日本の歴史はほとんどわかりません。東日本の縄文人と西日本の弥生人、そして東海地方の中国系移民の国と大きく3つの勢力があったと思われます。竹取物語にある宮とは富士山の近くにあるとされています。これは酒折宮が当時一番発展していたことを物語っているような気もします。ヤマトタケルも東征後、尾張で酒折宮の図面を描かせ宮を作ったとあります。当時は憧れの先進文化だったのでしょう。しかし後漢が滅んだことでこの時期の国内における中国文化はなかったことになっています。この頃日本ではどのような意識の変化があったのか、様々な資料を元に仮説を立ててみたいと思います。

弥生時代末期253年まで

年表
西暦 出来事 備考
153年 倭迹迹日百襲姫誕生 卑弥呼は倭迹迹日百襲姫のことです。孝霊天皇の子で強い霊能力のあった巫女だと思われます。
173年 卑弥呼が新羅へ使者※数え21歳 この時期は倭国大乱の時期です。孝霊天皇は吉備国(岡山県)との関わりが深い人物ですので吉備国の女王として使者を出したのだと思われます。
180年頃 卑弥呼を共立※20代後半 倭国大乱が収まり卑弥呼を共立しました。この頃の日本は数多くの国に分かれており、その中でも東北の勢力、荒吐族が西日本に侵攻して倭国大乱となりました。卑弥呼というのは日の巫女のことで、これは弥生人の祭祀だと思われます。
193年 飢饉で新羅へ難民 新羅の記述による。この頃韓国は三韓(馬韓、辰韓、弁韓)と呼ばれる国があり、それぞれも複数の国に分かれていたようです。その中でも新羅(辰韓)は秦の苦役を逃れてきた移民の国で、一応国家としての体裁が整っていたのだと考えられます。
204年 後漢が朝鮮に帯方郡を設置 場所については色々説があるようです。今のソウルではないかと思います。
220年 後漢滅亡 三国志の時代です。当時東アジアは漢の力が圧倒的で周辺国はその力に服すことで秩序が保たれていたのだと思われます。後漢が滅ぶというのは大事件であり、重しが取れたような感覚になったのではないでしょうか。中国系渡来人は徐々に力を失っていきます。
220年頃 崇神天皇誕生 崇神天皇は韓半島出身だと思われます。東日流外三郡誌ではカラクニ王とあります。加羅、伽耶つまり弁韓と関係が深いと思われます。
238年 卑弥呼が初めて魏に使者※86歳 後漢が滅んだとはいえ魏はその文化を受け継ぎ強大です。親魏倭王の金印と銅鏡100枚をもらいました。この後魏との交流が続きました。
240年 帯方郡から魏の使者 この頃博多湾交易が活発化。後漢の滅亡で韓国と九州の交易が自由になったと思われます。
243年 魏へ復遣使
244年 豊鍬入姫誕生 魏志倭人伝にもあるトヨは豊鍬入姫のことです。
247年 帯方郡へ援軍を要請 卑弥呼の勢力と崇神の勢力の戦争があったと思われます。崇神記にある武埴安彦の反乱がこの頃の戦争の記述ではないかと思います。
248年 卑弥呼死亡※96歳
崇神天皇即位
247年と248年に日蝕がありました。日巫女なのでその死と関係が深いのかもしれません。崇神記にある「倭迹迹日百襲姫が大物主に恥をかかせた」というのは倭国が外国の勢力(崇神)に負けたことを言っているのだと思われます。崇神天皇が畿内を掌握したのがこの頃でしょう。
249年 疫病で国民の半数が死ぬ
天照と大国魂を宮外へ祀る
トヨ6歳(2倍暦では13歳)で斎王に
魏志倭人伝にも卑弥呼の死後の混乱したとあります。半数が死亡というのは大げさだとしても実際にかなり混乱したのだと思います。天照は弥生人の祭祀、大国魂は縄文人の祭祀です。宮外に祀るということもやはり崇神が外国の勢力であることを物語っています。
魏志倭人伝にもある卑弥呼の宗族トヨが6歳(2倍暦では13歳)で斎宮になります。ここで2倍暦というのが出てきますが、弥生人の年の数え方は365日で2年と数えていたようです。これは熱帯地方由来で四季がないなどの影響なのか、二毛作からきたものなのか、いずれにせよこの2倍暦というのが日本書紀を読み解く鍵となります。
250年 オオタタネコ出仕 オオタタネコは大物主の子孫。大神神社の斎主となります。またホツマツタエの編者でもあります。これは弥生時代後期、中国文化に席巻され冷遇されていた思想の再構築を任されたのだと思います。
252年 箸墓古墳の築造開始
四道将軍を派遣する
箸墓古墳が公共事業のような形になりその後も古墳が作られ続けたのかもしれません。為政者からは治安対策になり、国民にとっては就労機会だったのでしょう。強制労働で嫌々作っていたわけではないのかもしれません。そうであれば国内で20万とも言える古墳築造も理解できます。
253年 御肇国(ハツクニシラス)ミマキ天皇の世と称えられる 治安や雇用が安定したのでしょうか。異族の人がたくさん来て平和になったともあります。様々な視点や価値観が持ち込まれ思想的にも開放感が生まれたのかもしれません。

卑弥呼

箸墓古墳
箸墓古墳

卑弥呼は倭国の女王として有名であり、一方で謎の残る人物でもあります。日本書紀では卑弥呼が誰か明確にはわかりません。色々な説がある中でも倭迹迹日百襲姫は有力視されています。私も卑弥呼は倭迹迹日百襲姫だと考えています。箸墓古墳の被葬者です。日本書紀も卑弥呼を倭迹迹日百襲姫とすることで読み解くことができます。

卑弥呼は孝霊天皇の子とされています。孝霊天皇は吉備国での伝承が多く伝わっており、卑弥呼もその地方に関連のある人物だと推測できます。しかしこの時期は倭国大乱の時期であり、様々な勢力が入り乱れて最終的に卑弥呼を共立したとされています。それぞれの勢力が色々と妥協していると思われるので、本当に孝霊天皇の子かどうか、というところまで可能性を広げておく必要があります。

人物像としては予知能力などの霊能力がある巫女であったと思われます。96歳まで生きており、さらにその年まで権力を離さなかったわけですので政治力もあったのでしょう。しかし当時は後漢も滅び既存の価値観が揺らいでいた時期でもあります。畏怖されながらも晩年はカリスマも衰えたのではないでしょうか。死んだとされる248年前後には2度日蝕がありました。日の巫女であるが故に太陽が欠ける現象で求心力も失われたのかもしれません。

古墳の原型

静岡県沼津市の高尾山古墳
静岡県沼津市の高尾山古墳

箸墓古墳は卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)の墓です。古墳の原型でもあります。この古墳というのは現代でも謎で、お墓なのは分かるのですがなぜあのような形をしているのか、なぜあれだけたくさん作られたのか、まだ色々と解明できていない点があります。円形か方形かなど地域的な特徴もあります。また方向もバラバラでそれも気にかかります。あれだけの構造物ですので作る前に測量をするでしょう。円形部は北を向ける仕様にしたくもなります。あの形に至った経緯を解明することは、当時の日本人の死生観を知ることに繋がると思います。

静岡県沼津市に辻畑古墳(高尾山古墳)というものがあります。この古墳は箸墓よりも古い230年ころ築造されたといいます。静岡県は徐福系列の国家で当時国内では最先端の文化レベルを持っていたと推測します。箸墓古墳もこれを真似て作った可能性があります。卑弥呼の墓も建設当初は円墳だったともあるので、残りの部分は後に付け加えた可能性もあります。

箸墓古墳が古墳時代初期を代表する古墳だということは間違いなく、初期に築造されたにも関わらずその規模は全国でも11位ということです。卑弥呼は相当な権力を有していたと推測できます。卑弥呼の時代とその死は日本史の大きな転換期だったことは間違いありません。

250年頃の九州地方

弥生時代末期の九州地方
弥生時代末期の九州地方

魏志倭人伝では倭国へ至るまでいくつかの国を経由します。以下のように比定できます。

  • 対馬国:対馬
  • 一支国:壱岐
  • 末廬国:唐津市
  • 伊都国:糸島市
  • 奴国:福岡市
  • 不弥国:宇美町
  • 投馬国:出雲市

ということで邪馬壹国は近畿だと考えられます。末廬国と伊都国を青で色付けしたのはここは漢や新羅と親しい国だと考えられるからです。漢に力があった頃はこの青線のルートで交易をしていました。オレンジの線は博多湾交易です。こちらは漢が滅んでからの交易路で漢の支配から自由になった倭人、韓国人などの航路です。このように秩序がゆるくなる中で崇神天皇が力をつけ倭国を制します。漢民族の衰えとは対照的にほかの民族が活発に活動するようになります。

ホツマツタエ

ホツマツタエに見られるフトマニ図
ホツマツタエに見られるフトマニ図

ホツマツタエという書物は漢字以前の文字、いわゆる神代文字で書かれた叙事詩です。これは上記年表にもあるオオタタネコが編纂したもので、古事記や日本書紀の土台になった書だと思われます。完成は70年ほど後の320年前後だと思われます。

崇神天皇が即位し疫病や反乱など国内は乱れました。なにか霊的な事象だと考えたのでしょう、夢のお告げを聴いてオオタタネコを探し出したとあります。大物主の子孫ということで出雲と関係が深いと思われます。出雲は国譲りで葦原中国を天津神へ明け渡します。その後神武東征でも日向の勢力に追われ、一部は津軽に逃れ荒吐族となります。ではホツマツタエは東日本よりの記述が多いかといえばそうでもなく、津軽へ逃れた長髄彦も悪く書かれています。ただし高天原は東北となっているなど東日本にも配慮した記述になっています。内容では陰陽五行説や干支など中国文化の影響も見受けられます。

これは徐福渡来以降日の目を見なかった弥生人の思想を元に、渡来した中国文化を混ぜ合わせ、東北を高天原とすることで統治に正当性を持たせ、しかし東日本の荒吐族とは対立状態にあるので天津神を仰いでいるという複雑な事情を感じます。なので記述をまともに受け入れると混乱してしまいます。

ですが日本書紀以前の歴史書として重要な資料であることは間違いありません。ヲシテ文字など独自の文字があったこともわかります。ほかの資料も組み合わせて客観的に分析する必要があると思います。

崇神天皇

3世紀頃の朝鮮半島
3世紀頃の朝鮮半島

崇神天皇はミマキイリヒコと言います。任那との関連が深いと思われます。任那(加羅、伽耶)は弁韓と言われていた地域で辰韓の派生国です。当時は複数の国に分かれていたとあります。鉄を産するのが大きな特徴で、周辺の国々も鉄を求めて弁韓と交易を行っていたようです。

ホツマツタエでも日本書紀でも崇神天皇は日本人(倭国人)であるかのようになっていますが、実際は弁韓からの渡来人でしょう。東日流外三郡誌ではカラクニ王とあります。単純に考えて加羅国でしょう。上の年表でも書きましたが崇神記にある「倭迹迹日百襲姫が大物主に恥をかかせた」という記述は卑弥呼の勢力が外国の勢力(崇神)に負けたことを言っています。なので国津神の大物主が出てくるのです。九州の人だとしたらこのような表現は使わないはずです。

また気になるのが垂仁記にあるツヌガアラシトの話です。加羅国の人で出雲から若狭湾に流れ着いたのですが、帰国時に崇神の名からとって国名を任那(ミマナ)にした、というあらすじです。ホツマツタエでは崇神天皇の項に記されています。あらすじはほぼ同じですが言葉が通じず静岡県酒折宮へ通訳を借りに行っています。崇神がカラクニ王なら同じ加羅国のツヌガアラシトとも言葉は通じるはずです。これは崇神が外国人であることを曖昧にするために書き加えられたのかと考えます。その後任那は日本の勢力下におかれるので日本側の記述だけが残ったのでしょう。またツヌガアラシトは実務能力に長けていたともあります。

崇神天皇が即位してすぐに疫病の発生や反乱などが起こったとあります。国民の多くが死に、ホツマツタエでは「民散る」とあります。霊的なもの、祟りだと捉えたのでしょう、天照と大国魂を宮外へ移します。魏志倭人伝でもトヨ(豊鍬入姫)を立てて争いが収まったとあります。崇神という名にも「神を崇拝した」との意味合いが見えます。力で倭国を制服したものの統治に苦心した様子が伺えます。その後箸墓古墳を作ることで公共事業のような形になり治安や雇用が安定したのでしょう。

その後崇神天皇はどうなったのでしょうか。266年に女王が晋へ遣使を送ったとあります。この女王はトヨでしょう。崇神天皇は実務的な大臣のような職でそれを支えたのではないでしょうか。とりあえずここまでが弥生時代末期から古墳時代への移行期となります。この後さらに激動の時代へと移ります。

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