空白の4世紀-年表
最近の研究でわかったこと
今回空白の4世紀を整理している中でいくつかわかったことがあり、年表も修正しています。1つ目はアスス暦の725年頃(西暦300年頃)から843年(西暦359年最終記述)までについてです。以前からこの年代はおかしいと感じていましたが、これは西暦350年頃、三韓征伐から帰還したヤマトタケルが歴史書の編纂を行い、その時に書き加えられたものだと考えるようになりました。私の計算式に当てはめれば、例えば垂仁天皇の崩御はアスス暦787年(西暦331年)、翌年のアスス暦788年(西暦331年)景行天皇が即位ということになっています。そのまま景行天皇の治世が続き、843年(西暦359年)に完成したホツマツタエを奉ったという流れです。しかし実際は垂仁天皇は290年頃に、景行天皇は311年頃に亡くなっていると思います。その後はヤマトタケルが実質皇位を継承し、342年に仲哀天皇に皇位を譲っています。しかし本当のことを書くことが出来なかったため、垂仁天皇を331年まで在位させ、その後は景行天皇が在位していたと引き伸ばしたのでしょう。そのようにして読むと、景行天皇の九州平定やヤマトタケルの東征なども新たな視点で見ることが可能となります。それは後で説明しようと思います。
2つ目は神功皇后紀の干支2運繰下げ説についてです。神功皇后紀の特定の時期は干支が2運、つまり120年ずれていて、そう読むと4世紀後半の百済王の記述などが合致するという説です。そもそも私は神功皇后の享年が100歳なので、これは2倍してあると考え、そこから機械的に年表を割り出していましたが、神功皇后紀の特定の時期だけはそれが当てはまらず、干支2運繰下げ説を採用するべきだとわかりました。なので神功皇后の死後も神功紀が続くというおかしなことになりますが、こちらの方が正確だと思います。
下記がそれらを踏まえた新しい年表となります。
空白の4世紀-年表
| 年表 | ||
|---|---|---|
| 西暦 | 出来事 | 備考 |
| 266年 | 泰始2年、晋へ朝貢。 | 倭の女王ということで、豊鍬入姫命だと思います。これ以降413年まで、中国の史書から記述が途絶えます。 |
| 282年 | 垂仁天皇即位 | 崇神天皇から垂仁天皇への皇位の継承は自然なものではないと思います。垂仁天皇は崇神に倒された卑弥呼のヤマト国を継承する人物だと思います。垂仁天皇の即位はもっと前かもしれません。 |
| 283年 | 狭穂彦の反乱 | 垂仁紀4年。狭穂彦の反乱は崇神天皇から垂仁天皇への皇位継承と関連があると思います。 |
| 283年 | 熊襲の反乱 | 景行紀12年からの記述です。九州での出来事で、景行天皇が山口県から西征し九州を侵略していきます。 |
| 284年 ~ 290年 |
景行日向の高屋宮を拠点とする | 景行天皇はここを拠点とし九州南部、熊襲、隼人などを征服していきます。 |
| 285年 | 野見宿禰の相撲の話 | 垂仁紀7年の記述。東日流外三郡誌にも記されています。相撲の起源でもあります。 |
| 286年 | 但馬の神宝を見せてもらう | 垂仁紀88年の記述。新羅の国からもたらされた但馬の神宝。また別に崇神60年には出雲の神宝事件があります。「神宝を見る」というのはその国を滅ぼしたということだと思います。 |
| 287年 | 垂仁天皇タジマモリを東国へ遣わす | 垂仁紀90年。タジマモリは新羅王子天日槍の5世孫。天日槍は150年ころ、孝霊天皇などと同世代の人物だと思います。タジマモリは垂仁天皇の信頼厚い人物だったと思われます。5年後帰国しますがすでに垂仁天皇は亡くなっていました。 |
| 290年 | 景行天皇大和へ | 景行紀19年。景行天皇は九州一体を平定し、次は大和へ向かいます。穴門、吉備、難波、柏(紀の国)というルート。現在の和歌山市に滞在。 |
| 292年 | 垂仁天皇死亡 | 垂仁天皇の死亡時期については景行天皇の即位と同時期とみてのことで、まだ根拠が薄いです。垂仁天皇の陵墓は宝来山古墳だと思われます。 |
| 293年 | 景行天皇即位 | 近畿一体も勢力下におきます。 |
| 293年 | ヤマトタケル誕生 | 小碓尊、日本武尊とも書かれる。武内宿禰でもある。ヤマトタケルが一般的なのでそう書きます。 |
| 294年 | 倭姫2代目斎宮に | 垂仁紀25年。豊鍬入姫から天照を離し倭姫に付け伊勢に祀らせる。豊鍬入姫は51歳、倭姫は5歳。豊鍬入姫は倭姫の伯母となる。これは垂仁紀にありますが、景行天皇の治世です。崇神天皇の行為に習ったのでしょう。 |
| 298年 | 大碓命を美濃へ派遣 | 日本書紀では景行紀4年の記述。神骨の娘姉妹が美しいと聞き大碓命を遣いにやりますが、大碓命はそれを密かに召して復命しませんでした。 |
| 308年 | ヤマトタケル東征 | この時16歳。313年の即位から逆算し、この時期だと思います。吉備武彦、大伴武日がサポートをします。 |
| 309年 | ヤマトタケル帰還し尾張滞在 | この時17歳。尾張で宮簀姫を妻に。宮簀姫はヤマトタケルが東征へ向かうときに出会っていて結婚を約束していたようです。尾張でしばらく滞在しています。 |
| 310年 | ヤマトタケル死を偽装 景行天皇死亡 |
この時18歳。草薙の剣を置いて伊吹山へ。病にかかり三重県能褒野で死亡。景行天皇は大碓命、もしくはヤマトタケルに殺されます。 |
| 311年 ~ 312年 |
空位 | 仁徳天皇即位前、菟道稚郎子と皇位を譲り合ったとあります。実際はヤマトタケルと大碓命の争いでしょう。 |
| 313年 | ヤマトタケル即位 | 成務天皇でもあり仁徳天皇でもあります。宮は高穴穂宮(滋賀県大津市)か難波高津宮(大阪市中央区)かと思われます。 |
| 313年 | 楽浪郡、帯方郡滅亡 | 高句麗による。楽浪郡、帯方郡は漢民族の出先機関です。朝鮮半島での漢民族の衰えは決定的となります。 |
| 314年 | 成務天皇全国に国造を設置 | 成務紀5年。成務天皇(ヤマトタケル)によるこの事績は各地に記録が残っており確認することができます。 |
| 321年 | 仲哀天皇生まれる | ヤマトタケルと両道入姫の次男です。 |
| 332年 | 神功皇后生まれる | 近江周辺の豪族の娘のようです。 |
| 340年 | 五百野皇女に天照大神を祭らせる | 景行紀20年の記述。54歳になった倭姫命から天照大神を離し、7歳の五百野皇女に付けました。五百野皇女は磐衝別命の孫にあたります。 |
| 342年 | 仲哀天皇即位 | 22歳。皇后両道入姫の次男。ヤマトタケルはこの時50歳で隠居のような身になったのかと思います。気長足姫(神功皇后)を皇后とします。 |
| 343年 | 敦賀に仮宮 仲哀天皇南海道巡幸 さらに山口県穴門豊浦宮へ宮を移す |
仲哀紀2年。敦賀の気比神宮。山幸彦の時代から由緒があり、この時期に拡大したのではないかと思われます。仲哀天皇、神功皇后、ヤマトタケルなどが祀られています。 その後仲哀天皇は紀伊(和歌山県)を経て穴門(山口県)へ。そこへ神功皇后を呼びます。3年ほど滞在しています。 |
| 343年 | 武内宿禰東北、北陸地方を視察 | 景行紀25年の記述。武内宿禰は別行動で、気比から北上し会津を経て宮城へ。南下して茨城を経て帰国というルートだと思います。皇位を譲り少し自由になったのかと思います。 |
| 346年 | 仲哀天皇熊襲を討つが勝てず 仲哀天皇崩御(26歳) 三韓征伐 |
この時神功皇后に神懸かりがあり新羅を討てと神託があったが、それに従わず熊襲を討って負けてしまいます(史実ではないと思う)。仲哀天皇はすぐ病に倒れ死亡。神功皇后、武内宿禰(ヤマトタケル)が三韓征伐へ。 |
| 346年 | 応神天皇生まれる | 神功皇后は三韓征伐から帰国し筑紫で出産します。 |
| 347年 | かご坂王、忍熊王の反乱 | 三韓征伐から帰国し穴門を経て大和へ帰還すると、かご坂王、忍熊王が留守中に兵を挙げていました。武内宿禰が反乱を制圧。 |
| 347年 | 神功皇后摂政元年(17歳) 磐余若桜宮(奈良県桜井市)に宮を遷す |
ヤマトタケルはこの時54歳。難波の宮も並行して機能していたと考えられます。 |
| 349年 | 新羅から使者が来る | 神功紀5年。先の戦争での人質を取り返しに来た模様。記述からはお互い信頼できていない様子を感じます。 |
| 353年 | 武内宿禰、誉田別皇子と気比神宮へ | 神功紀13年。誉田別皇子(応神天皇)は若くして皇太子になっておりヤマトタケルも期待をかけていた様子です。帰国後大宴会を開いたとあります。 |
| 353年 | 百済へ使者 | 仁徳紀41年より。紀角宿禰を百済へ遣わします。国境を定め各種の記録を付けたとあります。新羅とは違い百済とは幾分友好的です。紀角宿禰は葛城襲津彦などと対朝鮮外交で活躍しており、共にヤマトタケルの子だと考えます。外交は重大事ですので親族に任せたのでしょう。 |
| 365年 | 上毛野田道を新羅へ派兵 | 仁徳紀53年。田道将軍と言われる人物です。新羅本紀における364年の記述と対応するかもしれません。 |
| 366年 | 斯麻宿禰を卓淳国へ遣わす | 神功紀46年より。卓淳国から百済まで至り、両国の友好を深めたようです。 |
| 367年 | 百済・新羅が朝貢 | 神功紀47年。久氐ら。貢物の内容で新羅と揉めています。369年の戦争の原因になっているようです。 |
| 367年 | 上毛野田道を東北へ派兵 | 仁徳紀55年。田道将軍が伊峙の水門(石巻?)で討たれます。古墳文化は宮城県大崎市付近の大崎平野までとされていますので、この戦争と関連が深いと思われます。 |
| 369年 | 新羅再征 | 神功紀49年の戦争の記述です。大きな戦果があったようです。また百済とともに戦ったとあります。千熊長彦は百済へ至り礼遇され、百済は朝貢を約束したとあります。 |
| 372年 | 七支刀をもらう | 370年、371年と立て続けに百済から使者が来ており、百済へも使者を派遣しています。両国の友好的な様子が伺えます。 銘文にある「倭王旨」はヤマトタケルのことでしょう。「旨」は「うま(い)」です。武内宿禰の弟に甘美内宿禰(うましうちのすくね)という人物がいるとされていますが、双方ヤマトタケルの別名だと思われます。 |
| 375年 | 百済の近肖古王が死亡 | 神功紀55年。三国史記と年代が一致します。翌年貴須王が即位します。 |
| 381年 | 神功皇后崩御 | 享年50歳。若くして夫と別れながらもその事績からは力強さを感じます。 |
| 381年 | 応神天皇即位 | 36歳。ヤマトタケルの孫にあたります。この時ヤマトタケルは89歳です。 |
| 382年 | 新羅を討ちに襲津彦を派遣 | 神功紀62年より。新羅の計にかかり襲津彦は新羅ではなく加羅を討ってしまったようです。襲津彦は王の怒りを恐れ帰国できなかったとあります。 |
| 384年 | 百済の貴須王が死亡 枕流王が即位 |
神功紀64年より。三国史記の記述と年代が一致します。さらに翌年枕流王が死亡し、辰斯王が即位します。 |
| 384年 | 高句麗、百済、新羅、任那から使節。韓人池を造る | 応神紀7年より。この頃高句麗が南下し百済が圧迫を受けています。応神紀にある「百済が礼を失した」というのは高句麗に領土を削られたことを言っています。 |
| 388年 | 弓月君が百二十県の人民を率いて帰化 | 応神紀14年。秦氏の祖です。新羅の妨害があり人民が日本に着いたのは翌年になります。 |
| 389年 | 王仁渡来 | 応神紀16年。王仁は百済における儒教の先生だったようで、経書をもって日本に渡来しました。高句麗が強勢になったため大和朝廷としても経書の研究が必要になったと思われます。 |
| 391年 | 阿知使主(アチノオミ)が十七県の人民を率いて帰化 | 応神紀20年。東漢氏の祖です。弓月君と阿知使主は帯方郡由来の漢人で多くの技術をもたらします。帯方郡は高句麗に滅ぼされており、その支配を嫌って日本に帰化したのでしょう。 |
| 391年 | 広開土王碑の記述 | 広開土王碑は「百済と新羅は(倭の)属民なので倭に朝貢していた。よって391年海を渡って(倭を)破り百済と新羅を臣民とした」歴史の流れを見れば大筋このような文だと考えられます。高句麗はこの頃朝鮮半島を掌握し、更に海をわたって壱岐まで進出したようです。 |
| 392年 | 天皇吉備へ行幸 | 応神紀22年。吉備の御友別の妹(娘?)である兄媛は難波宮で寵愛されますが、帰国を希望しました。それを追うように天皇も吉備へ行幸し、両国の友好を深めます。吉備にある巨大古墳、造山古墳は吉備武彦、作山古墳は御友別のものだと考えます。 |
| 395年 | 高句麗から使節が来る | 応神天皇28年。上表文には「高麗の王、倭に教う」とあり太子はその無礼なことに怒ったとされています。 |
| 396年 | 武庫の船火災 | 応神紀31年の記述です。高句麗に対抗するため500隻の船を集めたのですが、それを見た新羅の使者が危機感から放火した事件のようです。 |
| 397年 | 百済の太子腆支王が人質に | 応神紀8年の記述。応神紀にも度々百済本紀の記述がありますが、干支で合わせているようで他の記事と年代の整合性が取れない場合があります。 |
| 399年 | 阿知使主を呉へ派遣 | 応神紀37年。高句麗を経由して呉(東晋)へ向かったようです。 |
| 399年 | ヤマトタケル死亡 | 107歳です。若くして王となり激動の時代を駆け抜けた世界に誇れる日本の王と言えるでしょう。 |
| 401年 | 応神天皇崩御 呉から使いが帰る |
55歳です。死後呉からの使者が縫女とともに帰国したとあります。絹織物に価値を感じたのでしょう。ひとつの時代の終焉を感じます。 |
まとめ
まずは成果としての年表を提示しました。次はすこし細かいことになってしまうのですが、上記の年表の年代は何を根拠にしているのか、というところを説明していきたいと思います。つづく。