ふとまに

占いの視点を用いて古代史を研究しています。

大碓命

宇治天皇について

宇治天皇というのは播磨国風土記に登場し、山城国風土記の逸文にはその宮として桐原日続宮という名前がある、ということから、歴代天皇には名を連ねませんが存在しただろうと考えられています。その有力な候補が仁徳天皇紀における菟道稚郎子となります。

仁徳天皇の即位時には異母弟である菟道稚郎子と皇位の譲り合いの話が記載されています。そもそも菟道稚郎子が皇位継承者ではあったのですが、譲り合って3年空位でした。ついに菟道稚郎子は自殺し義兄である仁徳天皇が即位します。もしこれが逆のことが書かれているのなら、ヤマトタケルは兄と皇位を争い死に追いやった、と考えることが出来ます。兄は景行2年の記述から大碓命ということになります。古事記ではヤマトタケルは大碓命を殺しています。皇位の譲り合いの末自殺、というのはあまり聞いたことはなく、一方で兄弟で皇位を争ったというのは古今東西ありふれた話です。仁徳紀のこの部分は逆に考えて、仁徳天皇が兄を殺して皇位についた、と読むほうがむしろ違和感がありません。そして菟道稚郎子は大碓命をモデルにしていて、双子の兄とされていますが、上記のように実際は父だと思います。

白鳥も焼いたら黒鳥

次に仲哀天皇紀元年の話を見てみたいと思います。仲哀天皇の父はヤマトタケルです。父は自分が若い時に亡くなり白鳥となり天に上ったが、父を偲ぶためにも白鳥を池で飼いたい、ということで越国から献上させたという話です。途中宇治川のほとりで蘆髪蒲見別王が「白鳥も焼いたら黒鳥だろう」と奪い去りました。蘆髪蒲見別王は仲哀天皇の異母弟、つまりヤマトタケルの子です。仲哀天皇はそれを聞き兵を起こして髪蒲見別王を殺してしまいました。そこで時の人はこう言ったそうです。「父は天であり、兄は天皇である。天をあなどり君に叛いたならば、どうして罪を免れようか」と。実話かはともかく儒教思想的なエピソードではあります。「白鳥も焼いたら黒鳥」、白鳥はヤマトタケルのことなので、これはヤマトタケルの影の部分、隠された部分を表しているように読み取れます。そして「天をあなどり君に叛いた」というこの部分が、ヤマトタケルの黒鳥たる一面です。つまりこのエピソードは、ヤマトタケルが父と兄を殺していることの暗喩ではないかということです。記述上父は景行天皇となりますが、兄は大碓命(宇治天皇)で本当は実の父。この2人の権力者を打倒し実質的な皇位についたのがヤマトタケルだと思います。

異母妹が后という一致

さらにいくつか符合する点もあります。これは以前両道入姫でも書いたのですが、ホツマツタエでは両道入姫の母である綺戸辺と天皇の馴れ初めの話があります。綺戸辺は垂仁天皇に嫁いだとされるのですが、その際宇治川の亀石の話が出てきて、嫁いたのは垂仁天皇ではなく宇治天皇ではないかと私は考えました。宇治天皇は菟道稚郎子のことです。両道入姫命は宇治天皇の娘、ヤマトタケルも大碓命(宇治天皇)の実子、であればヤマトタケルと両道入姫命は異母兄妹の関係となります。
そして仁徳天皇との皇位の譲り合いで自殺する菟道稚郎子は、妹である八田皇女を後宮に入れてほしいと遺言を残します。仁徳天皇と八田皇女の関係も異母兄妹ということになります。
つまり菟道稚郎子(大碓命)がヤマトタケルの父であるのなら、ヤマトタケルと仁徳天皇の皇后が異母兄妹という部分が一致するのです。

小碓尊(ヤマトタケル)生年の符号

上記のエピソードはアスス722年の記述で、西暦だと298年(私の計算式)となります。綺戸辺には妹(姉?)がいて苅幡戸辺といい、やはり妃になったという記述が古事記にあり、日本書紀では姉妹かは不明、ホツマツタエでは親が違う可能性がある、と諸説ありますが、どの文献でも垂仁天皇の妃となっています。いずれも併記されていて名前も似ているので姉妹の可能性は高いと思います。
そこで先の景行12年を見てみますと、大碓命は美濃(宇治ではないが)の神骨の娘姉妹(兄遠子、妹遠子)が美人で、これを娶った、という記述があり、これが綺戸辺、苅幡戸辺と対応するのではないか、と考えています。その10年前に小碓尊は産まれているので、綺戸辺を娶ったアスス722年から10年引いたアスス712年、計算すると西暦293年です。これは以前述べたヤマトタケルが享年107歳で崩御年が399年、逆算して生年293年と一致します。
大碓命、武雄心命、菟道稚郎子が同一人物であればこの計算が成立します。ヤマトタケル生年293年説を補強する一致です。

賀茂と伊勢の滅亡

綺戸辺は垂仁天皇の妃ではないか、宇治川の亀石程度で宇治天皇の妃と言えるのか、という批判もあると思います。ホツマツタエでも垂仁天皇に嫁いでいるのですが、その時のエピソードで気になる点があります。

綺戸辺は山背大国不遅の娘で、3人の男から求婚されていました。悩んだ山背大国不遅は貴船神社と上賀茂神社で神意を聞こうとします。上賀茂神社はこの時荒廃していて、「賀茂と伊勢は御祖(ミヲヤ)であるのだが、すでに破れて衰えてしまった」と嘆いています。これは賀茂(大神神社、つまり大和国)と、伊勢(伊勢神宮、つまり熊野国)という、欠史八代に争っていた銅鐸国家が双方滅亡し権威が失墜していたということを言っているのだと思います。では滅ぼした勢力はというと、それは景行天皇が率いる軍勢ということでしょう。伊勢の勢力はすでに衰えており、賀茂の方はアスス715年(295年)に兵器を収め(刀狩り)、アスス716年(295年)に倭彦命が、アスス720年(297年)に日葉酢媛命が相次いで亡くなっているので、これが賀茂の滅亡だと考えます。特に倭彦命の埋葬では多くが殉葬されており、その悲痛な声を聞いて殉葬の代わりに埴輪を作ることとしたというエピソードは有名です。これは平時ではなく戦乱の様相です。天皇が生きていれば「賀茂も伊勢は破れ衰えた」とは言わないはずなので、垂仁天皇は同時期、もしくはその前の段階で死亡していると私は考えています。なので綺戸辺が嫁いだ人物は垂仁天皇とは別の人物、宇治川の亀石や姉妹の関係から大碓命(武雄心命)、菟道稚郎子、つまり宇治天皇ではないかという推測です。武雄心命は九州の武雄市からやってきた孝元天皇の血統を引く高貴な出です。山背大国不遅は荒廃した現状を嘆きつつ、娘の未来をこの人物に託したのでしょう。

彦坐王の影響

上記の説を取るのならば、美濃の八坂入彦命と美濃の神骨、更に綺戸辺の父である山背大国不遅には何らかの関連性があるはずだと考えられます。まずは八坂入彦命と神骨ですが、八坂入彦命(ヤサカイリヒコ)は彦坐王のひ孫、神骨(別名八瓜入日子王:ヤツリノイリヒコ)は彦坐王の子とされています。世代は合いませんが双方美濃で彦坐王の子孫、さらに名前も似ています。こちらは同一人物である可能性は十分あります。
山背大国不遅ですが、ホツマツタエではヤマシロフチとオオクニサラスの2人の人物がいて、後に集合して山背大国不遅となっています。ヤマシロフチの娘が綺戸辺、オオクニサラスの娘が苅幡戸辺です。いずれにせよ山城国(京都市南部から宇治市あたり)の豪族ということになります。数世代前になりますが彦坐王の妃にも山代之荏名津比売(別名苅幡戸弁)の名があり、山城国自体が彦坐王の強い影響化にあった地域となります。彦坐王は開化天皇の皇子で、美濃を中心に丹波、山城、近江、春日など広範囲に勢力を及ぼした皇族です。時代は崇神天皇と同時期です。
大碓命が美濃へ派遣された、という記述には、美濃を中心とする彦坐王系列の勢力下にある宇治も含まれるという解釈もできます。

まとめ

ここまで少し長くなりましたが、ヤマトタケルの出自について見てきました。端的に言ってしまえば景行2年の記述にある、大碓命と小碓尊(ヤマトタケル)は双子ではなく親子で、大碓命は宇治天皇という結論になります。こう見ると大碓命はたくさんの名前があります。武雄心命もそうですし、菟道稚郎子、宇治天皇。後に武内宿禰は宇治天皇の存在をなかったことにしたかったため、このように手の混んだ記述になってしまったのでしょう。
一方でヤマトタケルは景行天皇の皇子であり、しかも天皇から期待され、多くの外征を任されたことが記されています。これは皇統維持のため成務天皇(ヤマトタケル)を景行天皇の子としようとする意図があったからだと私は考えましたが、エピソードの深さから単純にそれだけの目的だったのか疑問が残ります。次はそのあたりのところを解説したいと思います。つづく