ふとまに

占いの視点を用いて古代史を研究しています。

ヤマトタケルの出自

景行天皇紀

ヤマトタケルは景行天皇の次の天皇、成務天皇であり、仁徳天皇のモデルでもあって、表立っては武内宿禰として活躍している。と、このような仮説から文献を読むことによって、今までは気にも止めなかった記述に意図があるかのように見えてきます。景行天皇の皇子として生まれたとされる記述も、この前提で読み進めるとひとつの筋書きがみえてきます。実の父は誰なのか、そこに焦点を当てて記述を見てみたいと思います。

各文献での描かれ方

日本書紀、古事記、ホツマツタエでも大体同じようなことが書かれていて、古事記は大きく省略されており、日本書紀とホツマツタエはほぼ内容は同じです。ですがホツマツタエの方がより詳しく描写されているので、それを見ながら検討していきます。

景行天皇2年から12年の記述
日本書紀 出来事
景行2年 播磨稲日大郎姫が双子を産む。大碓命と小碓尊(ヤマトタケル)。
景行3年 景行天皇は紀の国で神祇を祀ろうとするも占いで吉と出ず、代わりに屋主忍男武雄心を遣わし祀らせる。9年住み、影媛との間に武内宿禰をもうける。
景行4年 景行天皇美濃へ。八坂入彦命の娘姉妹が美しいと聞き召そうと思う。姉の八坂入媛命は宮中へ。
景行5年 八坂入媛命は成務天皇を、影媛は武内宿禰を産む。同日産まれでそれぞれの祖父がお互いを命名する。
景行12年 美濃の神骨の娘姉妹が美しいと聞き大碓命を遣いにやるも、大碓命はそれを密かに召し復命しなかった。

景行2年、播磨稲日大郎姫が双子を産みます。それが大碓命と小碓尊(ヤマトタケル)です。播磨稲日大郎姫は吉備津彦の子とされていますが、時代が合わないので吉備の王族の女性というくらいに考えて良いでしょう。

景行3年、景行天皇は紀の国へ行き神祇を祀ろうと考えますが、占いで吉と出ないので代わりに屋主忍男武雄心命を遣わし祀らせました。この人物は孝元天皇の子孫で、孝元天皇、その子彦太忍信命、その子屋主忍武雄心命という系図です(もう1代挟む可能性もある)。武雄心命は佐賀県武雄市の武雄神社に祀られています。本来この地にいた人物で、何かの理由で紀の国へ来たのだと思います。私は景行天皇の九州平定の折に何か命を受け、九州から近畿へ移動したと考えています。
和歌山市の日前国懸神宮で神祇を祀り、9年住んだということです。そこで影媛という女性を娶り武内宿禰が産まれます。武内宿禰がヤマトタケルと同一人物だとすると、ここは重要な情報となります。ちなみに影媛の父は日本書紀では菟道彦(うじひこ)、ホツマツタエではウチマロとあります。
9年住んだという記述も見過ごされがちですが、ホツマツタエを読むと9年に意図があると感じます。景行3年からであれば景行12年までとなります。

景行4年、景行天皇は美濃へ行きます。八坂入彦命の娘姉妹が美しいということで妃にしようと思います。まずは妹を召しますが、妹は断り姉を薦めます。そして姉の八坂入媛命は妃となり、天皇とともに纏向の日代宮へと移り住みました。
日本書紀では大碓命の美濃派遣の話が続きますが、ホツマツタエでは別の年に書かれていますのでここでは飛ばします。

成務天皇と武内宿禰

景行5年、八坂入媛命が産んだ子が稚足彦(成務天皇)です。成務天皇と武内宿禰が同日産まれというのは各所に出てきます。ホツマツタエではその時のエピソードが添えられています。
八坂入彦命(八坂入媛命の父)が日前國懸神宮(和歌山市)を訪れていました。その日、日前國懸神宮では武雄心命と影媛の間に子が産まれました。八坂入彦命はこの子を命名してほしいと頼まれ、付けた名が「タケウチマロ(武内宿禰)」です。祖父ウチマロの名に「タケ」を付けたのでしょう。
その日伝令が来て八坂入彦命は纏向の日代宮へと戻ります。ウチマロも同行しました。すると八坂入媛命が子を産んでいたのでウチマロに命名をお願いしました。そして付けた名が「ウチヒト(成務天皇)」です。この間1日ですので創作だと思います。

この景行5年の記述はどう解釈すればいいのか、ですが、私の同一人物説で考えると理解できると思います。これは和歌山市の日前國懸神宮で武内宿禰が産まれたのですが、景行天皇の次の天皇が彼なので、血統を継承している関係にしたいがための創作だろう、ということです。同日産まれというのは珍しく、同一人物であることを暗示しています。では母は影媛で、母方は紀の国の豪族です。

武雄心命と大碓命

景行12年、ホツマツタエではここで大碓命の美濃派遣の話が出てきます。景行天皇は、美濃の神骨の娘姉妹が美しいと言うので大碓命を遣いにやりましたが、大碓命は密かにそれを召し、復命しなかった、という日本書紀と同じ話です。これにより天皇の怒りを買い、大碓命は大和へ戻れなくなりました。この時大碓命は11歳で、身の丈は8尺(240cm)とあります。11歳というと今で言う満6歳、身長もおかしいです。これは大碓命は11歳では無いと言うことです。
ここで景行3年の記述に戻りますと、武雄心命は日前国懸神宮で神祇を祀り、9年滞在した、とあり、9年後は景行12年になるのでこの出来事とのつながりがあるのではないかと感じます。景行12年に大碓命は美濃に派遣されます。9年滞在していたのが武雄心命ではなく大碓命であればこの記述が意味を持ちます。ちなみに日本書紀ではこの大碓命の美濃派遣は景行4年に記述されているので、この9年という関係を読み取ることができません。武内宿禰の父、武雄心命は大碓命のことではないか、と関連を匂わせる記述です。

景行天皇は八坂入媛命を娶り成務天皇を産んで、武雄心命は影媛を娶り武内宿禰を産んだ。同一日生まれで祖父がお互いの孫の名前を付けた。しかしこれは表面上皇統を維持するための苦肉の策とも捉えることができ、実際は大王となる武内宿禰(成務天皇でもありヤマトタケル)が日前国懸神宮で産まれただけでしょう。
そして最後に景行2年に戻ると、大碓命と小碓尊(ヤマトタケル)は双子で産まれたとなっています。播磨稲日大郎姫の子となっていますが、これはヤマトタケルが皇子であるという設定のための嘘だと思います。それよりこの双子の関係という部分に意味があり、大碓命(武雄心命)と小碓尊(ヤマトタケル=武内宿禰)は血がつながっており、大碓命の子が武内宿禰、つまり親子関係で、それを景行2年から景行12年にかけてなんとなく解るように関連付けて記述した、と読み取ることが可能なのではないでしょうか。少なくとも私はそう思いました。

景行天皇紀について

前回も書きましたが、アスス暦の725年頃(西暦300年頃)から843年(西暦359年最終記述)までの記述は、西暦350年頃に武内宿禰がそれまでの歴史を整理し書き記したものだと私は考えています。そこには垂仁紀の後半部分と景行紀が記述されていて、上記の大碓命、小碓尊、武内宿禰の出生に関する記述、景行天皇の九州平定の記述、ヤマトタケルの熊襲征伐、ヤマトタケルの東征、そして景行天皇の上総国巡幸などが描かれています。
特に景行12年の九州平定からの記述は詳細で、これは三韓征伐の前後に約50年前の出来事となる景行天皇の九州平定の実態を現地調査したのではないか、と思います。それが仲哀天皇紀8年あたりからの九州での記述に対応し、この時の調査を元にして武内宿禰がまとめて書いたのだと思います。そして次のヤマトタケルの熊襲征伐ですが、これは前から思っていたことですが創作です。クマソタケルを征伐する流れは景行12年12月5日からの記述と似通っており、こちらが史実だろうと思います。ではなぜヤマトタケルの熊襲征伐で同じような出来事として書いたのか、ということになりますが、私の考えでは景行天皇の功罪をヤマトタケルに肩代わりさせようとした、という意図だと思います。ヤマトタケルはその後穴門、吉備、難波、柏(紀の国)の賊を討ち都へ戻ったとされています。これは九州を平定した景行天皇の大和までの行軍のことだろうと思います。后である播磨稲日大郎姫はこの道中で娶ったのでしょう。この記述もヤマトタケルに平定されたことに上書きしたいという意図です。古事記では更に出雲までヤマトタケルが平定したことになっています。
仲哀8年における九州での調査で、あまりにも悲惨な過去が明るみになり、その鎮魂と歴史の美化のため、白鳥ヤマトタケルにその功罪を背負わせたのでしょう。

少し話は逸れましたが、この景行天皇紀がいつ、誰によって書かれたのか、というのは文献を読み解く上で重要な視点となります。「ヤマトタケルは複数の人物の業績を一人にまとめた人物」という説もあながち間違いではありません。しかしそれは日本という国を思う武内宿禰(ヤマトタケル自身)が作り上げた像ともいえます。

まとめ

ここまで景行紀の2年から12年の記述を見てみました。普通に読めなくもないのですが、ヤマトタケルと成務天皇、武内宿禰が同一人物であると仮定して読んでみると、何かを隠蔽しつつ、真実を伝えようとしていると読み取ることが出来ます。次は仲哀紀、仁徳紀なども見ながら大碓命の実像を探りたいと思います。つづく