ふとまに

占いの視点を用いて古代史を研究しています。

年代の基点

ヤマトタケルの生年

前回年表を提示しました。次はなぜそのように年表が出来たのか、という根拠について示していきたいと思います。まずはヤマトタケルの生年を求めたいと思います。仁徳天皇がヤマトタケルの転生後の姿を描いたと説明しましたが、仁徳天皇の崩御年は399年です。そして同じくヤマトタケルの姿である成務天皇の享年が107歳ということで、399-107+1(数え年なので)=293、つまりヤマトタケルの生年は293年だと考えました。垂仁天皇や景行天皇の活躍した時期というのは3世紀末頃なので、この生年はあり得ると思いました。しかし根拠としては薄いので、とりあえず仮説として採用し、成り立たないのであれば見直そう、という気持ちで考え始めたという感じです。成り立つ前提としては、仁徳天皇の即位と崩御の年代(干支)が正しいということになります。下記でも説明しますが、神功紀や応神紀で年代に技巧を凝らしているので、ここは合わせていると思います。今のところ大きく矛盾するようなところはなく、この説を基準としています。

仁徳紀は西暦313年から399年までの記述があり、上記の理由からこの年代はそのまま採用することが可能です。仁徳元年は313年でヤマトタケルが最高権力者になった年。仁徳35年、磐之媛命の死亡は347年の出来事。仁徳41年、紀角宿禰を百済へ遣わした、というのは353年の出来事、という感じです。しかし機械的に当てはめることが出来ない場合もあるので注意が必要です。仁徳天皇は応神天皇(346年~401年。この年代の根拠は後で触れます)の次の天皇という側面もあるので、5世紀のことを記述しているのではないかと思われる箇所もあります。仁徳12年、高麗国が鉄の盾などを奉った、というのは324年ではなくて、413年~415年頃(応神紀の後空位があるため)の出来事ではないかと考えられます。なので一つ一つの記述から、時代背景を考え年代を求めていく必要があります。

神功皇后紀から導き出す年代

空白の4世紀を知る際、もう一つの年代を求める指標として神功皇后紀から導き出す年代があります。これにより空白の4世紀の後半にどのような出来事があったのか、ある程度知ることができます。

干支2運繰下げ説

七枝刀は神功皇后紀52年、百済王が献上したとの記述があります。七枝刀は現存しており、その表面の金石文から作成したのは泰和4年(369年)だと考えられます。神功皇后52年は日本書紀の紀年をそのまま計算すれば252年にあたります。しかしこの紀年は120年、つまり干支を2運ずらしているのではないかという説があります。その説を取れば372年となり、作成が369年で3年後に献上と辻褄が合います。この神功皇后紀干支2運繰下げ説を取ると、神功紀にある百済王の死亡年、即位年と合致するため、この説は限定的に有効だと思います。具体的には神功46年から64年までの記述です。この年代を挟むように中国史書との関係が記されています。それは以下の表のグレーの部分で、3世紀の事績と誤認識させようとする意図がはたらいています。

神功紀で干支2運繰下げ説を採用する部分
日本書紀 西暦 出来事
神功39年 239年 景初3年、倭の女王、帯方郡へ使節を派遣。
神功40年 240年 正始元年、魏が倭国へ使節を派遣。
神功43年 243年 正始4年、倭王が再度使者を派遣。
神功46年 366年 斯麻宿禰を卓淳国へ遣わす。
神功47年 367年 百済・新羅が朝貢
神功49年 369年 新羅再征。七枝刀作成の泰和4年。
神功50年 370年 荒田別らが新羅再征から帰還。百済から使者。
神功51年 371年 百済から使者。百済へ返使。
神功52年 372年 百済から七枝刀を貰う。
神功55年 375年 百済の近肖古王が死亡。(三国史記に一致)
神功56年 376年 百済の貴須王が即位。
神功62年 382年 新羅が朝貢しなかったため、襲津彦を新羅へ。
神功64年 384年 百済の貴須王が死亡。枕流王が即位。(三国史記に一致)
神功65年 385年 百済の枕流王が死亡。辰斯王が即位。(三国史記に一致)
神功66年 266年 泰初2年、倭の女王が晋へ使節。

2倍歴との関係

干支2運繰下げ説によれば七枝刀献上年は372年で、これは泰和4年(369年)との関連性があり考慮にいれてもいいと思います。そして仮にこの372年を基準として2倍暦を用いると、神功皇后元年は347年になります(372-(52÷2)+1=347)。その前年、つまり仲哀天皇9年は三韓征伐の年です。三国史記の新羅本紀によれば346年、倭国からの大規模な侵攻が記録されており、この年を三韓征伐だとする説があります。私は七枝刀献上の372年から2倍暦を用いれば、この三韓征伐346年説と一致するためこれが史実だと思いました。
しかしよく考えれば基準を372年ではなく、例えば384年にした場合、2倍暦で神功元年は353年になります。日本書紀の編纂者が372年を特別な年だと認識していたのであれば、この2倍暦三韓征伐一致説は成立するのですが、それは都合が良すぎます。ではまったく見るべき点がないのか、と言われればそうではなく、私はこの三韓征伐346年は非常に有力な説で、とりあえずこれを基点として考えて良いのだと思っています。
なのでその翌年の347年が神功皇后元年となります。神功皇后は享年100歳で、これは2倍暦で考えたほうが自然です。神功69年に100歳で崩御しますが、それは西暦381年で享年は数えで50歳ということです。そうすると生まれた年は332年、三韓征伐時は15歳でその年末に応神天皇を出産となります。満16歳ということで少し出産年齢が若い気もします。

神功紀で2倍暦を採用する部分
日本書紀 西暦 出来事
神功1年 347年 かご坂王・忍熊王の乱。
神功2年 347年 仲哀天皇を埋葬。
神功3年 348年 誉田別皇子を皇太子に。若桜宮を造る。
神功5年 349年 新羅から使者。葛城襲津彦が新羅を攻め、捕虜を連れて帰る。
神功13年 353年 武内宿禰と誉田別命が敦賀へ参拝。帰還後宴会。
神功69年 381年 神功皇后が崩御。享年100歳(50歳)。

応神天皇

応神天皇も享年が110歳と長すぎます。これも55歳だと考えていいと思います。そうすると三韓征伐帰国時の346年生まれで401年崩御ということになります。
応神紀についてもいくつか百済王との対比が可能な年代があり、一致する記録としては応神紀8年の腆支王の人質(397年)、応神紀16年の阿莘王死亡(405年)、応神紀25年の直支王死亡(414年)があります。当時は干支で考えているはずなので、紀年を機械的に計算し、丁酉や乙巳、甲寅を応神紀の出来事として当てはめているのだと思います。他にも百済王の記述はありますが年代は合いません。どれを基準とするかという問題はありますが、人間の寿命はそうでたらめな数字にはならないので2倍暦の寿命を重視して計算しています。

仁徳紀への調整

応神天皇は401年に崩御していると思いますが、上記のように応神紀には5世紀前半の出来事と思われる記述があります。これはなぜそうなるのかというと、最終的に仁徳天皇元年を313年に合わせるためだと思います。日本書紀の紀年では応神天皇の即位は270年で、崩御は310年とする必要があります。干支を2運ずらすと応神紀の後半は5世紀です。401年に死亡しているけど310+120=430年までは、応神紀の干支と合わせて載せるという作業をしていると思います。実際この時期(401年~441年)の天皇は飯豊天皇、仁賢天皇(倭王讃)、顕宗天皇(倭王珍)となります。

まとめ

以上、前回提示した年表の根拠となる基点を解説しました。主な基点は2つ、ヤマトタケルの生年(293年)と三韓征伐(346年)となります。ここを基準として各天皇の生年、崩御年を割り出し、日本書紀におけるそれぞれの天皇の記述から4世紀の年表を作った、ということになります。かつ干支2運繰下げ説を採用できる部分はその年代を当てました。
次は個々の事績について見ていきたいと思います。まずはヤマトタケルの出自について、双子の兄大碓命との関係などについて解説していこうと思います。後でアップロードします。