ふとまに

占いの視点を用いて古代史を研究しています。

景行天皇の皇子

伊都都比古王国

前回景行天皇の勢力が大和を支配したと書きましたが、そもそも彼は垂仁天皇の皇太子とされています。しかし実際は伊都都比古王国の王ではないかと考えています。垂仁天皇、景行天皇は共に夢の内容から皇太子に選ばれたという記述があります。これが皇統の交代を示唆していると私は考えます。つまり崇神から垂仁も通常の皇位継承ではなく、垂仁から景行も同様だということです。
伊都都比古(イツツヒコ)は垂仁紀に記述がある穴門(山口県)の王で、都怒我阿羅斯等は彼と接見し本当の王か疑わしいと思った、というエピソードがあります。伊都都比古が景行天皇自身ということもあるかもしれません。景行12年の九州平定では出発地は周防の佐波であり、それまでの行程は不明です。そこから九州の各地を制圧し、そこには熊襲征伐も含まれます。景行19年大和へ帰った、とありますが、九州平定の余勢をかって穴門、吉備、難波、柏(紀の国)の首長たちを打ち破り、大和で垂仁天皇の勢力をも支配下においた、という流れでしょう。それがいつ頃か、というと280年~290年頃の事だと思います。景行天皇は多くの妃に子を産ませ、その人数は80人余りです。各地を侵略した勇猛な王とも読み取れますが、その分多くの恨みを買っていたと考えられます。なので後に武内宿禰は景行天皇が行った各地の蛮行を調べ整理し、白鳥ヤマトタケルにその功績を上書きさせようとしたのでしょう。

景行天皇との関係

托卵説

ヤマトタケルは武雄心命(大碓命)の子で、景行天皇とは血の繋がりがないと私は考えています。ですがヤマトタケルは景行天皇の皇子として育てられ、天皇から篤い期待を寄せられた人物として描かれています。これはどういうことなのか、と考えた時、武雄心命の妻である影媛を景行天皇が奪い武雄心命は美濃へ逃亡、その子である小碓尊(ヤマトタケル)を景行天皇は自分の子と勘違いして育てていた、ということなのではないかと思いました。
妃としようとしていた女性が別の男と通じていた、という話は日本書紀にいくつかあって、仁徳紀にある隼別皇子(異母弟なので菟道稚郎子を思わせる)の話、武烈紀にある平群鮪の話(女性の名前は影媛)などです。武烈天皇は架空の天皇だと思われますが、顕宗天皇やヤマトタケルがそのモデルなのではないか、と思われる節があります。名前も小泊瀬稚鷦鷯天皇ということで、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の若い頃と思えなくもありません。

父の存在抹消説

もう一つの説として、景行天皇の皇子というのはまったくの後付け設定で、本来は宇治天皇の皇子なのですが、宇治天皇の存在は抹消したいので、敵国の王である景行天皇の皇子ということにした、という考えです。そう思った理由を少し説明します。
まずホツマツタエが景行天皇に奏上されたのは景行56年(アスス843年、西暦359年)です。この記述、年代が正しいのなら、奏上時景行天皇はまだ生きているはずです。私はこれはさすがに無理があると思い、アスス暦の終盤部分は正しく読めないと思っていました。西暦359年が正しいのなら、この年まで景行天皇はその死を偽装されていたということになります。実際はすでに景行天皇陵も造作済でしょうし、埋葬も終わっていると思います。しかし他に大王を名乗れる人物がいない状態だったのかもしれません。景行天皇は子沢山で彼らが各地の豪族として力がある状態なら、景行天皇を大王としておくほうが争いを避けられます。諸々の理由で景行天皇は死しても大王として君臨していた可能性も否定できないと思いました。

上総国巡幸の謎

景行53年(アスス840年、西暦357年)、景行天皇はヤマトタケルを偲んで平定した国々を巡幸した、というのは各地に記録や伝承も残っています。私はこれは年代がおかしいだけ、つまり西暦300年頃の出来事と考えていましたが、もしかすると357年前後に景行天皇の影武者が上総国巡幸をした可能性も無くはないと思いました。この時すでに景行天皇は死んでいて、実際に巡幸を主導したのは武内宿禰(ヤマトタケル)ということになります。ヤマトタケルが東征を行ったのは10~20代の頃で、その頃の思い出を巡る旅がこの上総国巡幸でしょう。武内宿禰65歳です。弟橘姫が浦賀水道で入水自殺したというのはこの時の創作の可能性も考えられます。
つまり景行天皇はとっくに死亡しているにも関わらず生きていることになっていて、表面上は景行天皇の治世。ヤマトタケルは宇治天皇の皇子ですが、ヤマトタケルは父である宇治天皇を殺しているので存在自体を抹消したい。では誰の子とするかと考えた時、生きているという設定の景行天皇の子だったことにしよう、という説になります。

豊臣秀吉は景行天皇?

どちらの説も、大碓命がヤマトタケルの実の父だとした場合、残された文章からそういう可能性もある、くらいですので実際の所なんとも言えないですが、景行天皇が大碓命の子を自身の子だと勘違いして育てたという説(托卵説)、こう思うに至った経緯を少し説明しようと思います。
私は景行天皇に豊臣秀吉が重なって見えています。景行天皇の転生が豊臣秀吉なのではないか、ということです。先の説明で私は、魂は転生してその生涯、前世と同じような課題を課されると書きました。上記で見てきたように、景行天皇が伊都都比古王国の王だったとします。血統的には正統ではなく、それは低い身分の出身だった豊臣秀吉と重なります。景行天皇は多くの妃との間に多くの子供をもうけていますが、その逆で豊臣秀吉はなかなか子に恵まれませんでした。やっと生まれた実子の秀頼についても、本当は別の人物の子ではないかという噂は現代でも残ります。ヤマトタケルも景行天皇の子として育てられながらも、実は他人の子だった、というのは、転生者に課せられた魂の課題と見ることができるのではないか、という推測です。
景行天皇は実力で九州を平定し、さらには大和で大王となります。これは実力で天下人となった豊臣秀吉も同じです。そして豊臣秀吉は2度の朝鮮出兵を行います。私はこのことから、景行天皇は馬韓の出身者の可能性があるのではないか、と考えています。馬韓から穴門(山口県)へ渡りその地で勢力を蓄え、九州を制圧しその勢いで大和で王となった。豊臣秀吉は戦国時代を制し天下人となり、その余勢で朝鮮出兵を試みた。この対比がカルマの相殺の現れではないか、という見方です。

私は占いの視点から歴史を考察するという手法を用います。これは本来自分の頭の中だけで留め、それを根拠として歴史の説明はしないようにしようと思っていました。一般的に見ればそれはオカルトの範疇だからです。ですが先にも書いたのですが、どうしても自説の根拠が薄いため、ならばいっそ方針を転換し、占いによる歴史観と日本書紀の記述法の関連も含めて古代史を説明することにしました。なので豊臣秀吉は景行天皇の転生説も重要な論拠として見てもらえばと思います。
つまり景行天皇は豊臣秀吉の前世なので、豊臣秀吉と秀頼の関係のように、景行天皇は小碓尊(ヤマトタケル)を自身の子だと勘違いして育てたのではないか、という論理になります。

ソウルメイトと課題の向き合い方

そして戦国時代の考え方にも書きましたが、小早川秀秋は妻(ねね)の甥ということで、豊臣秀吉は彼を養子とし、一時期は後継者の一人と目されていました。しかし私は小早川秀秋は明智光秀とねねの子だと考えました。それは大碓命にとって自分の子である小碓尊(ヤマトタケル)が景行天皇の子として大いに期待をかけられていたという魂の課題を、明智光秀は立場を変えて体験したのではないかという論理から生まれた説になります。そして小早川秀秋が林羅山になったのであれば、明智光秀と親子であるほうがその抜擢に説得力があるという考えもあります。

豊臣秀吉は景行天皇の転生で、明智光秀はヤマトタケルの転生。前回私は謀反人と汚名のカルマから明智光秀とヤマトタケルを結びつけましたが、このような考え方の例は他にも色々と思い浮かびます。例えばヤマトタケルもタギシミミの転生だろうと思います。他にも織田信長や徳川家康も、あの人物の転生では、と思うところは私にはあります。ですがあまりそちらに話を傾けると、本題である空白の4世紀の考察から逸れてしまうので、とりあえずこの2人について私の考え方を知ってもらいました。

まとめ

ヤマトタケルが大碓命の子であるのなら、景行天皇の皇子という設定は何なのか、という疑問に対し、景行天皇が大碓命の子を自分の子として育てていた、という説があり得ると私は思いました。
空白の4世紀はヤマトタケルの歴史と重なります。その出自の部分は重要なので詳しく説明しました。生まれた年代、実の父と出生の秘密、景行天皇との関係など、論拠も含めて説明できたのではないかと思います。10年前にこの説を思いついたときから、この部分の考え方はほとんど変わってはいませんが、これまでは占いによる歴史観による説明を一切用いらなかったため、なぜそうなるのか、根拠はなにかという部分を飛ばしながら解説していました。今回私はこの部分の制限を外し、天武天皇と協同の説という後押しを得てより自由に解説をすることができました。
とりあえず今回はここまでにしておきます。また何か解り次第書いていきたいと思います。