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古代日本の暦について

ホケノ山古墳
ホケノ山古墳

日本の失われた暦

古代日本の暦についてはほとんど何もわかっていませんが、ホツマツタエではいくつかの主要な暦が記述されています。一つはスズ暦、そしてスズ暦の後を継ぐアスス暦、そしてこれらと併用して使用されているキアエ暦です。スズ暦については今一つはっきりしませんが、51スズまであるようです。これはウガヤフキアエズの51代と対応しているのではないかと考えています。アスス暦は365日で2年の2倍暦を採用しています。キアエ暦は干支と似ていて60個の年号が循環します。干支を「エト」と読むのはこれが起源のようです。アスス1年を「キアエ」とし、アスス2年が「キアト」、3年が「ツミエ」・・・、59年が「ネウエ」、60年が「ネウト」、61年が「キアエ」です。しかしこれも2倍暦なため実質30年で一周りするところが特徴です。

ホツマツタエにおける最後の年はアスス暦843年です。ではこのアスス暦を365日で1年に換算し直し、それを西暦に当てはめれば古代の年表がかんたんにできるのでは、と思うのですがそれがそう単純ではありません。ホツマツタエにおいても古代の人物やその業績、さらに年代までもが改ざんされており、当てはめるにもどこを基準にすべきなのか、正しい部分と改ざんされた部分はどのあたりなのか、などなど色々と考慮すべき点があり、それらを整理してまとめるときにどうしても恣意的になってしまいます。とはいえある程度しっかりした年表が作成されることは歴史研究においても、日本人の心理的な面においても重要な事だと考えます。

以下私がどのように年代を求めているのか、その基点の根拠はなにかなどを少しまとめておきたいと思います。

アスス暦

アスス暦は843年あるわけなので、2倍だとすれば421年ほどの歴史が記述されていると考えられます。しかしアスス暦も途中でおかしくなっており、特に700年を過ぎたあたりから重複や引き伸ばしなどが見られ、暦としての機能を果たせなくなっているように読み取れます。ちょうど空白の4世紀に差し掛かるあたりであり、この時期の混乱した様子が感じ取れます。なのでその終盤の100年ほどは置いておいて、比較的正確だと思われる部分を解析し、西暦に当てはめたいと思います。一人の人物の記述から基点となる年代を求めることができます。魏志倭人伝にも記述がある「トヨ」です。

豊鍬入姫命(トヨ)

魏志倭人伝は中国の書ですが、私達日本人ですら古代日本史の年代や出来事を探るのに中国の書を頼りにしてしまいます。日本書紀に卑弥呼やトヨがいなくても、魏志倭人伝に書いてあるので実在しただろうと考えてしまいます。トヨ(壹與、台与)は女王卑弥呼が死亡した後、男王を立てたが戦乱が収まらず、13歳で立てられた、とされている女性です。13歳とありますが、これも2倍暦なので数え6歳のことです。

魏志倭人伝におけるトヨは日本史におけるどの人物に対応するのか、というのは邪馬壹国(ヤマト国)の所在地解明にもつながりますが、私は日本書紀における豊鍬入姫命がトヨであると考えています。これはホツマツタエと日本書紀を並行して読むことで導き出すことができます。

崇神天皇の祭祀

崇神天皇の治世で天照大神と倭大国魂を祀ったというのはホツマツタエ、日本書紀双方に記述されています。記述と年代を整理すると以下のようになります。

日本書紀 ホツマツタエ 出来事
記述なし アスス624年 トヨスキ姫に天照大神を祀らせる。
崇神5年 アスス625年 疫病発生。
崇神6年 アスス626年 民が四散、天照大神の宮を移す。

この段階で日本書紀の豊鍬入姫命とホツマツタエのトヨスキ姫は同一人物であることがわかるのですが、魏志倭人伝のトヨに対応するかどうかはまだ不明です。

トヨスキ姫の年齢

これより下ってアスス710年、ヤマト姫が11歳で御杖代となります。翌年アスス711年、ヤマト姫は斎野(飯の宮)にいたり、トヨスキ姫に仕えます。そしてその3年後のアスス714年、トヨスキ姫は103歳で斎宮をヤマト姫に譲り、宮を伊勢に移します。ヤマト姫が斎宮になったのはアスス713年とも読み取れますが、714年のほうが正しいと思います。ホツマツタエでトヨスキ姫の年齢が確認できる記述はこれのみです。

では90年前にあたる624年においてトヨスキ姫の年齢は103-90=13歳になります。13歳と言えば魏志倭人伝におけるトヨの年齢です。ここにおいて魏志倭人伝のトヨはトヨスキ姫(豊鍬入姫命)ということが確認できます。日本書紀では豊鍬入姫命の年齢に関する記述がないためこの比定ができませんでしたが、ホツマツタエを介することで魏志倭人伝のトヨが豊鍬入姫命であることを確認することができました。つまりアスス624年崇神4年が魏志倭人伝における「卑弥呼が死んで男王を立てたが収まらずトヨを立てた年」となります。

アスス暦から西暦を出す計算式

魏志倭人伝では正始8年(247年)倭国は狗奴国と紛争状態にあったとあります。そしてこの頃卑弥呼が死亡し塚を建てたとあります。そして男王が立てられたが人々は服さず、トヨを立てて国が治まった、ということです。崇神1年はアスス621年であり、これが西暦248年とすれば以下のようになります。

西暦 アスス暦 日本書紀 出来事
247年 619年
620年
開化59年
開化60年
倭国と狗奴国の紛争。この頃卑弥呼死亡。
248年 621年
622年
崇神1年
崇神2年
崇神天皇即位。
249年 623年
624年
崇神3年
崇神4年

トヨを立てた。

つまりアスス621年が西暦248年であり、アスス暦から西暦を出す計算式は、

(アスス暦-125)÷2

ということです。621-125=496、496÷2=248です。倭姫に斎宮を継いだアスス714年は、714-125=589、589÷2=294.5で294年となります。

紀元前は少し手を加えて上記の式からさらに1を引きます。なぜなら紀元0年がないからです。紀元前3、前2、前1、紀元1、紀元2…となるので単純な引き算だと1年ずれます。アスス87年は87-125=-38、-38÷2=-19、さらに-1で紀元前20年となります。アスス元年はと言うと1-125=-124、-124÷2=-62、さらに-1で紀元前63年となります。ただアスス暦も初期と末期の部分は少し正確性に疑問な点もあるため注意が必要です。

まとめ

以上ホツマツタエに見られる暦と、それから割り出される西暦への計算式をまとめました。魏志倭人伝のトヨが日本書紀の豊鍬入姫命であることがわかり、邪馬壹国(ヤマト国)の所在地も畿内、纏向遺跡であることがわかりました。またこれによりヤマトタケルの生年を導くことができ、そこから空白の4世紀の解明につながりました。