占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

5世紀の日本を理解するにあたって

日本の歴史はなぜ解りづらいのか

最近また歴史の研究を再開したので、記録として書いてみようと思います。今回は4世紀に続いて5世紀の倭国(ヤマト王権)を調べてみました。

最近吉野ケ里遺跡で石棺が見つかり、卑弥呼の墓ではないかとにぎわっていました。邪馬台国(ヤマタイではなくてヤマト)は九州なのか近畿なのか、といった論争は終わりが見えないですが、私は近畿、纏向遺跡だと確信しています。卑弥呼は倭迹迹日百襲姫のことです。ただ倭迹迹日百襲姫についても一つ疑問があって、ホツマツタエではトト姫とモモソ姫は別の人物となっていることです。倭迹迹日百襲姫というのは二人の人物を重ね合わせた存在なのか、これはより深く調べなければわかりません。
卑弥呼というのは倭国大乱後、紛争を収めるため立てられ、国内外から女王と認識されていたことは確かだと思われます。これは複数の人物が引き継いできた地位かもしれません。私個人としては倭迹迹日百襲姫という一人の女性が君臨していたと考えています。

日本書紀の問題

弥生時代から古墳時代にかけての歴史は本当に分かりにくいです。その問題の根本は日本書紀にあります。普通に読んでは理解ができず、ただそれぞれの天皇の事績を個別に追うくらいしかできません。年代を確定するのにも苦労します。今回雄略紀を調べていて、百済の武寧王の生年を起点とし、そこから各天皇の在位期間を西暦で割り出すという、たぶん多くの人が試みている方法で年代を探ろうとしましたが、この方法では中国の史書における倭の五王との対比がまったくうまくいきません。これは武寧王が生まれたという記録を雄略紀のある年(雄略5年)に書くことで、わざと年代を確定できなくしているのではないかと思います。この手法は神功皇后紀にも見ることができ、神功皇后39年に故意に魏志倭人伝の記述をのせ、あたかも神功皇后を卑弥呼と錯覚させるように仕向けています。このように、朝鮮や中国の歴史と比較する形で日本史を認識させたくない理由がなにかあるのだろうと思います。

日本書紀編纂の時代背景

日本書紀が成立した720年頃は中国は唐、朝鮮は統一新羅の時代です。少しさかのぼれば663年、白村江の戦いで倭国(ヤマト)は敗北し、対外的に慎重にならざるを得ない時期に日本書紀は編纂されました。特に新羅に対し、何か口実を与えるような記述は避けたかったというのが、このわかりにくい歴史書が生まれた理由でしょう。

日本書紀の試み

そしてそれとは別に、この複雑で倒錯しているかのような歴史の記述のなかに、日本書紀の壮大な試みがあると私は感じています。5世紀の日本を見ていくにあたり、いくつかの例をあげながらそれを説明したいと思います。これは私独自の占いによる歴史観となります。できることならこのような手法で説明はしたくないのですが、日本書紀を用いて歴史を解説するにあたって、歴史の流れと日本書紀の記述とのギャップを埋める何らかの説明がなければ、私の仮説がどうしてもただの空想と受け取られかねないからです。私はこの占いの手法を使い、空白の4世紀を再構築することに成功しました。簡素ながら年表を作成し、朝鮮史との比較が可能になり、考古学的な矛盾も解消できるようになったのではと思っています。しかしやはり成務天皇が仁徳天皇でもありヤマトタケルである、というのは、ただ言葉だけで納得してもらえるとは思っていません。そう考えるに至った私の思考をなぞる形で説明し、少しでも考え方を共有できればと思っています。

不明確な5世紀の日本

5世紀の日本史は倭の五王の記述が存在するため、4世紀よりは少し道しるべが見えるように感じます。しかし5世紀を探っていくと複雑さに気がめいります。自然な流れで歴史を把握しようと仮説を立て、痕跡を探り、一つの流れをつかめたと思うと、それは日本書紀の通史と全く食い違います。この食い違いは4世紀にも見ることはできますが、うまく説明できる自信がなく触れないでいました。今回5世紀を解説するにあたり、複雑に入れ違う天皇の在位をただ書き記しても、到底納得できないだろうと悩みました。それを説明するにはなぜ日本書紀はそのように編纂されたのか、だれの意思でどのような動機なのか、それを私のわかる範囲で伝える必要があると思いました。

こう書いてしまうと私の中ではある程度筋書きが見えるのですが、それを書くのには少し時間がかかるなと思います。整理しながら無理なく書いていこうかと思います。つづく