占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

かご坂王忍熊王の反乱

五色塚古墳
五色塚古墳

権力争いに影響を与えた4世紀の内乱

「かご坂王忍熊王の反乱」は神功皇后紀元年に記述がみられます。347年の出来事です。前年の346年はいわゆる三韓征伐で、多くの兵、物資が動員されたと考えられます。かご坂王忍熊王は仲哀天皇の皇子とされていますが、前年急死した仲哀天皇は生きていれば27歳、もし子供がいるとしても10歳に満たないと推測できます。さすがにその年齢で反乱は起こせないのでかご坂王と忍熊王は仲哀天皇の兄弟、異母兄弟、従兄弟などと見るのが普通です。戦乱で宇治に陣取ったところを考慮すると、宇治天皇、両道入姫の親戚であると考えます。力のある外戚が乱をおこし、王権を奪おうとしたのでしょう。

反乱の原因

記述から読み取れる原因は前年仲哀天皇が急死したことで自分たちの立場が危うくなった、というものです。前にも少し触れましたが、犬上君の祖である倉見別という人物も乱に加担しています。私が思うに彼は仲哀天皇の兄である稲依別王ではないかと思います。弟が遠い戦地で急死し、連絡手段も脆弱ななかで疑念が増大し、事態を把握できない以上不測に備えて兵を挙げる、というのは理解できる行動です。あとは数十年王権を見ていて政治に不満があり、悪政を糺すと旗を挙げれば周囲が付き従うと判断したのかもしれません。実際乱に加担した五十狭茅宿禰は武蔵国造であり東国から兵を起こしました。途中兵力を拡大しながら進軍したとなればかなりの規模だったでしょう。

弟橘姫の死

三韓征伐中ですので畿内は手薄です。実際戦端は播磨の明石ですので反乱軍は難波、大和といった首都機能を制圧していたでしょう。弟橘姫はこの年に死んでいるので巻き込まれて殺されてしまった可能性が高いと思います。この機に乗じて皇后が目障りな側室を殺した、というのは十分あり得る展開です。頼れる息子はというと記述ではわからないので何とも言えないですが、普通に三韓征伐に参加していた可能性も高いです。

市辺押磐皇子

履中天皇の子で市辺押磐皇子という人物がいます。この時10代後半くらいでしょうか。彼は100年以上後、5世紀後半に雄略天皇に殺されたとされています。これはありえないのでいずれかの記述が嘘なわけですが、私は347年の乱で反乱軍に殺されたとみています。また市辺押磐皇子には子がいたとされ23代顕宗天皇、24代仁賢天皇になったとありますが、時代が飛びすぎて不自然です。いろいろと年代が混乱していて、記述を正直に読むことが不可能になってきます。この辺りから5世紀の天皇の謎につながっていきます。その解説は後に譲るとして、とりあえずは弟橘姫とその孫である市辺押磐皇子がこの347年の乱で殺され、さらに市辺押磐皇子には年齢的にも子はいなかったと考えます。

反乱の鎮圧とその後

かご坂王忍熊王の反乱の詳細は神功皇后紀に記述されています。結果として反乱は鎮圧されます。近江あたりの戦闘で大勢は決したようです。この乱で皇后両道入姫の勢力は大打撃を受けます。4世紀後半、神功皇后、応神天皇と王権の主流は維持しますが、平群氏、葛城氏は実務で存在感を増していきます。399年ヤマトタケルが死亡し、401年応神天皇が死亡します。その後誰が即位したのか、応神天皇のあとであれば仁徳天皇ですが、ヤマトタケルと同一人物ですので死んでいます。仁徳天皇のあとであれば履中天皇ですが、長生きした仁徳天皇より前に死んでいます。となると反正天皇や允恭天皇などが候補に挙がりますが、双方仁徳天皇の子という設定で、それを事実ととらえれば履中天皇と同じように仁徳天皇より先に死んでいるか、即位できてもあまりに高齢です。

なので私は5世紀初頭については、ヤマトタケルの死を隠し、その死を知っている一握りの氏族が主要役職を固め政権を維持したのではないかと考えています。仁徳天皇陵の築造時期が少し遅れたのもこの理由であれば納得できます。どのくらい続いたでしょうか、413年には倭は東晋に遣使を派遣しています。421年には倭の五王の一人である讃が宋に遣使を送ります。少なくとも20年後には讃という王が立っていることが確認できます。

空白の4世紀と言われますが、では5世紀はよほど歴史も明らかになっているのだろうというと全くそのようなことはなく、ただ倭の五王の記述があるだけで歴史が不明確な点は4世紀とほとんど変わりません。これから5世紀について見ていきますが、倭の五王と天皇の対比、稲荷山古墳鉄剣などの考古学的資料の検証、またより詳しく正確になってくる朝鮮史との比較をしながらヤマト王権の外交などを調べたいと思います。さらにその過程で浮かび上がる日本書紀の意図、目的についても解説していきます。