占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

5世紀後半について

雄略天皇とヤマト王権の陰り

雄略天皇

雄略天皇の即位は宋への上表文から478年と考えています。通常より20年ほど繰り下がり、なので雄略紀の記述がもしかすると允恭天皇の時代にあたるのでは、と思われる個所もあり流れをつかむことができないでいます。上表文の内容はしっかりしたもので、優秀な臣下が補佐していたのでしょう。これは人材を育成した允恭天皇の功績とも言えます。内政では絹や酒、土師器の生産などに力を入れていたようで、治世を経て生活の質は向上したと見受けられます。一方「大悪天皇」と言われているように、むやみに人を殺す性格であったことも伝わっています。

外交面では新羅との関係が悪化し、一方で百済を後押しして高句麗を強く意識しています。国内では長い間友好関係だった吉備国との関係も悪化しています。力強さは脆さにもつながり、雄略の死後は大きく混乱した様子です。清寧、顕宗、仁賢、武烈、継体と続きますが、顕宗、仁賢は5世紀前半に在位、武烈は架空の天皇ということで、実際には雄略天皇の死後清寧天皇が即位し、間は挟まず継体天皇を見つけ出す、という流れだと思います。

武烈天皇

武烈天皇空白の4世紀の説明でも触れましたが、おおむねヤマトタケルのことだと思います。時期を置いて再度武烈紀を読んでみてもそう感じます。武烈紀には平群真鳥と鮪の親子が出てきますが、武烈天皇とこの二人の関係は景行天皇とオオウス、そしてヤマトタケルの関係をなぞっているように読み取れます。景行天皇が妃にしようとした影媛は既にオオウスが関係をもっており、その子であるヤマトタケルが二人を殺した、という4世紀初頭の出来事です。

王朝の興亡とカルマ
王朝の興亡とカルマの解消

ある王朝があったとき、その勃興時と滅亡時に似たような出来事が起きる、というのは私もなんとなく感じています。これは占いの分野で、勃興時の大きなカルマを解消するために滅亡時に役割を変えて似たような出来事が起きる、という関係です。この武烈天皇の記述にはそういった考え方が反映されていると感じます。実際には6世紀初頭に武烈紀に書いてあるような出来事はなかったでしょう。ヤマト王朝もここで滅亡したわけではありません。しかしこの時期はヤマト王朝における節目の時期であることは間違いありません。日本書紀の編纂者はこの武烈紀をもって、仁徳、履中と展開していったいった架空の歴史、予言の部分を収束させようとしたのでしょう。なので意図的に非現実的な作り話のように武烈紀は記述されています。しかしこれらの出来事はヤマト王朝の初期に、似たような形で実際にあったことだと推測できます。

清寧天皇

清寧天皇は雄略天皇の次の天皇とされています。それは正しいと思うのですが、日本書紀には目立った事績はなく、仁賢天皇と顕宗天皇兄弟を見つけ出した経緯が記されています。仁賢天皇と顕宗天皇については倭の五王などで詳しく見ましたが、時代としては5世紀前半です。なので清寧天皇との関連はないと思うのですが、「隠れた皇族を見つけ出し王に据えた」という部分は史実なのではないかと思います。つまり6世紀前半、王統が途絶えそうになり継体天皇を探し出した、という出来事に清寧天皇が関与しているのではないのかと考えています。

まとめ

以上5世紀後半について見てきました。本来は個々の事績を年表のように流れで説明したかったのですが、力不足でそこまではできませんでした。今後時間をかけて精査していきたいと思います。流れにこだわらなければ允恭紀、安康紀、雄略紀を読めば何が起きていたのかは知ることができるでしょう。今回は5世紀の概略として、倭の五王と天皇の対比をわかりやすく伝えるという目的は果たせたので、これは十分な成果だと私は感じています。

次は日本書紀の試みについて書いていこうと思いますが、占いや予言など信じないという方は特に読まなくても問題ないです。ですが今まで4世紀、5世紀と見てきて、この日本書紀の記述の仕方は何なのか、当然疑問に感じると思います。当時は資料が少なかったため仕方なかったとか、歴史を記述する能力が極端に低かったとか、そもそも文献を字面通りに読むのが本来は正しいとか、いろいろな解釈が可能かと思います。今回は履中天皇について、本来即位する時間的余地がないのに天皇であるとする矛盾を、予言の部分ということで少し説明しました。また武烈天皇については、カルマの解消のため王朝交代時に似たような出来事が起こると説明しました。次はこういった部分も含めつつ、より大きな観点から日本書紀の謎を探りたいと思います。