占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

倭の五王

倭王済、倭王興、倭王武

倭の五王を各天皇と比定していきたいと思うのですが、まずは最も異論のない倭王武から見てみたいと思います。

倭王武は元来雄略天皇だとされています。私もそうだと考えます。中国の史書ではっきりと年代が確認できるのが478年、その時の上表文があります。この上表文からわかることは父と兄が急死して自分が即位した、ということです。父を倭王済、兄を倭王興とする説が有力です。父は允恭天皇でこれもまず確かだと思うのですが、兄については異説もあります。しかし普通に考えて歴代天皇に名を連ねる安康天皇です。

年代の推測

問題は父と兄が急死して即位した年代です。雄略天皇の即位年は457年とされています。諸説ありますがその前後数年といったところです。しかし父と兄が急死して自分が即位したことを、20年後にあえて記述するでしょうか?上表文には百済の窮乏も記されており、475年の漢城陥落と一致します。普通に考えれば475年~478年頃に父、兄が死亡し、478年自分が即位したことを中国宋に伝えたのではないでしょうか。

次に允恭天皇(倭王済)の在位を調べてみます。一般的には412年即位、453年崩御というものです。しかしそれが事実だとすると允恭天皇は倭王讃、珍、済と被ることになるのでおかしいです。倭王済であることを前提とすれば遣使は443年と451年。440年頃即位したとして30年ほど在位し475年頃死亡。在位は少し長いですが特に違和感はありません。では安康天皇はどうかというと、倭王興は462年に遣使を派遣しています。上記の説であれば允恭天皇の在位と被りこれもおかしいです。そこで宋書には興が「倭王世子」と書いてあるとあり、「世子」つまり「皇太子」だったのでは、という説があります。これならば矛盾なく説明できます。そこで私はこの三代の天皇については次のように考えます。

天皇 倭王名 在位
允恭天皇 443年~474年
安康天皇 475年~477年
雄略天皇 478年~

稲荷山古墳鉄剣

稲荷山古墳出土鉄剣というものがあります。古墳時代において貴重な金石文が記されており、高い資料価値があります。そこに記されている「辛亥年」と「獲加多支鹵大王」から「辛亥年」を471年とし、「獲加多支鹵大王」をワカタケル、つまり雄略天皇とするという説が有力です。471年は日本書紀によれば雄略天皇の在位期間となります。この説が確かならば上の在位年表と矛盾します。471年説も十分あり得ますが、私は次のような理由で辛亥年を531年と考えています。
この鉄剣はその名の通り埼玉県行田市にある稲荷山古墳から出土しています。稲荷山古墳はさきたま古墳群の一つであり、その中でも最初期に築造されたと考えられています。時期は5世紀後半頃で、近接する大規模古墳はその後随時築造されました。では稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文、「辛亥年」は471年とするのが妥当、とも思われますが、この鉄剣とともに埋葬された人物は稲荷山古墳の初葬者ではない、という点が重要です。基本的に古墳は初葬者の死亡を契機として築造が開始されます。初葬者は前方後円墳であれば後円部の中心に埋葬されるのが基本です。この鉄剣も後円部からの出土ですが中央部ではなく、初葬者の埋葬場所は別にあると考えられています。そして鉄剣とともに発掘された副葬品からは6世紀初頭以降に広まったと推定される鎧などが出土しています。つまりこの鉄剣は稲荷山古墳に追葬された人物の副葬品と考えられます。
銘文を読めばこの鉄剣は「乎獲居の巨」の所持品であり、115文字の銘文は「辛亥年」に記されました。「乎獲居の巨」は「獲加多支鹵大王」が「斯鬼の宮」にいる時に武官として仕え、この剣を佩していたのでしょう。そして531年(辛亥年)、死後埋葬にあたり剣に銘文を記し副葬したのだと思います。
「獲加多支鹵大王」をワカタケルと読み雄略天皇と考えれば在位は5世紀後半、私の考えでは478年即位で500年頃までの間です。「斯鬼の宮」は今の奈良県桜井市になります。そのころ出仕してこの剣を下賜され、531年の埋葬にあたり銘文を記し副葬品とした、というのであればおかしい点はありません。稲荷山古墳の築造時期からすると531年では少し新しすぎる、という疑問も初葬者ではないとすれば解消します。私はこのような理由から辛亥年を531年と考えています。

倭王讃、倭王珍

では次に倭王讃と倭王珍について見ていきます。私は讃が仁賢天皇、珍が顕宗天皇ではないかと考えました。両天皇の父は前の「かご坂王忍熊王の反乱」でも見たように市辺押磐皇子となっています。しかし年齢的にも子はいなかっただろうと説明しました。ですがまずは顕宗紀を参考に、とりあえず市辺押磐皇子の子ということでその後の経緯を簡単に説明します。

父(市辺押磐皇子)が殺されたと聞いた兄弟(仁賢天皇と顕宗天皇)は従者とともに逃げ、丹波国の与謝郡へ隠れました。さらに播磨国縮見山の石屋、播磨国の明石へ逃げ身分を隠していました。とある宴会で身分を明かすこととなり、それを聞いた時の天皇(清寧天皇)は明石へ人をやり、皇子として迎え入れました、という話です。さらに続きがあり、清寧天皇崩御後、兄弟譲り合ってどちらもなかなか皇位につかず、代わりに姉の飯豊青皇女が天皇として政務を行った、ということです。

飯豊青皇女

飯豊青皇女は飯豊天皇と呼ばれ、歴代天皇の一人と数えられる場合もあります。市辺押磐皇子の娘となりますが、妹とする説もあります。市辺押磐皇子の妹に青海皇女の名前があります。私は市辺押磐皇子には年齢的には子がなく、青海皇女という女性は実在したと考えます。市辺押磐皇子は347年の乱で殺されますが、妹の青海皇女は難を逃れ、丹波国へ隠れたのではないでしょうか。年齢的にはまだ10代くらいでしょう。身を潜めて暮らしますが、後に娘を産みます。それが飯豊青皇女(飯豊天皇)です。市辺押磐皇子のにあたります。さらにその子が仁賢天皇と顕宗天皇ではないかと思います。そうであれば400年頃飯豊天皇は30代~40代くらい、仁賢天皇と顕宗天皇は10代~20代くらいです。倭王讃が中国の史書に登場するのは421年、この頃まで母の飯豊天皇が政務を行い、次に仁賢天皇(倭王讃)が立って、続いて弟の顕宗天皇(倭王珍)が即位します。宋書に珍は讃の弟とあるので矛盾がありません。
珍の次は済(允恭天皇)ですが、宋書では珍と済の関係は不明です。允恭天皇の即位前は1年空位があり、その時に大きな権力争いがあったと考えます。允恭天皇の即位年を倭王済が遣使した443年とし、442年は戦乱で空位、顕宗天皇は441年まで在位した、と仮定します。数年のずれはあるかもしれません。在位順に整理すると次のようになります。

5世紀天皇在位
天皇 倭王名 在位
応神天皇 ~401年
飯豊天皇 410年頃~420年頃
仁賢天皇 420年頃~430年頃
顕宗天皇 430年頃~441年
空位 442年
允恭天皇 443年~474年
安康天皇 475年~477年
雄略天皇 478年~500年頃
清寧天皇 500年頃~506年

私の説では日本書紀の在位順があまり意味がないということは既にわかっていると思いますが、これは倭の五王の比定としては今までにない斬新で大胆な説と言えます。特に仁賢天皇と顕宗天皇をこの位置に据えることで、様々な矛盾を解消できます。しかし天皇の在位が半世紀ほど繰上り、順番まで変わるとなれば相応の説得力がある説明が必要となるでしょう。次はこの説を補強するいくつかの根拠を挙げ、5世紀前半の状況を説明したいと思います。さらに4世紀から続く権力争いの構図も説明していこうと思います。