占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

允恭天皇

隠された出自

允恭天皇の即位について見ていきたいと思います。出自を見ていくことで即位時の様子もわかってきます。父が仁徳天皇、母が磐之姫となっていますが、これは双方違うでしょう。ですが普通に日本書紀を読んでいてはほかに手がかりもなく、年代的な矛盾に目を瞑り仁徳天皇の子と受け入れざるを得ません。私は仁賢天皇と顕宗天皇を5世紀前半に在位していたと考え、履中紀、安康紀、雄略紀なども横断的に見ながら一つの説に行き着いたので、少し解説していきたいと思います。

大草香皇子

允恭天皇の即位時、天皇の候補がもう一人いました。それが大草香皇子です。こちらも父は仁徳天皇とされており、母は日向髪長姫となっています。しかしまずこの大草香皇子も仁徳天皇の子ではないはずです。日向髪長姫が登場するのは応神紀13年、私の計算だと387年にあたり、少しずれたとしても390年前後のことだと思います。美人と名高い髪長姫を日向から召し、皇子(仁徳天皇)に娶らせたとあります。この皇子は仁徳天皇ではなく、応神天皇の実在の皇子のいずれか、額田大中彦皇子もしくは大山守皇子かと思いますが、断定できません。そしてその間に二人の子が生まれるのですが、それが大草香皇子、もう一人が草香幡梭姫皇女となります。応神天皇から見てにあたります。

眉輪王

成人した大草香皇子は中蒂姫を妃とし、二人の間に眉輪王をもうけます。これは430年頃の話だと考えられます。ここで時代は大きく飛ぶのですが、安康元年(475年)では大草香皇子は殺され、中蒂姫は天皇(安康天皇)の妃となります。連れ子の眉輪王は父の仇討ちで天皇を殺した、とあります。この仇討ちの結果、葛城氏の衰退が決定的になります。しかし葛城氏の衰退はもっと早く440年頃、大草香皇子も5世紀前半の人物。そこで時代のおかしい安康天皇の部分を顕宗天皇に変えて読めばすべてつながります。

つまりどういうことかというと、435年頃、顕宗天皇(倭王珍)は兄仁賢天皇(倭王讃)の後を継ぎ天皇となります。そして自分を脅かす存在である大草香皇子を殺します。大草香皇子には既に中蒂姫という妃がいて、その間にはまだ幼い眉輪王という子もいます。当時は夫を殺された妻や子を自分のものとするような風習があったようです。顕宗天皇は中蒂姫を妃とし、眉輪王も自分の子とします。眉輪王は父を殺された恨みを抱いており、顕宗天皇を殺してしまいました。これが442年の政変で葛城氏の衰退は決定的となります。そして眉輪王こそ允恭天皇(倭王済)の正体ということになります。応神天皇からみて直系のひ孫にあたります。

ちなみに大草香皇子の妹(姉?)の草香幡梭姫皇女は仁賢天皇の妃になったのだと思います。

ヤマト王権正統系譜
ヤマト王権正統の系譜

即位時の年齢

こう考えると443年の即位時、允恭天皇はまだ子供のはずです。允恭天皇が幼くして即位したと思われる記述がいくつか見られます。まずは名前、雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと)ですが、「稚子」は子供のことです。次に即位時の記述で、「天皇の御印を奉った」とあり、自力での皇位継承ではなかったと推測される点。さらに允恭天皇の崩御時の記述、「年は若干であった」とあり何のことかと思いますが、これは即位時に「年は若干であった」という意味で、崩御時に書くことで類推させようとしていると考えることができます。

となると、允恭天皇を補佐した勢力があるはずです。倭直吾子籠という人物がいて、たびたび名前が出てくるのですが、この人物が眉輪王の後見人として442年の争乱を主導したのではないかと考えています。倭直吾子籠は石上神宮を中心とした狭義のヤマトの長で、朝鮮半島(安羅?)へ派遣されていた経験もあり半島情勢にも詳しい人物だったと思います。

まとめ

ということで允恭天皇の出自と即位について見てきました。磐之姫の子というのは年代的にありえないにせよ、履中天皇(平群氏)の系列となると不自然になるので悩みました。上記のように考えるとすっきりし、大草香皇子という謎の皇族の立ち位置もはっきりします。允恭天皇は眉輪王のことで、応神天皇の直系であり大草香皇子の子、両道入姫から続くヤマト王権の正統ということがわかりました。つづく