占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

アマテラス⑤

丹生都姫神社
丹生都姫神社

ワカヒメ

アマテラスを語る上で、もう一人重要な女性がいます。ホツマツタエでも詳細に描かれているワカヒメ(ヒルコ)です。このワカヒメは和歌や琴が得意で、弟のスサノオにも慕われています。しかしこのワカヒメと言う人物はスサノオと同じ時代に生きてはいません。200年後の国譲りの時代、大国主神(大己貴)の娘として実在します。名はタカコ、2代目ワカヒメと呼ばれています。しかし初代ワカヒメは実在しない、もしくはハヤアキツ姫を指します。日本最初の和歌を詠んだのはスサノオ、そしてその妻奇稲田姫は琴を嗜む、この伝統が出雲、紀の国と受け継がれ、大国主神(大己貴)の娘タカコは和歌と琴が得意、ということです。そしてこのワカヒメ(タカコ)は丹生都比売神社の祭神、稚日女命のことです。大己貴の娘なので国津神、しかも王女という地位です。出雲、紀の国は国譲りで滅亡します。亡国の王女の境遇は察するにあまりあります。ワカヒメ(タカコ)は父大己貴と共に津軽へと流されたという話もあり、また和歌山で生涯を閉じトシノリ神(歳徳神)と崇められた、とも言われます。

国津神の王女

このワカヒメ(タカコ)、稚日女命がアマテラスではないか、とも考えられる場合があります。しかし国津神の王女であり、アマテラスであり得るわけがありません。ですがそう誤解されるのにも十分な理由があります。ワカヒメはスサノオの姉という設定で、廣田神社で育てられ、生田神社に祀られています。現在生田神社でもワカヒメはアマテラスの和霊として祀られています。これはアマテラスとワカヒメを同化させることで、天津神側が罪の意識を中和しようと考えたのではないでしょうか。

阿豆那比(あずない)の罪

稚日女命を生田神社へ祀ったのは、ちょうど神功皇后が三韓征伐から凱旋した折、船が回って進まなくなり神意を問いて場所を決めたようです。日本書紀ではその記述の直後に、「阿豆那比(あずない)の罪」について触れています。紀伊の国、小竹宮(しののみや)であたりが暗くなり、当地の者に訳を聞くと「二社の祝者(はふり)を一緒に葬ってあるのが原因」と説明されます。小竹の祝と天野の祝を別々に葬れば元通りになるとのことで、そうすると昼夜の別ができた、という話で、私は日本書紀を読んでいて「なぜ唐突にこの話をするのだろうか?」と疑問に思っていました。しかし今となればその理由がわかる気がします。日本書紀の編纂を指示した天武天皇はこの稚日女命の問題を重要視していたのでしょう。後の時代まで誤解を引きずらないためにも稚日女命を祀った経緯の直後にこの記述を入れておいたのだと思います。昼夜の別ができた、これはアマテラスとツキヨミ(=スサノオ)が昼夜を分けて支配した、との神話に繋がります。つまり稚日女命は国津神で、現在は混同されて祀られていますよ、と注記したということです。

紀の国は出雲と違い建国も滅亡も深い闇の中にありますが、スサノオの子が建国したこの「紀の国」は日本史においてより深く研究されるべき課題だと感じます。

混乱の原因

以上アマテラスの実在性とその実態について、少し強引なようでもありますが明らかにしてみました。神話でしか知ることができなかったアマテラスとスサノオの血肉を感じられるストーリーだと思います。天岩戸隠れ、出雲の国譲りについても神話ではなく、歴史的事実として捉えることが可能になるかと思います。しかしこの考えは多くの神話や伝承と食い違うこととなるので、なかなか受け入れられる話ではないとも思います。神話や伝承、それがいつどのようにして作られ、語り継がれてきたのか、そこにも視点を当てて私の説を補完してみようと思います。

ニニギによる歴史の改ざん

ニニギ(ニニキネ)は出雲の国譲りの後、まず長男ホノアカリが葦原中国を統治しようとするも失敗し、代わりに葦原中国へと降臨した(天孫降臨)と考えられる人物です。天津神でありながら、国津神とも融和的で国土開発に尽力しました。木花開耶姫命との物語は日本人にも馴染み深いものです。その子孫はホオリ、ウガヤフキアエズと皇統を継いだと考えられます。

ニニギが天津神でありながら、国津神にも同情的だったのは、以上のような歴史的事実が西日本では史実となっており、後に統治しようとした天津神としても弁解の余地がなかったからだと考えます。ハヤコが根の国を追放されて以降、天津神にとってスサノオ、その子である気吹戸主(大屋毘古神、五十猛命)は許しがたい敵であり、彼らの国である出雲、紀の国に良い印象はなかったことでしょう。これらの国を打倒することは天津神の悲願であり、そして王オシホミミの時代にようやくそれは達成されました。しかし先に弥生文化を取り入れていた西日本は稲作による農耕改革で豊かな繁栄を築いており、和歌の文学、琴の音楽など文化的にも進んでいました。日本書紀におけるスサノオの悪行、田畑を踏みにじり神殿を破壊し・・・、これらは実はフツヌシ、タケミカヅチら天津神が招いた出雲、紀の国での蛮行で、その罪をスサノオに着せたものだと考えます。稲作も機織りも、当時東日本には根付いていなかったはずです。

ニニギは九州各地にも伝承が多くあります。更に旅をつづけ、現地を視察し、モチコ・ハヤコ一味の悪行は到底隠し仰せないと思ったのでしょう。ではこれをヤマタノオロチとしてスサノオに打倒させる、というストーリーは残しつつ、アマテラスを悲劇の女性とすることで岩戸隠れの物語を作り出し、モチコ、ハヤコ、ハヤアキツ姫、そしてワカヒメ(タカコ)の伝承を混同して伝え、出雲の国譲りをアマテラスの岩戸開きとして天津神に都合よく作り変えたのではないかと思います。

それは時間の力で深く浸透し、揺るぎない神話、伝承として日本各地に根付いていきます。現代のように情報が瞬時に空間を超える時代ではなく、人と人とが往来し語り継ぐことでしか話を広めることができない時代が長く続きました。例えば一つの時代、天武天皇のような人物が歴史を洞察し、正しい歴史の道筋に気がついたとしても、それを全国にあまねく伝える手段はほとんど限られます。正史を編纂するという国家事業でもってなんとか次の世代へと史実をつなごうと画策した、それが日本書紀であったのだと感じます。

安羅神社

安羅神社にはスサノオと速佐須良比売(ハヤコ)が祀られています。速佐須良比売はすでに失踪しており、形見だけが安置されていたようです。ホツマツタエによればこれが原因でハヤコはイワナガ(磐長比売命、後に妹である木花開耶姫命に嫉妬し陥れる)に転生した、と書かれています。私はこれに少し違う意見をもっています。

スサノオはハヤコを変わらず愛しており、気吹戸主によって攻められ追放されたあとも、思い出の地にその形見を安置し過ぎし日を偲んだのでしょう。ハヤコは残念なことに男児に恵まれず、ハヤアキツ姫への後ろめたい気持ちもあり逃げ落ちるしかなかったのだと思います。ここでスサノオとアマテラスの誓約(うけい)を思い出します。スサノオはただアマテラスにひと目会いたかっただけ、そしてその証明に男児を産もう、と。
ハヤコは後にニニギへと転生し、天津神の王として国津神との融和を図り、スサノオの功績も後世に残る形で伝承したのではないでしょうか。