占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

ヤマトタケルと二人の妃

5世紀における権力争いの構図

5世紀を語るのに、そのだいぶ前の人物であるヤマトタケルの妃たちについて言及することにも理由があります。4世紀半ばまではまだヤマト王権は基礎が固まっていませんでした。反乱や王位簒奪などの危険がありました。しかし4世紀も後半になるとその脅威は薄れ、ヤマト王権は朝鮮半島へと勢力拡大をもくろみます。国内にはすでにヤマト王権に対抗できる勢力はありませんでした。唯一吉備王国は大勢力を誇っていましたが、ヤマト王権との関係は良好でした。

399年ヤマトタケルが死亡します。401年には応神天皇も死亡します。ただヤマトタケルの死去は当初隠された、とも思える節もあります。仁徳天皇陵築造時期や武内宿禰の伝承などからそう推測します。しかしいつまでも死を隠し通すことはできません。では次の王は誰にするか、王位をめぐる権力争いが発生します。5世紀はヤマトタケルの子孫達が激しい権力争いを行った時代です。

両道入姫と弟橘姫

ヤマトタケルには複数の妃がいますが、後の王権に影響を与えた女性は二人に絞られます。両道入姫弟橘姫です。景行紀の51年に記述があります。ヤマトタケルと同一人物である仁徳天皇はというと、まず皇后である磐之媛と、磐之媛の死後皇后となった八田皇女です。磐之媛は弟橘姫のことであり、八田皇女は両道入姫となります。

弟橘姫はヤマトタケルの東征の時に死んだのでは、と思うはずです。しかしどうも生きて近畿に戻っていた、というのが真相のようです。弟橘姫の死を悲しんで「吾妻はや」と嘆いたので吾妻という地名になったとか、弟橘姫の死を受け入れられず立ち去れなかったから木更津の地名になったとか、それらは1700年たった今でも言い伝えられています。実は生きていたのか、と思うと少し興ざめですが、一度死んだことにした手前生きていたことにはできなかった事情があったのだと思います。これは死んで白鳥になったヤマトタケルについても同じです。ヤマトタケルと弟橘姫は「死んだ」ことになっているため、その後の歴史にも顔を出すことができませんでした。しかしその子らは当然王権の有力氏族となります。

まずはこの二人の女性についてみていきますが、人物の名前が錯綜するので混乱するかと思います。ですのでまずは仁徳天皇、磐之媛、八田皇女は架空の人物だと考えておいてください。それが日本書紀の正しい読み方です。実体はヤマトタケル、弟橘姫、両道入姫で、史実を追う時にヤマトタケルと弟橘姫は死んだことになっていて表舞台に出ることはできない、という前提が重要になります。つづく