占い、宗教、歴史などの研究をまとめています。

空白の4世紀 – 年表

5世紀の日本を調べていて新たな発見などがあり、過去の記事を精査中です。空白の4世紀の年表を載せておきます。

年表

年表
西暦 出来事 備考
281年 崇神天皇死亡 崇神天皇は大和で死亡したと考えます。
282年 垂仁天皇即位 崇神天皇から垂仁天皇への皇位の継承は自然なものではないと思います。垂仁天皇は崇神に倒された卑弥呼のヤマト国を継承する人物で、この時期失地回復を果たしたのだと思います。
283年 狭穂彦の反乱
熊襲の反乱
狭穂彦の反乱は大和での出来事。熊襲の反乱は九州での出来事で景行天皇が山口県から西征し九州北部を侵略していきます。
284年

290年
景行日向の高屋宮を拠点とする 景行天皇はここを拠点とし九州南部、熊襲、隼人などを征服していきます。
285年 野見宿禰の相撲の話 東日流外三郡誌にも記されています。相撲の起源でもあります。
286年 但馬の神宝を見せてもらう 新羅の国からもたらされた但馬の神宝。また別に崇神60年には出雲の神宝事件があります。「神宝を見る」というのはその国を滅ぼしたということだと思います。
287年 垂仁天皇タジマモリを東国へ遣わす タジマモリは新羅王子天日槍の5世孫。天日槍は150年ころ、孝霊天皇などと同世代の人物だと思います。タジマモリは垂仁天皇の信頼厚い人物だったと思われます。5年後帰国しますがすでに垂仁天皇は亡くなっていました。
290年 景行天皇大和へ 景行天皇は九州一体を平定し、次は大和へ向かいます。現在の和歌山市に滞在。一時垂仁天皇に服属します。
292年 景行天皇謀反
垂仁天皇死亡
垂仁天皇の死亡時期については景行天皇の即位と同時期とみてのことで、まだ根拠が薄いです。垂仁天皇の陵墓は宝来山古墳だと思われます。
293年 景行天皇即位 近畿一体も勢力下におきます。
293年 ヤマトタケル誕生 小碓、日本武尊とも書かれる。武内宿禰でもある。ヤマトタケルが一般的なのでそう書きます。
294年 倭姫2代目斎宮に 豊鍬入姫から天照を離し倭姫に付け伊勢に祀らせる。豊鍬入姫は51歳、倭姫は5歳。豊鍬入姫は倭姫の伯母となる。これは垂仁紀にありますが、景行天皇の治世です。崇神天皇の行為に習ったのでしょう。
294年 景行天皇美濃へ。帰還後纒向に滞在。 この時ヤマトタケルの兄大碓(オオウス)は生後1年で美濃へ。兄遠子、弟遠子が美人なので住み着いたとあります。後年ヤマトタケルと争った兄はこの人物でこの時すでに青年になっていたと思われます。つまり景行天皇はオオウスと共に美濃へ行き、オオウスがその地に残ったのだと思います。
306年 景行天皇上総国巡幸。帰還後伊勢綺宮に滞在。 この時の上総国巡幸でヤマトタケルも同行したと思われます。14歳。ヤマトタケルの熊襲討伐は史実ではないと考えますが、物語の下地はこの遠征かと思います。
308年 ヤマトタケル東征 この時16歳。今で言えば高校1年生。無謀な気がします。
309年 ヤマトタケル帰還し尾張滞在 この時17歳。尾張で宮簀姫を妻に。宮簀姫はヤマトタケルが東征へ向かうときに出会っていて結婚を約束していたようです。尾張でしばらく滞在しています。
310年 ヤマトタケル死を偽装
景行天皇死亡
この時18歳。草薙の剣を置いて伊吹山へ。病にかかり三重県能褒野で死亡し白鳥になる。奈良県琴弾原、大阪府古市邑と降り立つ。景行天皇はオオウス、もしくはヤマトタケルに殺されます。
311年

312年
空位 仁徳天皇即位前、菟道稚郎子と皇位を譲り合ったとあります。実際はヤマトタケルとオオウスの争いでしょう。
313年 ヤマトタケル即位 成務天皇でもあり仁徳天皇でもあります。宮は高穴穂宮(滋賀県大津市)か難波高津宮(大阪市中央区)かと思われます。
313年 楽浪郡、帯方郡滅亡 高句麗による。楽浪郡、帯方郡は漢民族の出先機関です。朝鮮半島での漢民族の衰えは決定的となります。
314年 成務天皇全国に国造を設置 成務天皇(ヤマトタケル)によるこの事績は各地に記録が残っており確認することができます。
321年 仲哀天皇生まれる ヤマトタケルと両道入姫の次男です。
337年頃 武内宿禰東北、北陸地方を視察 王としてではなく大臣武内宿禰として。東北や北陸の各地に痕跡があります。景行紀25年の記述がこのことだと思われます。
342年 仲哀天皇即位 22歳。皇后両道入姫の次男。ヤマトタケルはこの時50歳で隠居のような身になったのかと思います。気長足姫(神功皇后)を皇后とします。日本書紀の仲哀紀の初めの部分、白鳥の話があります。父を偲んで白鳥を献上させたが途中奪われたという話ですが、これはヤマトタケルが父と兄を殺害したことを暗示しています。
343年 敦賀に仮宮
仲哀天皇南海道巡幸
さらに山口県穴門豊浦宮へ宮を移す
敦賀の気比神宮。山幸彦の時代から由緒があり、この時期に拡大したのではないかと思われます。仲哀天皇、神功皇后、ヤマトタケルなどが祀られています。
その後仲哀天皇は紀伊(和歌山県)を経て穴門(山口県)へ。ここへ神功皇后を呼びます。3年ほど滞在しています。
346年 仲哀天皇熊襲を討つが勝てず
仲哀天皇崩御(26歳)
三韓征伐
この時神功皇后に神懸かりがあり新羅を討てと神託があったが、それに従わず熊襲を討って負けてしまいます(史実ではないと思う)。仲哀天皇はすぐ病に倒れ死亡。神功皇后、武内宿禰(ヤマトタケル)が三韓征伐へ。
347年 かご坂王、忍熊王の反乱 神功皇后が三韓征伐から帰国し誉田別(応神天皇)を出産。穴門を経て大和へ帰還すると、かご坂王、忍熊王が留守中に兵を挙げていました。武内宿禰が反乱を制圧。
347年 神功皇后摂政元年(17歳)
磐余若桜宮(奈良県桜井市)に宮を遷す
ヤマトタケルはこの時54歳。難波の宮も並行して機能していたと考えられます。
349年 新羅から使者が来る 先の戦争での人質を取り返しに来た模様。記述からはお互い信頼できていない様子を感じます。
353年 武内宿禰、誉田別皇子と気比神宮へ 誉田別皇子(応神天皇)は若くして皇太子になっておりヤマトタケルも期待をかけていた様子です。この時も大宴会を開いたとあります。
353年 百済へ使者 仁徳紀より。紀角宿禰を百済へ遣わします。国境を定め各種の記録を付けたとあります。新羅とは違い百済とは幾分友好的です。紀角宿禰は葛城襲津彦などと対朝鮮外交で活躍しており、共に武内宿禰の子とされています。外交は重大事ですので親族に任せたのでしょう。
365年 上毛野田道を新羅へ派兵 仁徳紀より。田道将軍と言われる人物です。
367年 上毛野田道を東北へ派兵 仁徳紀より。田道将軍が伊峙の水門(石巻?)で討たれます。古墳文化は宮城県大崎市付近の大崎平野までとされていますので、この戦争と関連が深いと思われます。
370年 百済から使者が来る 神功紀より。久テイら。同時期に新羅からも使者が来ており貢物の内容で揉めています。翌年の戦争の原因になっているようです。
371年 新羅再征 神功紀49年の戦争の記述です。大きな戦果があったようです。また百済とともに戦ったとあります。攻めとったいくつかの国を百済へ与えており百済は朝貢を約束したとあります。
372年 七支刀をもらう 370年、371年と立て続けに百済から使者が来ており、百済へも使者を派遣しています。両国の友好的な様子が伺えます。2倍暦を用いて計算するとこの年に七支刀をもらったようです。
銘文にある「倭王旨」はヤマトタケルのことでしょう。「旨」は「うま(い)」です。武内宿禰の弟に甘美内宿禰(うましうちのすくね)という人物がいるとされていますが、双方ヤマトタケルの別名だと思われます。
377年 新羅を討ちに襲津彦を派遣 新羅の計にかかり襲津彦は新羅ではなく加羅を討ってしまったようです。襲津彦は王の怒りを恐れ帰国できなかったとあります。
381年 神功皇后崩御 享年50歳。若くして夫と別れながらもその事績からは力強さを感じます。
381年 応神天皇即位 36歳。ヤマトタケルの孫にあたります。この時ヤマトタケルは89歳です。
384年 高句麗、百済、新羅、任那から使節。韓人池を造る この頃高句麗が南下し百済が圧迫を受けています。応神紀にある「百済が礼を失した」というのは高句麗に領土を削られたことを言っています。
388年 弓月君が百二十県の人民を率いて帰化 秦氏の祖です。
389年 王仁渡来 王仁は百済における儒教の先生だったようで、経書をもって日本に渡来しました。高句麗が強勢になったため大和朝廷としても経書の研究が必要になったと思われます。
391年 阿知使主(アチノオミ)が十七県の人民を率いて帰化 東漢氏の祖です。弓月君と阿知使主は帯方郡由来の漢人で多くの技術をもたらします。帯方郡は高句麗に滅ぼされており、その支配を嫌って日本に帰化したのでしょう。
391年 広開土王碑の記述 広開土王碑は「百済と新羅は(倭の)属民なので倭に朝貢していた。よって391年海を渡って(倭を)破り百済と新羅を臣民とした」歴史の流れを見れば大筋このような文だと考えられます。高句麗はこの頃朝鮮半島を掌握し、更に海をわたって壱岐まで進出したようです。
395年 高句麗から使節が来る 上表文には「高麗の王、倭に教う」とあり太子はその無礼なことに怒ったとされています。
396年 武庫の船火災 応神紀31年の記述です。高句麗に対抗するため500隻の船を集めたのですが、それを見た新羅の使者が危機を感じ放火した事件のようです。
399年 阿知使主を呉へ派遣 高句麗を経由して呉(東晋)へ向かったようです。
399年 ヤマトタケル死亡 107歳です。若くして王になり激動の時期を駆け抜けた世界に誇れる日本の王と言えるでしょう。
401年 応神天皇崩御
呉から使いが帰る
55歳です。死後呉からの使者が縫女とともに帰国したとあります。絹織物に価値を感じたのでしょう。ひとつの時代の終焉を感じます。

5世紀の日本史まとめ

歴史を探る「占い」という軸

今回は5世紀の日本史について解説していきましたが、その際に触れなくてはならない日本書紀の試みについても説明しました。私の説と日本書紀とのギャップはどうして生じるのか、占いや予言などの分野に踏み込むこととなりましたが論理が飛躍しないように苦心しました。そして空白の4世紀、5世紀と調べてみて、私の説は大筋で正しいことがわかり、この説に至るきっかけとなった戦国時代の考え方をについても、今となれば大げさではないと思い今回書いてみました。

さらに戦国時代の様相から、占いによって空白の4世紀を解明した経緯を書こうかとも思ったのですが、すでに十分な説明をしているので蛇足になると思い、この辺りでやめにしようと思います。戦国時代のあの人物は古墳時代のあの人物の転生、などいろいろ思うところはあるのですが、これはむしろ書かない方がいいだろうと思いました。解明に至る大きな鍵になったのはヤマトタケルの生まれた年を293年と確定できたことになりますが、それにはまずホツマツタエのトヨスキ(豊鍬入姫)の記述から基準となる年代を割り出すことが必要でした。興味のある方はぜひ文献や私の記事を読んで調べてみてください。

5世紀解明への足掛かり

5世紀については倭の五王と天皇の比定を中心に、5世紀の権力争いとその原因となったヤマトタケルの妃たちについても触れました。特に履中天皇を4世紀に活躍した平群木菟宿禰と設定することで、様々な文献や遺跡と矛盾することなく説明できました。履中天皇の生存時期からそれに続く履中系の仁賢天皇、顕宗天皇兄弟の在位時期を改めて、その後の眉輪王の変と允恭天皇の正体も確認できました。また大草香皇子という謎の皇族についても応神天皇の直系の孫という重要な地位だったことがわかりました。

日本文化の再発見

空白の4世紀、そして続く5世紀と、日本史の大きな謎を解明できたことは大変な成果だと思います。上で列記していて我ながらすごいと思いました。専門家でもない私がこのように歴史を解明できるのは、「占いの視点」という他人にはない軸があるからだと思います。歴史を平面で見るのではなく、転生や因果の法則から立体的に捉えることができる、そこが私の強みだと考えています。そして同じ視点で編纂された日本書紀と私の考察が時代を超えて共鳴することで、日本人の高い精神性と文化を再発見することにもつながりました。

最近暑くなってきたので私はまた休憩に入り、気が向いたら5世紀についてもう少し整理して、できれば年表のようにしてみたいと思います。

戦国時代の考え方

歴史的事件と因果の法則

本能寺の変

本能寺の変は明智光秀が主君の織田信長を本能寺で夜討ちした事件です。なぜ謀反を起こしたのか、その動機については謎で様々な説があります。私は次のように考えていました。

1582年、当時京都には織田信長、徳川家康、明智光秀などが滞在していました。羽柴秀吉は中国地方へ遠征を準備しています。そんな中で光秀は秀吉から次のように聞かされます。「主君(信長)の命で家康を暗殺する」という計略です。内密に事を運ぶためこの計略を知る者は極わずか、秀吉側の重臣と光秀側の重臣(斎藤利三)などにより密かに計略は練られます。そして家康が本能寺に滞在している所を狙い、計画を実行に移します。それが本能寺の変です。
夜討ちの結果死んだのはなんと主君の織田信長。徳川家康を討つ予定が信長を殺してしまいました。慌てた光秀は信長の長男信忠をも殺し京都を制圧、そこでこの事態の把握と今後の分析をします。斎藤利三によれば信長の命で家康を討つために秀吉と策を練ったわけですが、これは手を汚さずに信長を暗殺する秀吉の策謀だった、と理解します。ならば秀吉はすぐに引き返してくるはず、そして間もなくその報を聞き、急遽隘路の難所である山崎で迎え撃つことを決めます。それが山崎の戦いですが、士気も上がらず軍備も不十分な明智軍は敗退し、明智光秀は殺されてしまいました。・・・とされていますが実際は生きて潜伏し、後に僧侶天海として家康に仕えます。斎藤利三は秀吉に利用され主君光秀を謀反人にしてしまったことを何とか挽回しようとしますが、山崎の戦いでとらえられ無残に殺されてしまいます。これを深く悲しんだ光秀(天海)は利三の娘である福(春日局)を重く用い、その霊を慰めました。

小早川秀秋

私はこのように考えていましたが実際のところはわかりません。そのような中で岡山へも足を運んだ際、小早川秀秋が関ヶ原の戦いの後ここを領地としたが2年後死亡した、とあります。そこで小早川秀秋ももしかすると死んでいなかったのでは、とふと思いました。光秀も謀反人の汚名を着ながら死んだこととして名前を変え生き続けた、ならば小早川秀秋も裏切者の汚名を着ながら死んだこととし、別人として江戸の礎を築くのに力を発揮したのでは。そう思い調べてみると江戸初期の儒学者、林羅山の存在が浮かび上がりました。なるほど小早川秀秋も死んだこととして名前を変え、林羅山として江戸幕府を作り上げたのだ、と思いました。そしてそれと同時に、小早川秀秋は明智光秀と秀吉の妻であるねね(高台院)との子なのではと考えました。

明智光秀と小早川秀秋

山崎の戦いで逃走した光秀は長宗我部元親を頼ります。そして本能寺の変の裏側を知った元親は光秀を匿います。そのころ浮気性の秀吉に愛想を尽かしていたねねと、秀吉の策に敗れた光秀は意気投合し、子をもうけたのが小早川秀秋です。1582年生まれとなっていますが数か月の違いは誰もわかりません。実際は1583年、林羅山もこの年に生まれています。ねねはまだ30代前半、光秀は年齢不詳ですが50代かなと思います。妻を大事にしたと言われる光秀ですが、この時は家族も家来も坂本城もすべてを失っています。秀吉との間に子ができなかったねねは大変喜びましたが、まさか光秀との子と言うことはできません。なので兄(木下家定)の子として自分で育てました。

関ヶ原の戦い

そう考えれば関ヶ原の戦いもまた違った視点から見ることができます。小早川秀秋は秀吉の養子だったこともある豊臣家の重臣ですが、実の父である明智光秀にとって豊臣家は仇です。天海(明智光秀)は秀秋に実の父であることを打ち明け、秀秋は本能寺の変の真相を知ります。なので秀秋は西軍を裏切ることに迷いはありませんでした。関ヶ原で東軍と西軍はぶつかりますが、秀秋は既に腹を決めています。この機を逃さず裏切りを決行し、東軍を勝利へと導きました。しかし汚名は免れようもありません。裏切者となった秀秋は死んでその名前を残すこととします。謀反人の明智光秀、裏切者の小早川秀秋、この二人は親子であり、あえて汚名を残すことで、反面教師として裏から徳川家に尽くすこととなります。そして表立っては天海、林羅山と名乗り、江戸幕府の重臣として基礎を固めました。

私はこれは十分ありうる説だなと自分で納得していました。そして旅行からひと月ほどたった2016年の1月頃、この説を前提として歴史は繰り返すと仮定し、空白の4世紀を分析してみることとしました。つづく

日本書紀の試み

天武・持統天皇陵
天武・持統天皇陵

「予言書」日本書紀とその解明

天武天皇

日本書紀は天武天皇によって編纂が開始され、およそ50年後の720年に完成した日本最古の正史です。日本書紀を編纂した一番の目的は、外国(中国、朝鮮他)に自国の歴史を知ってもらうためです。歴史書があることで国としての体裁も整います。
663年の白村江の戦い、672年の壬申の乱を経て天武天皇が即位します。まさに激動の時代を生きぬき、天下を取ったと言えるでしょう。その過程で幾度となく精神的にも追い込まれ、自省する時間も多かったと思います。そのような精神的な葛藤を経て、天武天皇は一定の境地に達したのでしょう。天武天皇は歴代天皇の中でも、頭一つ抜けた人物だったと日本人は認識しておくべきだと思います。

日本人の歴史観

日本書紀は歴史書としては書き方が独特で、転生や因果の法則などの仏教的な考え方を強く反映しています。これは天武天皇独自の歴史観というより、古来から続く日本人の歴史観だと思います。このような歴史の記述の仕方はすでに仏教伝来以前の書であるホツマツタエでも見ることができます。様々な歴史的な出来事の動機、因果から、転生後の関係を内包させて記述する、というのは日本古来からある歴史の記述法です。天武天皇は日本書紀を編纂する時どのように歴史を記述するか悩んだと思いますが、結局従来の書き方を踏襲したためにこのような複雑で読みにくい歴史書ができてしまいました。

独自性と普遍性

当時日本のみならず、東アジアにおいて教養と言えば中国の書に通じていることを指しました。その中でも儒学がもっとも尊ばれました。儒学には聖君、暴君といった考え方があり、人間の本性は本来善とする性善説に立ち、儒学を学ぶ者はその性質を伸ばして君主を補佐し、君主は慈愛の心で民に接し、天下太平の世を築くという統治のあり方が王道でした。
例えば「仁徳天皇」などという名前は儒教的な考え方では最上級の君主に冠される称号といえます。民の竈の話など、仁徳天皇が聖君であったにふさわしい逸話です。しかし私は仁徳天皇を架空の天皇と説明しました。実際民の竈の話などはなく、その逆のことが行われていたのでしょう。国民の衣食住などは省みず重税を課し、まずは王宮の建築を優先した、というのが史実だと考えるわけです。つまり聖君、暴君は長い歴史で見れば表裏一体のこと、というのが日本的な歴史観と言えます。ヤマトタケルは転生して聖君になるだろうから架空の仁徳天皇として記述し、その事績も予想しておこう、というのが仁徳紀で、正反対のことが史実なのかもと考えながら読む必要があります。このような書き方から日本書紀は「予言書」としての側面を持つこととなります。

こう考えると善政のための努力や悪政に至る怠慢なども長い時間軸では同じ評価となってしまいます。一見暴論にも見えますが、これは先ほど示した東アジアの常識である儒教的な統治論との違いを明確に感じます。中国という大国、当時は唐ですが、軍事力や文化の厚さなどすべてで上回る国に対し、それに飲み込まれることなく、自らの歴史観を示そうとした気概を感じます。
そしてこの歴史観は、国や時代を問わない普遍的な法則に基づいている、と主張しています。いずれ他の国々もこの世界の大きな仕組みに気が付く時が来るとして、日本人は既にその法則を理解し、正史「日本書紀」という形で公開しているというのが精神的な優位性を持つとの考えです。

誤解しないでほしい部分としては、大悪天皇なので来世は聖君になるであろう、というのは間違いないのですが、聖君に至るまでの過程をも否定するものではないという点です。一つ一つの政策や裁判において公平公正でなければ善政とは言えませんが、それの土台となる法整備や人材育成が無意味だと考えているわけではありません。日本書紀の編纂と同時進行で大宝律令は作成されましたし、遣唐使はその後も200年近く続けられました。儒学や仏教、そして中国の歴史と政治からはまだまだ学ぶことは多いと考えていたわけです。
そういった日々の積み重ねにより基礎を固め、いずれヤマトタケルは仁徳天皇として転生し聖君となるであろう、というのが日本書紀の隠された意図と言えるでしょう。

その後の日本書紀

日本書紀の完成から1300年が経過していますが、いまだ仁徳天皇はあらわれていないように感じます。実際は既に歴史の舞台に登場しているのかもしれませんが、日本人がそれを仁徳天皇と認識し、天武天皇の意図を理解したという話は聞いたことがありません。そういった意味で日本書紀の試みはあまりうまくいっているとは言えないと思います。本来は多くの日本人がこの意図に気が付き、このような先見性のある歴史書を持つことを誇りに感じてくれるだろうと期待していたと思います。これは奈良時代と現代では世界の認識が大きく変化したのも原因だと思います。当時の人間には現代のような科学技術の発展や開かれた国際性など想像もできないと思います。そんな中で画期的な歴史書である日本書紀もありふれた古文書の一つとみなされるようになってしまいました。

日本書紀解明の経緯

2015年の冬、私は車中泊などをしながら西日本を旅行しました。元来歴史については興味があり、史跡巡りのような感じでいろいろ立ち寄りました。伊勢神宮、京都、神戸、淡路島、岡山、出雲大社、大宰府跡、気比神宮など2週間ほどかけて巡りました。そんな中で戦国時代、本能寺の変や関ヶ原の戦いなどを深く考える機会があり、そこでこの日本書紀の秘密を解明することに成功しました。天武天皇の意図を汲み取ることができたわけです。そして家にあった日本書紀を丁寧に読み進めることで、空白の4世紀の全容をつかむことができました。次はその経緯を解説していこうと思います。つづく

5世紀後半について

雄略天皇とヤマト王権の陰り

雄略天皇

雄略天皇の即位は宋への上表文から478年と考えています。通常より20年ほど繰り下がり、なので雄略紀の記述がもしかすると允恭天皇の時代にあたるのでは、と思われる個所もあり流れをつかむことができないでいます。上表文の内容はしっかりしたもので、優秀な臣下が補佐していたのでしょう。これは人材を育成した允恭天皇の功績とも言えます。内政では絹や酒、土師器の生産などに力を入れていたようで、治世を経て生活の質は向上したと見受けられます。一方「大悪天皇」と言われているように、むやみに人を殺す性格であったことも伝わっています。

外交面では新羅との関係が悪化し、一方で百済を後押しして高句麗を強く意識しています。国内では長い間友好関係だった吉備国との関係も悪化しています。力強さは脆さにもつながり、雄略の死後は大きく混乱した様子です。清寧、顕宗、仁賢、武烈、継体と続きますが、顕宗、仁賢は5世紀前半に在位、武烈は架空の天皇ということで、実際には雄略天皇の死後清寧天皇が即位し、間は挟まず継体天皇を見つけ出す、という流れだと思います。

武烈天皇

武烈天皇空白の4世紀の説明でも触れましたが、おおむねヤマトタケルのことだと思います。時期を置いて再度武烈紀を読んでみてもそう感じます。武烈紀には平群真鳥と鮪の親子が出てきますが、武烈天皇とこの二人の関係は景行天皇とオオウス、そしてヤマトタケルの関係をなぞっているように読み取れます。景行天皇が妃にしようとした影媛は既にオオウスが関係をもっており、その子であるヤマトタケルが二人を殺した、という4世紀初頭の出来事です。

王朝の興亡とカルマ
王朝の興亡とカルマの解消

ある王朝があったとき、その勃興時と滅亡時に似たような出来事が起きる、というのは私もなんとなく感じています。これは占いの分野で、勃興時の大きなカルマを解消するために滅亡時に役割を変えて似たような出来事が起きる、という関係です。この武烈天皇の記述にはそういった考え方が反映されていると感じます。実際には6世紀初頭に武烈紀に書いてあるような出来事はなかったでしょう。ヤマト王朝もここで滅亡したわけではありません。しかしこの時期はヤマト王朝における節目の時期であることは間違いありません。日本書紀の編纂者はこの武烈紀をもって、仁徳、履中と展開していったいった架空の歴史、予言の部分を収束させようとしたのでしょう。なので意図的に非現実的な作り話のように武烈紀は記述されています。しかしこれらの出来事はヤマト王朝の初期に、似たような形で実際にあったことだと推測できます。

清寧天皇

清寧天皇は雄略天皇の次の天皇とされています。それは正しいと思うのですが、日本書紀には目立った事績はなく、仁賢天皇と顕宗天皇兄弟を見つけ出した経緯が記されています。仁賢天皇と顕宗天皇については倭の五王などで詳しく見ましたが、時代としては5世紀前半です。なので清寧天皇との関連はないと思うのですが、「隠れた皇族を見つけ出し王に据えた」という部分は史実なのではないかと思います。つまり6世紀前半、王統が途絶えそうになり継体天皇を探し出した、という出来事に清寧天皇が関与しているのではないのかと考えています。

まとめ

以上5世紀後半について見てきました。本来は個々の事績を年表のように流れで説明したかったのですが、力不足でそこまではできませんでした。今後時間をかけて精査していきたいと思います。流れにこだわらなければ允恭紀、安康紀、雄略紀を読めば何が起きていたのかは知ることができるでしょう。今回は5世紀の概略として、倭の五王と天皇の対比をわかりやすく伝えるという目的は果たせたので、これは十分な成果だと私は感じています。

次は日本書紀の試みについて書いていこうと思いますが、占いや予言など信じないという方は特に読まなくても問題ないです。ですが今まで4世紀、5世紀と見てきて、この日本書紀の記述の仕方は何なのか、当然疑問に感じると思います。当時は資料が少なかったため仕方なかったとか、歴史を記述する能力が極端に低かったとか、そもそも文献を字面通りに読むのが本来は正しいとか、いろいろな解釈が可能かと思います。今回は履中天皇について、本来即位する時間的余地がないのに天皇であるとする矛盾を、予言の部分ということで少し説明しました。また武烈天皇については、カルマの解消のため王朝交代時に似たような出来事が起こると説明しました。次はこういった部分も含めつつ、より大きな観点から日本書紀の謎を探りたいと思います。