ふとまに

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邪馬臺国への経路

邪馬台国について

邪馬台国は本来邪馬壹国と書き、読み方も「ヤマタイ」ではなく「ヤマト」です。ホツマツタエでは「ヤマト」は頻繁に登場しますが「ヤマタイ」などという単語は出てきません。ちなみに「ヤマト」というのは「ヤ」は感嘆詞、「マ」は強調、「ト」は整うのトで、「たいへん整った国」という意味のようです。
私は学生の頃、邪馬台(ヤマタイ)国というものは無く、邪馬壹(ヤマト)国の字を崩して読み違えたものだと教わり、納得してその認識は変わらないでいます。日本史、特に古代史は戦前教育の反動といった側面が強く出ていて、気持ちはわからないでもないですが、崇神天皇、継体天皇より前は実在しないとか、とても学問とは思えない説が主流となっています。先日国立の然るべき組織の研究者の話を聞きましたが、日本の古代史というのは、ヤマト王権が成り立つまでの段階を、それぞれの天皇や皇子に役割を追わせ表現している物語、と言っていました。その話を聞いていて、私も大学生の頃家庭教師や塾講師をしていましたが、生徒に問われれば似たようなことを返したかもしれないと思いました。私が適当に自説を生徒に教え、それが原因でその生徒が入試に失敗した、などということは避けたいものです。これは国の教育の一貫性という意味ではあるべき姿かもしれませんが、前提となる国家としての国史をどう捉えているのか、という部分では大きな課題だと感じます。

なぜ複数の説が存在するのか

邪馬臺国への経路

なぜヤマト国の位置は複数の説が存在するのでしょうか。そもそもの発端は江戸時代、新井白石の研究まで遡るようです。その後300年もの間、多くの研究者の空想を掻き立ててきました。近畿説、九州説に加え、最近では阿波説などもあるようです。実際に魏志倭人伝を読んでみて気になる点もあります。最も疑問に思う部分は不彌国から投馬国までの行程で、南に水行二十日という部分でしょう。それまで末廬国から不彌国までは、東南、東南、東ときて、次はということで投馬国は一体どこだ、という疑問です。私は投馬国は出雲国だと考えています。投馬は「つも」で、「い」は聞き取れないとかで抜けてしまった、ということです。そうすると水行二十日は南ではなくとなります。確かに南と書いてあればその可能性を考察するのは無理もないですが、ここは少し柔軟に考えて、これは東の間違いだと切り替えることで問題は解消します。
投馬国から邪馬臺国へはに水行十日、陸行一月とありますが、出雲からみて奈良盆地は東南東になります。これも南というのは違和感がありますが、これもなにか勘違いがあったのだろうと思います。現代でも山で遭難などは普通にありますが、精密な地図やコンパスもないこの時代で進行方向の認識がずれるというのは十分あることだと思います。
出雲から船で若狭湾まで行けば奈良まではより移動が楽のような感じもしますが、若狭湾あたりは対立地域で危険だったのかもしれません。今の鳥取市あたりから陸路で一ヶ月という感じです。
そもそも邪馬臺国までの経路に関する記述は、行程に誇張気味な部分もあったりと、そこまで厳密に読まなくても大体わかる、という文章になっています。上で挙げた二箇所の南の部分がもし東だったら、邪馬臺国論争などは存在しなかったと思います。以下経路について表にしておきます。

出発地 記述 到着地
帯方郡
(ソウル)
船で陸沿いを南、東と進み七千余里(2800km位:漢代の一里は400m程)。実際は400~500km。 狗邪韓国
(金海市)
狗邪韓国
(金海市)
海を渡ること千余里(400km位)。実際は約50km。 対馬国
対馬国 南へ海を渡ること千余里(400km位)。実際は50km程。 一支国
(壱岐)
一支国
(壱岐)
海を渡ること千余里(400km位)。実際は約50km。 末廬国
(唐津市)
末廬国
(唐津市)
東南に陸行五百里(200km位)。実際は約30~40km。 伊都国
(糸島市)
伊都国
(糸島市)
東南に百里(40km位)。福岡市としますが春日市など諸説あり。実際約30~40km。 奴国
(福岡市)
奴国
(福岡市)
東に百里(40km位)。この後船に乗ります。神武東征でも経由した岡(遠賀)水門は当時の重要な港なのでしょう。遠賀川河口あたりだと思います。実際約30~40km。 不彌国
(遠賀郡)
不彌国
(遠賀郡)
南へ水行二十日。ここが問題で、実際はだろう。距離は約400kmで少しゆっくり気味。 投馬国
(出雲市)
投馬国
(出雲市)
南へ水行十日、陸行一月。ここも実際はだろう。鳥取市あたりで下船し、南下して瀬戸内海へ出て奈良へ。 邪馬臺国
(巻向)

弥生時代後期

神武東征から欠史八代

神武東征

前45年頃、神武東征の少し前、ニギハヤヒが天磐船に乗り葦原中国へと降り立ちます。それを聞いた五瀬命が前38年、筑紫国の宇佐から兵を挙げたのが神武東征です。このあたりは私が神武東征についてまとめたのでそちらを参照ください。前45年とか前38年とか具体的ですが、これはアスス暦を西暦に変換する私の計算式で割り出したものです。池上・曽根遺跡や唐古・鍵遺跡が前1世紀なので、多少年代に誤差があっても大きくは外れないと思います。
前35年に神武天皇は即位しますが、神武天皇はニギハヤヒだというのが私の説となります。

欠史八代

さらにタギシミミ天香山命(別名高倉下)と同一人物ということで、この事実から欠史八代の概要がわかってきます。つまり大物主命を祀る大神神社を中心とした大和国と、タギシミミの流れを継ぐ尾張の熊野国の対立という構図です。このあたりについても私のタギシミミの反逆伝承にて詳しく解説してあるのでそちらを読んでください。
神武天皇や欠史八代の構図がここまでわかってくると、後は各地に残る資料や遺跡を分析することでかなり精密に歴史の流れを知ることができると考えています。この視点で見ることで既存の資料や遺跡からあらたな発見を導くことも多くあるでしょう。なので焦らずに多くの資料に目を通し、正しく歴史を再構築していきたいと思います。

簡易年表

年代 出来事 人物
前45年頃 ニギハヤヒが天磐船で葦原中国へ降り立つ。 ニギハヤヒ、天香山命、ナガスネヒコ
前38年~前36年頃 神武東征 五瀬命、道臣命、椎根津彦
前35年頃 神武天皇即位 神武天皇(ニギハヤヒ)、天香山命(高倉下、タギシミミ)、タタライソスズ姫、クシミカタマ(ワニヒコ)
前35年~4年頃 神武天皇(ニギハヤヒ)の統治。 五十鈴依姫、綏靖天皇
4年~248年頃 欠史八代。大和国と熊野国の対立。 天日槍、孝霊天皇、倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)

弥生時代中期

国津神の時代

出雲と大国主

前回は日本に水稲文化が伝播し、それが近畿地方へ広がるまでの期間を弥生時代前期としました。年代でいうと前930年頃~前600年頃に当たります。イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオなどが活躍した時代でした。
スサノオと息子の五十猛命は韓国から帰国し、五十猛命と妹の大屋津姫命は和歌山県で紀の国を建国します。奈良県御所市にある秋津・中西遺跡の初期水田跡はその開拓跡だと思います。
アマテラスでも書きましたが、五十猛命は気吹戸主と同一人物で天津神にとって大きな厄災でした。葦原中国は五十猛命を中心に国津神によって開拓され、スサノオによって興された出雲とともに繁栄しました。これは大体200年続いたと考えています。

大国主神
大国主神

いくつか根拠がありますが、まず因幡の白兎で有名な大国主神(大己貴神)の存在です。彼はスサノオから数えて6~7代目に当たる人物で、この時代に天津神であるニニギらとの戦争になり国を追われることとなります。これが出雲の国譲り神話ですが、スサノオから大己貴神まで大体200年くらいだろうという計算です。
また秋津・中西遺跡の初期水田跡は前6世紀初期~前4世紀前葉頃までを一つの区切りとしており、これもちょうど200年くらいです。

砂沢遺跡
砂沢遺跡

出雲を率いる大国主神は武甕槌神に攻められ、国を譲って降伏したとされています。ホツマツタエでは降伏後の大国主神についても記されており、津軽に国替えを命じられたとあります。津軽は当時縄文文化の一大拠点だったと思われます。そしてそれを裏付けるかのように、津軽には前4世紀頃の水田跡が残る砂沢遺跡の存在があります。津軽は寒冷のためまもなく耕作は放棄されたようですが、これが津軽にわたった大国主神による開拓である可能性は十分あります。
このように、スサノオの出雲、五十猛命の紀の国は前590年頃から前370年頃まで繁栄し、日本における水稲文化を定着させました。まさに国津神の時代と言っていいでしょう。

出雲の国譲り

出雲の国譲りの年代

出雲の国譲りは文献情報が多く、多くの矛盾もあって取捨選択が難しい課題です。簡単にいうと、高皇産霊尊の孫であるニニギが武甕槌神と経津主神を率い葦原中国へと攻め込み、出雲の大国主神を降伏させて国を譲り受けた、という話です。しかしそこに至るまで、そしてその後の展開も複雑で謎が多く、歴史の流れとしての整合性を取るのが大変難しい話となります。これは今解説するのは無理なので、年代だけでも示しておきたいと思います。それは上にもあるように前4世紀で前380年~前350年頃の出来事ではないかと考えています。

人物の混同

先日私は神武天皇についてまとめたのですが、その時火明命(ホアカリ)という人物についても少し触れました。彼はニニギの兄(子の設定もある)に当たる人物で、奈良県の飛鳥地方を治めたのですが、ここで混乱するのが神武東征で登場するニギハヤヒ(私の説だと神武天皇)の名前にもホアカリが入っていることです。天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊といった感じです。実際は火明命の櫛玉(クシタマ)を引き継いだニギハヤヒといった意味なのですが、当然同時代の同一人物説も根強くあります。今回弥生時代の分類を整理しているのも、こういった別時代の人物の混同をできるだけ少なくしたいという目的があります。つまりニニギの兄である火明命は前4世紀の人物で、ニギハヤヒは前1世紀の人物であり別人だということです。
また事代主神についても似たような問題があります。基本的に事代主神といえば大己貴神の子を指し、国譲りの逸話でも登場します。しかし一方で神武天皇の后であるタタライソスズ姫も事代主神の子となっています。これも日本特有の「魂を引き継いだ人物」の名前を当てる、という表記の仕方であり、やはり別時代の別人物ということになります。

ニニギと天津神

日向三代

出雲を譲り受けたニニギですが、その後も各地で伝承が残ります。特に九州南部で多く活動しています。ニニギの妻とされるのは木花咲耶姫で、一般的に鹿児島県あたりの人物とされています。また富士山の神格化としても有名で、ホツマツタエでは静岡県あたりの人物となっています。私は静岡県説が正しいと思います。その子は海幸彦であるホスセリ、山幸彦であるホオリ(彦火火出見尊)、また火明命も子とされる場合があります。ホオリと豊玉姫の子がウガヤフキアエズです。ニニギ、ホオリ、ウガヤフキアエズは日向三代と呼ばれ、前4世紀の人物と考えられます。

ウガヤフキアエズ王朝

ウガヤフキアエズを祖とするウガヤフキアエズ王朝なるものがあるとされています。古史古伝の竹内文書やウエツフミなどに王朝の系譜が残されています。その最後尾に五瀬命の名があり、彼は神武東征に同行した神武天皇の兄とされています。このあたりの話は私のまとめた神武天皇で詳しく書いています。
私はウガヤフキアエズが王位についた前350年頃から、五瀬命も同行した神武東征のあった前50年頃までの300年間ほど、宇佐を中心とした筑紫国がこのウガヤフキアエズ王朝だと考えています。しかしここで問題があります。残されている王統は50~70代にも及びます。仮に50代の王統ともなれば1000年続いていてもおかしくはない長さとなるはずです。300年で50代というのは想定できません。70代ともなればなおさらです。先程出雲の例では6~7代で200年としています。この年代と王統の非整合性は今後の課題としたいと思います。

まとめ

スサノオが出雲を、五十猛命が紀の国を建国した前600年頃から、神武東征のあった前50年頃までを弥生時代中期としたいと思います。およそ550年間です。近畿地方で水稲文化が発展し、出雲の国譲り以降は関東にまで広がりました。

年代 出来事 人物
前600年~前580年頃 五十猛命が紀の国を建国。各地に植林。葦原中国から天津神を追放。 五十猛命、大屋津姫命
前580年~前380年頃 出雲や紀の国といった国津神の時代。水稲文化は近畿、東海へまで広がる。
前380年~前370年頃 出雲の国譲り ニニギ、火明命、大国主神(大己貴神)、事代主神、ワカヒメ、天穂日命、天稚彦、味耜高彦根神、木花咲耶姫
前370年~前350年頃 日向三代。舞台は九州。 ホオリ、ホスセリ、豊玉姫
前350年~前50年頃 九州ではウガヤフキアエズ王朝。水稲文化は関東にまで拡大。

この時代の課題はなんと言っても出雲の国譲りです。高皇産霊尊は日高見国の王という存在で、関東、東北の軍勢が水稲文化で発展させた葦原中国を奪い取る、といった構図です。最初に派遣された天穂日命と天稚彦はともに当地で懐柔されます。出雲や紀の国に争う気持ちはなかったのでしょう。武甕槌神と経津主神を派遣するに至って大きな戦乱になりました。ここで登場する味耜高彦根神が時代の謎を解く鍵となる感じがします。
次は弥生時代後期ですが、時代は紀元前50年~紀元250年頃までのおよそ300年間ということになります。ここまで見てくるとどうでしょうか、日本の古代史も相当解明が進んでいるように見えてくるでしょう。つづく

弥生時代前期

稲作と渡来人

前提となる時代区分

古代の日本を大きく分類すると、縄文時代、弥生時代、古墳時代と分けることができます。この括り方にも多少問題はあるとは思いますが、ここでは分類自体の是非には焦点を当てず、とりあえず日本人にイメージしやすい上記の括りで話を進めていきます。

弥生時代の始まり

縄文時代と弥生時代の境目はいつの時代なのか、私が学生だった頃は紀元前3~2世紀頃だったと思います。しかし現在では紀元前10世紀頃まで遡っています。佐賀で見つかった稲作遺跡が紀元前930年頃と判明しており、とりあえず現状はこのあたりが弥生時代の開始時点としているようです。もちろん更に古い稲作遺跡が出てくればまた年代は繰り下がることになるので、これは未だに流動的とも言えます。つまり弥生時代初期(早期)というのは紀元前10世紀からということになります。
この弥生時代◯期というのが古代史における一つの大きな問題でもあって、よく研究者の文献を読んでみても弥生時代前期とか、中期後半とか説明されることがありますが、それは一体どの年代を言いたいのか、というのが読んでいる人に伝わらないということがあります。昭和の研究者が言う弥生時代初期は紀元前3~2世紀であり、平成の途中ころまでは紀元前6~5世紀頃となり、現代では紀元前10世紀となります。この年代の分類と統一はいずれなすべき課題だと感じています。
今回はそのあたりを整理するためにも、私が認識している弥生時代から古墳時代までの歴史の流れを簡単にまとめてみたいと思います。

二重構造説から三重構造説へ

よくアイヌや沖縄人と同系統の縄文人、稲作をもたらした弥生人という分けられ方をします。縄文人はY染色体ハプログループD1a2aの遺伝子を持つ人々で、アイヌ、沖縄人、東北や南九州、山陰などに多く分布しています。
弥生時代の始まりである紀元前10世紀頃から継続的に渡来人が日本へと移住してきます。彼らは主にY染色体ハプログループO1b2を持つ集団です。この2種族が混血し現代日本人を形成している、というのが二重構造説であり、長く支持されてきた説でもあるのですが、最近ではそれを発展させた三重構造説というものも出てきたようです。
3つ目は古墳時代に渡来してきた集団です。4世紀後半、高句麗の南下圧力が高まる中で三韓からの移民が来たことは文献にも残されており、東漢氏や秦氏などが知られます。やはりY染色体ハプログループはO1b2が主ということです。その後も日本と朝鮮半島との関係が続く中で多くが渡来し、高句麗や百済の滅亡時の難民もそれに加わるのかと思います。つまり古墳時代から奈良時代にかけて、日本と朝鮮半島は複雑な関係を持っており、これは後の時代にも無いほど密接なもので、その時代の交流が日本の民族を形成するうえで大きな要因の一つだったということでしょう。

西日本から徐々に広まった稲作文化

水田稲作の伝播ルート
水田稲作の伝播ルート
秋津中西遺跡
秋津・中西遺跡

弥生時代は紀元前10世紀頃、九州北部から始まった、というのはわかりました。そこから徐々に東へと稲作文化は拡散していくのですが、そのスピードは大変緩やかで、東日本はまだ縄文文化でした。前8世紀には四国、前7世紀には山陰まで広がりますが、私が重要視するのは奈良県御所市にある秋津・中西遺跡の水田跡です。調べによると紀元前6世紀初頭(前600年~前580年頃)から稲作が始まっており、これが紀の国を建国した五十猛命(気吹戸主)や大屋津姫命による開拓だと考えています。つまりスサノオの子の代です。ここは弥生時代における一つの区切りで、私はここまでを前期、秋津・中西遺跡のスタートからを中期と考えています。私が独自に考えているだけで異論はあるとは思いますが、文献から推測される歴史の転換点で区切るとこの時期になります。

史実から見る弥生時代前期

では紀元前10世紀~紀元前6世紀初頭(前930年~前600年頃)までを前期とすると、日本書紀や古事記などでは何が描かれているのでしょうか。先程秋津・中西遺跡の初期水田を五十猛命などの開拓とし、そこから中期としましたが、つまり前期の最後にはスサノオが活躍していた、ということになります。スサノオの親であるイザナギ、イザナミはどうかとなりますが、そもそも本当に親子なのかなど疑問点もありますが、両者は実在していたとして、四国や近畿地方における弥生文化と縄文文化の衝突が二神の物語に反映されていると考えることができます。アマテラスは私の説だと根の国(北陸)にいたハヤコで、彼女もこの時代でしょう。その前となるとオモタル、カシコネ、更に前になると国常立尊や豊斟渟尊などですが、彼らは縄文文化の神であると考えています。実在していたとしても弥生文化との関連はわからず、貝塚や縄文土器、製塩土器との関連を考えることになりそうです。なので何時どこで活躍したのか、と調べるのは現状困難です。
弥生時代前期の終わり、前650年~前600年ころ、イザナギやイザナミ、アマテラス(ハヤコ)やスサノオなどが活躍していて、その頃の近畿地方における弥生文化と縄文文化の摩擦が彼らの神話の土台になっていると考えています。

まとめ

ということで弥生時代前期は九州北部に水稲文化が伝播し、それが近畿へ広がるまで、となります。

年代 出来事 人物
前930年~前650年頃 朝鮮半島から水稲文化が伝播し、徐々に東へ拡大。
前650年~前600年頃 水稲文化が近畿地方にまで拡大し、縄文文化との衝突が起きる。 イザナギ、イザナミ、アマテラス(ハヤコ)、スサノオ

ここでの課題はやはりアマテラススサノオになります。以前アマテラスについてまとめました。大筋ではあのような出来事があったと考えますが、山陰や近畿、九州に韓国と時代の割に活動範囲が広すぎるような感じもします。スサノオは出生地がどこかもよくわかりませんが、ホツマツタエではソサノオという名前でソサは南紀にあたるようです。和歌山県にはすさみ町という地名があり、この辺りで生まれたというのも十分あり得ると思います。最終的には出雲を興すのですが、後年息子である五十猛命(気吹戸主)と何らかの確執があったのではないかとも考えています。スサノオの研究はやり甲斐があると思うので、私ももちろんですが多くの日本人に手掛けてもらいたい課題です。
次は弥生時代中期となります。

タギシミミの反逆伝承

250年続く対立のきっかけ

タタライソスズ姫の恨み

ニギハヤヒの死後、タギシミミは葬儀も行わず一人政務をとり、果てはカンヤイミミ、カンヌナカワミミを殺そうと企てた、ということになっています。そこで2人は武器をとり寝所でタギシミミを殺すのですが、カンヤイミミは震えて動けず、カンヌナカワミミがタギシミミを殺します。長兄であるカンヤイミミはこれを恥じ、カンヌナカワミミに皇位を譲ったとされています。ちなみにタギシミミと2人の関係は年の離れた異母兄弟ということになっていますが、私の考えだと親子となります。

ホツマツタエでは2人の息子に殺害を命じたタタライソスズ姫の関与が記されています。なぜタギシミミを殺さなければならなかったのか、これまでの経緯を踏まえると2つの思惑が見えてきます。1つはタタライソスズ姫の恨みです。まだ幼い10歳ほどの年齢でタギシミミに嫁ぐことを決められ、2人(3人説もある)の男子に恵まれますが、子を産んだすぐ後に夫タギシミミは別の妻(五十鈴依姫)を娶り、しかも遠方へ赴任することとなります。それからおよそ20年後にこの事件は起きます。幼少のころから人生を決められ、皇后という重責を背負い、夫は遠方で別の妻と暮らしている、となれば、息子に夫を殺させたとはいえタタライソスズ姫を非難しようもありません。

阿波国と大神神社

大神神社

そしてもう1つは阿波国の思惑です。西暦4年、綏靖天皇(カンヌナカワミミ)が即位してまず行ったのがタタライソスズ姫の兄(父?)であるクシミカタマを三輪の神と讃え、その子アタツクシネに大三輪の姓を賜ることです。アタツクシネは綏靖天皇の大物主となります。つまり阿波国の勢力は皇后を擁し、ニギハヤヒの死後タギシミミを排除し、出雲の国譲りからの悲願であった国津神の勝利を祝ったということです。そうなると大神神社は阿波国と同一だと考えることができます。

神武天皇と日向の関係

少し根拠は薄いですが、ニギハヤヒとタギシミミをなかったことにしたかったのは、この阿波国の勢力ではないかという説をあげておきます。架空の存在である神武天皇(五瀬命の弟)はなぜか日向と関連付けられており、そこを説明するのには彦火火出見の転生など少し強引さが必要でした。実はアタツクシネはクシミカタマと日向のミラ姫の子です。神武天皇(五瀬命の弟)の最初の妻は日向のアヒラツ姫でタギシミミを産みます。もしかしたら最初は、ニギハヤヒとタギシミミの代わりをクシミカタマとアタツクシネで上書きしようとしたのではないでしょうか?しかしさすがにそれは無理で、日向と関連の深い彦火火出見が後に神武天皇(五瀬命の弟)という設定にはめ込まれた、という考えです。
神武天皇の実体はいろいろな説があって、日本書紀では彦火火出見や狭野尊(さの)、古事記では若御毛沼命(わかみけぬ)、豊御毛沼命(とよみけぬ)、ホツマツタエではタケヒトです。タケヒトは後にその名前を聞かないので文献の編纂者もこれはないということで記載から消えていったのでしょう。
とにかく神武天皇と日向の関係はまだ何とも言えず、もしかしたら関連の意味すらないのかもしれません。

五十鈴依姫のその後

タギシミミの妻となった五十鈴依姫ですが、息子の天村雲命(天五多底)は尾張氏につながります。しかし実は綏靖天皇の后も五十鈴依姫となっており、3代安寧天皇を産んでいます。古事記によるとタギシミミは父の死後父の后(五十鈴依姫)を奪おうとした、とされており大変不名誉なこととなっています。五十鈴依姫とタギシミミの馴れ初めは前述したとおりで、神武の死後父の后を奪ったわけではありません。むしろ結果はカンヌナカワミミは父を殺し、義理の母を娶ったということになります。これは後味の悪い話ですが、それを隠蔽するのではなく父タギシミミに被せたということになります。
五十鈴依姫はタギシミミの死亡時まだ十分若かった(30代くらい)ので、綏靖天皇の后となり3代安寧天皇を産んだというのはありえないことではないと思います。魏志倭人伝にもあるように、殺した相手の妻子を奪う、というのは当時あったのでしょう。こういった経緯もあるので大和と尾張は激しく対立したのかと思います。

危険な対立の構図

欠史八代対立の系図

こう見てくると大和も尾張もともにタギシミミと五十鈴依姫の血筋ということになります。双方正統を主張することが可能で、お互い譲る理由がありません。これは考えるほどに恐ろしい構図です。
綏靖天皇から開化天皇までの欠史八代は2倍暦を用いれば西暦4年から247年となり、魏志倭人伝にある卑弥呼の邪馬臺国と隣国の狗奴国の対立はまさにこの延長だったのでしょう。そしてそう考えると、今まで呼称不明だった狗奴(くな)国は、タギシミミ(天香山命、タカクラシタ)との関連から熊野(くまの)国ではないかと思います。
そして欠史八代の時代もさらに解像度が増していきます。8代の中でも尾張と関連の深い天皇は熊野国の側で、そうみると王統が数回変わっているように思えます。そして10代崇神天皇は熊野国出身で、それでも争いが収まらずトヨ(豊鋤入姫命)を立てたということになります。

まとめ

今回は神武天皇からタギシミミの反逆、そして簡単ですが欠史八代の対立の構図を見てきました。本当の神武天皇であるニギハヤヒ、王者の風格すら感じるタギシミミ、彼らの存在を多くの日本人が知ってくれればいいなと思います。
欠史八代については今回の研究を踏まえて考察することで、さらに詳細が明らかになると思います。ここまでくるともはや中途半端な結論では出す意味がなくなってきています。あと一押しで欠史八代も明らかになると思うので、多くの資料に目を通し揺るぎない年表を作成できるよう頑張りたいです。

【補足】ナガスネヒコとウマシマチ

ナガスネヒコは後に大和を追い出され、津軽まで落ち延びて安倍氏となったといわれています。ただナガスネヒコはニギハヤヒに義兄であり、ウマシマチも後に綏靖天皇で役職を得ていることから、そうなった時期が少しわかりません。タギシミミが殺された後ともなればナガスネヒコも相当な年齢になっているため考えにくいです。タギシミミが生きているときだとすれば越の国をどう通り抜けていったのかが疑問となります。
ウマシマチは後に出雲の西、石見国へと移住します。ニギハヤヒの子でナガスネヒコの甥なので何かあったら担がれる可能性があり、大和から遠く出雲の先である石見国まで遠ざけられたという風に考えることもできます。出雲の銅鐸は後に作られなくなりますが、綏靖天皇の即位後出雲の有力者は大和へと移り住んだのかもしれません。銅鐸祭祀は近畿、東海が中心となっていきます。大型化する「見る銅鐸」は近畿式と三遠式がありますが、これはまさに大和国と熊野国の対立と重ねることができます。