ふとまに

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弥生時代中期

国津神の時代

出雲と大国主

前回は日本に水稲文化が伝播し、それが近畿地方へ広がるまでの期間を弥生時代前期としました。年代でいうと前930年頃~前600年頃に当たります。イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオなどが活躍した時代でした。
スサノオと息子の五十猛命は韓国から帰国し、五十猛命と妹の大屋津姫命は和歌山県で紀の国を建国します。奈良県御所市にある秋津・中西遺跡の初期水田跡はその開拓跡だと思います。
アマテラスでも書きましたが、五十猛命は気吹戸主と同一人物で天津神にとって大きな厄災でした。葦原中国は五十猛命を中心に国津神のよって開拓され、スサノオによって興された出雲とともに繁栄しました。これは大体200年続いたと考えています。

大国主神
大国主神

いくつか根拠がありますが、まず因幡の白兎で有名な大国主神(大己貴神)の存在です。彼はスサノオから数えて6~7代目に当たる人物で、この時代に天津神であるニニギらとの戦争になり国を追われることとなります。これが出雲の国譲り神話ですが、スサノオから大己貴神まで大体200年くらいだろうという計算です。
また秋津・中西遺跡の初期水田跡は前6世紀初期~前4世紀前葉頃までを一つの区切りとしており、これもちょうど200年くらいです。

砂沢遺跡
砂沢遺跡

出雲を率いる大国主神は武甕槌神に攻められ、国を譲って降伏したとされています。ホツマツタエでは降伏後の大国主神についても記されており、津軽に国替えを命じられたとあります。津軽は当時縄文文化の一大拠点だったと思われます。そしてそれを裏付けるかのように、津軽には前4世紀頃の水田跡が残る砂沢遺跡の存在があります。津軽は寒冷のためまもなく耕作は放棄されたようですが、これが津軽にわたった大国主神による開拓である可能性は十分あります。
このように、スサノオの出雲、五十猛命の紀の国は前590年頃から前370年頃まで繁栄し、日本における水稲文化を定着させました。まさに国津神の時代と言っていいでしょう。

出雲の国譲り

出雲の国譲りの年代

出雲の国譲りは文献情報が多く、多くの矛盾もあって取捨選択が難しい課題です。簡単にいうと、高皇産霊尊の孫であるニニギが武甕槌神と経津主神を率い葦原中国へと攻め込み、出雲の大国主神を降伏させて国を譲り受けた、という話です。しかしそこに至るまで、そしてその後の展開も複雑で謎が多く、歴史の流れとしての整合性を取るのが大変難しい話となります。これは今解説するのは無理なので、年代だけでも示しておきたいと思います。それは上にもあるように前4世紀で前380年~前350年頃の出来事ではないかと考えています。

人物の混同

先日私は神武天皇についてまとめたのですが、その時火明命(ホアカリ)という人物についても少し触れました。彼はニニギの兄(子の設定もある)に当たる人物で、奈良県の飛鳥地方を治めたのですが、ここで混乱するのが神武東征で登場するニギハヤヒ(私の説だと神武天皇)の名前にもホアカリが入っていることです。天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊といった感じです。実際は火明命の櫛玉(クシタマ)を引き継いだニギハヤヒといった意味なのですが、当然同時代の同一人物説も根強くあります。今回弥生時代の分類を整理しているのも、こういった別時代の人物の混同をできるだけ少なくしたいという目的があります。つまりニニギの兄である火明命は前4世紀の人物で、ニギハヤヒは前1世紀の人物であり別人だということです。
また事代主神についても似たような問題があります。基本的に事代主神といえば大己貴神の子を指し、国譲りの逸話でも登場します。しかし一方で神武天皇の后であるタタライソスズ姫も事代主神の子となっています。これも日本特有の「魂を引き継いだ人物」の名前を当てる、という表記の仕方であり、やはり別時代の別人物ということになります。

ニニギと天津神

日向三代

出雲を譲り受けたニニギですが、その後も各地で伝承が残ります。特に九州南部で多く活動しています。ニニギの妻とされるのは木花咲耶姫で、一般的に鹿児島県あたりの人物とされています。また富士山の神格化としても有名で、ホツマツタエでは静岡県あたりの人物となっています。私は静岡県説が正しいと思います。その子は海幸彦であるホスセリ、山幸彦であるホオリ(彦火火出見尊)、また火明命も子とされる場合があります。ホオリと豊玉姫の子がウガヤフキアエズです。ニニギ、ホオリ、ウガヤフキアエズは日向三代と呼ばれ、前4世紀の人物と考えられます。

ウガヤフキアエズ王朝

ウガヤフキアエズを祖とするウガヤフキアエズ王朝なるものがあるとされています。古史古伝の竹内文書やウエツフミなどに王朝の系譜が残されています。その最後尾に五瀬命の名があり、彼は神武東征に同行した神武天皇の兄とされています。このあたりの話は私のまとめた神武天皇で詳しく書いています。
私はウガヤフキアエズが王位についた前350年頃から、五瀬命も同行した神武東征のあった前50年頃までの300年間ほど、宇佐を中心とした筑紫国がこのウガヤフキアエズ王朝だと考えています。しかしここで問題があります。残されている王統は50~70代にも及びます。仮に50代の王統ともなれば1000年続いていてもおかしくはない長さとなるはずです。300年で50代というのは想定できません。70代ともなればなおさらです。先程出雲の例では6~7代で200年としています。この年代と王統の非整合性は今後の課題としたいと思います。

まとめ

スサノオが出雲を、五十猛命が紀の国を建国した前600年頃から、神武東征のあった前50年頃までを弥生時代中期としたいと思います。およそ550年間です。近畿地方で水稲文化が発展し、出雲の国譲り以降は関東にまで広がりました。

年代 出来事 人物
前600年~前580年頃 五十猛命が紀の国を建国。各地に植林。葦原中国から天津神を追放。 五十猛命、大屋津姫命
前580年~前380年頃 出雲や紀の国といった国津神の時代。水稲文化は近畿、東海へまで広がる。
前380年~前370年頃 出雲の国譲り ニニギ、火明命、大国主神(大己貴神)、事代主神、ワカヒメ、天穂日命、天稚彦、味耜高彦根神、木花咲耶姫
前370年~前350年頃 日向三代。舞台は九州。 ホオリ、ホスセリ、豊玉姫
前350年~前50年頃 九州ではウガヤフキアエズ王朝。水稲文化は関東にまで拡大。

この時代の課題はなんと言っても出雲の国譲りです。高皇産霊尊は日高見国の王という存在で、関東、東北の軍勢が水稲文化で発展させた葦原中国を奪い取る、といった構図です。最初に派遣された天穂日命と天稚彦はともに当地で懐柔されます。出雲や紀の国に争う気持ちはなかったのでしょう。武甕槌神と経津主神を派遣するに至って大きな戦乱になりました。ここで登場する味耜高彦根神が時代の謎を解く鍵となる感じがします。
次は弥生時代後期ですが、先日書いた神武天皇についての内容と被る部分が多くあるので、どうするか検討中です。時代は紀元前50年~紀元250年頃までのおよそ300年間ということになります。ここまで見てくるとどうでしょうか、日本の古代史も相当解明が進んでいるように見えてくるでしょう。弥生時代を整理して、私はもう一度空白の4世紀について見直してみたいと思います。

弥生時代前期

稲作と渡来人

前提となる時代区分

古代の日本を大きく分類すると、縄文時代、弥生時代、古墳時代と分けることができます。この括り方にも多少問題はあるとは思いますが、ここでは分類自体の是非には焦点を当てず、とりあえず日本人にイメージしやすい上記の括りで話を進めていきます。

弥生時代の始まり

縄文時代と弥生時代の境目はいつの時代なのか、私が学生だった頃は紀元前3~2世紀頃だったと思います。しかし現在では紀元前10世紀頃まで遡っています。佐賀で見つかった稲作遺跡が紀元前930年頃と判明しており、とりあえず現状はこのあたりが弥生時代の開始時点としているようです。もちろん更に古い稲作遺跡が出てくればまた年代は繰り下がることになるので、これは未だに流動的とも言えます。つまり弥生時代初期(早期)というのは紀元前10世紀からということになります。
この弥生時代◯期というのが古代史における一つの大きな問題でもあって、よく研究者の文献を読んでみても弥生時代前期とか、中期後半とか説明されることがありますが、それは一体どの年代を言いたいのか、というのが読んでいる人に伝わらないということがあります。昭和の研究者が言う弥生時代初期は紀元前3~2世紀であり、平成の途中ころまでは紀元前6~5世紀頃となり、現代では紀元前10世紀となります。この年代の分類と統一はいずれなすべき課題だと感じています。
今回はそのあたりを整理するためにも、私が認識している弥生時代から古墳時代までの歴史の流れを簡単にまとめてみたいと思います。

二重構造説から三重構造説へ

よくアイヌ人や沖縄人と同系統の縄文人、稲作をもたらした弥生人という分けられ方をします。縄文人はY染色体ハプログループD1a2aの遺伝子を持つ人々で、アイヌ、沖縄人、東北や南九州、山陰などに多く分布しています。
弥生時代の始まりである紀元前10世紀頃から継続的に渡来人が日本へと移住してきます。彼らは主にY染色体ハプログループO1b2を持つ集団です。この2種族が混血し現代日本人を形成している、というのが二重構造説であり、長く支持されてきた説でもあるのですが、最近ではそれを発展させた三重構造説というものも出てきたようです。
3つ目は古墳時代に渡来してきた集団です。4世紀後半、高句麗の南下圧力が高まる中で三韓からの移民が来たことは文献にも残されており、東漢氏や秦氏などが知られます。やはりY染色体ハプログループはO1b2が主ということです。その後も日本と朝鮮半島との関係が続く中で多くが渡来し、高句麗や百済の滅亡時の難民もそれに加わるのかと思います。つまり古墳時代から奈良時代にかけて、日本と朝鮮半島は複雑な関係を持っており、これは後の時代にも無いほど密接なもので、その時代の交流が日本の民族を形成するうえで大きな要因の一つだったということでしょう。

西日本から徐々に広まった稲作文化

水田稲作の伝播ルート
水田稲作の伝播ルート
秋津中西遺跡
秋津・中西遺跡

弥生時代は紀元前10世紀頃、九州北部から始まった、というのはわかりました。そこから徐々に東へと稲作文化は拡散していくのですが、そのスピードは大変緩やかで、東日本はまだ縄文文化でした。前8世紀には四国、前7世紀には山陰まで広がりますが、私が重要視するのは奈良県御所市にある秋津・中西遺跡の水田跡です。調べによると紀元前6世紀初頭(前600年~前580年頃)から稲作が始まっており、これが紀の国を建国した五十猛命(気吹戸主)や大屋津姫命による開拓だと考えています。つまりスサノオの子の代です。ここは弥生時代における一つの区切りで、私はここまでを前期、秋津・中西遺跡のスタートからを中期と考えています。私が独自に考えているだけで異論はあるとは思いますが、文献から推測される歴史の転換点で区切るとこの時期になります。

史実から見る弥生時代前期

では紀元前10世紀~紀元前6世紀初頭(前930年~前600年頃)までを前期とすると、日本書紀や古事記などでは何が描かれているのでしょうか。先程秋津・中西遺跡の初期水田を五十猛命などの開拓とし、そこから中期としましたが、つまり前期の最後にはスサノオが活躍していた、ということになります。スサノオの親であるイザナギ、イザナミはどうかとなりますが、そもそも本当に親子なのかなど疑問点もありますが、両者は実在していたとして、四国や近畿地方における弥生文化と縄文文化の衝突が二神の物語に反映されていると考えることができます。アマテラスは私の説だと根の国(北陸)にいたハヤコで、彼女もこの時代でしょう。その前となるとオモタル、カシコネ、更に前になると国常立尊や豊斟渟尊などですが、彼らは縄文文化の神であると考えています。実在していたとしても弥生文化との関連はわからず、貝塚や縄文土器、製塩土器との関連を考えることになりそうです。なので何時どこで活躍したのか、と調べるのは現状困難です。
弥生時代前期の終わり、前650年~前600年ころ、イザナギやイザナミ、アマテラス(ハヤコ)やスサノオなどが活躍していて、その頃の近畿地方における弥生文化と縄文文化の摩擦が彼らの神話の土台になっていると考えています。

まとめ

ということで弥生時代前期は九州北部に水稲文化が伝播し、それが近畿へ広がるまで、となります。

年代 出来事 人物
前930年~前650年頃 朝鮮半島から水稲文化が伝播し、徐々に東へ拡大。
前650年~前600年頃 水稲文化が近畿地方にまで拡大し、縄文文化との衝突が起きる。 イザナギ、イザナミ、アマテラス(ハヤコ)、スサノオ

ここでの課題はやはりアマテラススサノオになります。以前アマテラスについてまとめました。大筋ではあのような出来事があったと考えますが、山陰や近畿、九州に韓国と時代の割に活動範囲が広すぎるような感じもします。スサノオは出生地がどこかもよくわかりませんが、ホツマツタエではソサノオという名前でソサは南紀にあたるようです。和歌山県にはすさみ町という地名があり、この辺りで生まれたというのも十分あり得ると思います。最終的には出雲を興すのですが、後年息子である五十猛命(気吹戸主)と何らかの確執があったのではないかとも考えています。スサノオの研究はやり甲斐があると思うので、私ももちろんですが多くの日本人に手掛けてもらいたい課題です。
次は弥生時代中期となります。