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タギシミミの反逆伝承

250年続く対立のきっかけ

タタライソスズ姫の恨み

ニギハヤヒの死後、タギシミミは葬儀も行わず一人政務をとり、果てはカンヤイミミ、カンヌナカワミミを殺そうと企てた、ということになっています。そこで2人は武器をとり寝所でタギシミミを殺すのですが、カンヤイミミは震えて動けず、カンヌナカワミミがタギシミミを殺します。長兄であるカンヤイミミはこれを恥じ、カンヌナカワミミに皇位を譲ったとされています。ちなみにタギシミミと2人の関係は年の離れた異母兄弟ということになっていますが、私の考えだと親子となります。

ホツマツタエでは2人の息子に殺害を命じたタタライソスズ姫の関与が記されています。なぜタギシミミを殺さなければならなかったのか、これまでの経緯を踏まえると2つの思惑が見えてきます。1つはタタライソスズ姫の恨みです。まだ幼い10歳ほどの年齢でタギシミミに嫁ぐことを決められ、2人(3人説もある)の男子に恵まれますが、子を産んだすぐ後に夫タギシミミは別の妻(五十鈴依姫)を娶り、しかも遠方へ赴任することとなります。それからおよそ20年後にこの事件は起きます。幼少のころから人生を決められ、皇后という重責を背負い、夫は遠方で別の妻と暮らしている、となれば、息子に夫を殺させたとはいえタタライソスズ姫を非難しようもありません。

阿波国と大神神社

大神神社

そしてもう1つは阿波国の思惑です。西暦4年、綏靖天皇(カンヌナカワミミ)が即位してまず行ったのがタタライソスズ姫の兄(父?)であるクシミカタマを三輪の神と讃え、その子アタツクシネに大三輪の姓を賜ることです。アタツクシネは綏靖天皇の大物主となります。つまり阿波国の勢力は皇后を擁し、ニギハヤヒの死後タギシミミを排除し、出雲の国譲りからの悲願であった国津神の勝利を祝ったということです。そうなると大神神社は阿波国と同一だと考えることができます。

神武天皇と日向の関係

少し根拠は薄いですが、ニギハヤヒとタギシミミをなかったことにしたかったのは、この阿波国の勢力ではないかという説をあげておきます。架空の存在である神武天皇(五瀬命の弟)はなぜか日向と関連付けられており、そこを説明するのには彦火火出見の転生など少し強引さが必要でした。実はアタツクシネはクシミカタマと日向のミラ姫の子です。神武天皇(五瀬命の弟)の最初の妻は日向のアヒラツ姫でタギシミミを産みます。もしかしたら最初は、ニギハヤヒとタギシミミの代わりをクシミカタマとアタツクシネで上書きしようとしたのではないでしょうか?しかしさすがにそれは無理で、日向と関連の深い彦火火出見が後に神武天皇(五瀬命の弟)という設定にはめ込まれた、という考えです。
神武天皇の実体はいろいろな説があって、日本書紀では彦火火出見や狭野尊(さの)、古事記では若御毛沼命(わかみけぬ)、豊御毛沼命(とよみけぬ)、ホツマツタエではタケヒトです。タケヒトは後にその名前を聞かないので文献の編纂者もこれはないということで記載から消えていったのでしょう。
とにかく神武天皇と日向の関係はまだ何とも言えず、もしかしたら関連の意味すらないのかもしれません。

五十鈴依姫のその後

タギシミミの妻となった五十鈴依姫ですが、息子の天村雲命(天五多底)は尾張氏につながります。しかし実は綏靖天皇の后も五十鈴依姫となっており、3代安寧天皇を産んでいます。古事記によるとタギシミミは父の死後父の后(五十鈴依姫)を奪おうとした、とされており大変不名誉なこととなっています。五十鈴依姫とタギシミミの馴れ初めは前述したとおりで、神武の死後父の后を奪ったわけではありません。むしろ結果はカンヌナカワミミは父を殺し、義理の母を娶ったということになります。これは後味の悪い話ですが、それを隠蔽するのではなく父タギシミミに被せたということになります。
五十鈴依姫はタギシミミの死亡時まだ十分若かった(30代くらい)ので、綏靖天皇の后となり3代安寧天皇を産んだというのはありえないことではないと思います。魏志倭人伝にもあるように、殺した相手の妻子を奪う、というのは当時あったのでしょう。こういった経緯もあるので大和と尾張は激しく対立したのかと思います。

危険な対立の構図

欠史八代対立の系図

こう見てくると大和も尾張もともにタギシミミと五十鈴依姫の血筋ということになります。双方正統を主張することが可能で、お互い譲る理由がありません。これは考えるほどに恐ろしい構図です。
綏靖天皇から開化天皇までの欠史八代は2倍暦を用いれば西暦4年から247年となり、魏志倭人伝にある卑弥呼の邪馬臺国と隣国の狗奴国の対立はまさにこの延長だったのでしょう。そしてそう考えると、今まで呼称不明だった狗奴(くな)国は、タギシミミ(天香山命、タカクラシタ)との関連から熊野(くまの)国ではないかと思います。
そして欠史八代の時代もさらに解像度が増していきます。8代の中でも尾張と関連の深い天皇は熊野国の側で、そうみると王統が数回変わっているように思えます。そして10代崇神天皇は熊野国出身で、それでも争いが収まらずトヨ(豊鋤入姫命)を立てたということになります。

まとめ

今回は神武天皇からタギシミミの反逆、そして簡単ですが欠史八代の対立の構図を見てきました。本当の神武天皇であるニギハヤヒ、王者の風格すら感じるタギシミミ、彼らの存在を多くの日本人が知ってくれればいいなと思います。
欠史八代については今回の研究を踏まえて考察することで、さらに詳細が明らかになると思います。ここまでくるともはや中途半端な結論では出す意味がなくなってきています。あと一押しで欠史八代も明らかになると思うので、多くの資料に目を通し揺るぎない年表を作成できるよう頑張りたいです。

【補足】ナガスネヒコとウマシマチ

ナガスネヒコは後に大和を追い出され、津軽まで落ち延びて安倍氏となったといわれています。ただナガスネヒコはニギハヤヒに義兄であり、ウマシマチも後に綏靖天皇で役職を得ていることから、そうなった時期が少しわかりません。タギシミミが殺された後ともなればナガスネヒコも相当な年齢になっているため考えにくいです。タギシミミが生きているときだとすれば越の国をどう通り抜けていったのかが疑問となります。
ウマシマチは後に出雲の西、石見国へと移住します。ニギハヤヒの子でナガスネヒコの甥なので何かあったら担がれる可能性があり、大和から遠く出雲の先である石見国まで遠ざけられたという風に考えることもできます。出雲の銅鐸は後に作られなくなりますが、綏靖天皇の即位後出雲の有力者は大和へと移り住んだのかもしれません。銅鐸祭祀は近畿、東海が中心となっていきます。大型化する「見る銅鐸」は近畿式と三遠式がありますが、これはまさに大和国と熊野国の対立と重ねることができます。

ニギハヤヒは神武天皇なのか?

即位の記述がないニギハヤヒ

五瀬命の弟の謎

前回神武東征からニギハヤヒの即位について書きましたが、実はどの文献を見てもニギハヤヒが神武天皇として即位したとは書かれていません。これはいわば私が創作で書いている物語です。定説では「五瀬命の弟が存在し、彼が東征で勝利し神武天皇になった」となりますが、それを私は「五瀬命の弟は存在せず、東征軍は負けてニギハヤヒが神武天皇になった」という物語にしたに過ぎません。しかしそれを前述のように整理して書いてみると何の違和感もないストーリーとなります。
そこで私は自分の物語が正しいとして、それを示唆するような記述がどこかにないかと探しました。いくら巧妙に改ざんしたとはいえ、そこに生じる矛盾や違和感を消し去ることはできないと思うからです。
そもそも神武東征と神武天皇についての記述には多くの違和感を持ちます。時代背景と神武天皇の設定、そして熊野から大和へ至るまでの記述や大和での戦闘などです。道臣命はよく歌を歌いますが、日本書紀を読んでいて歌が出てくる場面というのは信用ならないという印象があります。神武即位時も道臣命は倒語(さかしまごと)を用いたとありますが、何か嘘や逆の出来事が語られているように思います。しかしニギハヤヒが神武天皇として即位したとされる決定的な記述はなかなか見つかりません。

五十鈴依姫(イスキヨリ姫)

人名などはできれば正史である日本書紀の記述に合わせたいのですが、後世になるにしたがって人物の混同が発生している場合があり、そのような場合はより古い資料であるホツマツタエの記述を用いたりします。五十鈴依姫(イスキヨリ姫)は神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛(タタライソスズ姫)の姉妹であったり、同一人物とされたりと記述はぶれますが、ホツマツタエでは道臣命の娘で天香山命(タカクラシタ)に嫁いだ人物となっています。日本書紀では2代綏靖天皇の皇后で、3代安寧天皇の母とされています。

  • 天香山命(タカクラシタ)の妻
  • 2代綏靖天皇の皇后
  • 3代安寧天皇の母

これらはすべて正しいと私は考えています。五十鈴依姫の記述を追っていくことで、ニギハヤヒが神武天皇であったという史実に近づくことができます。

天香山命(タカクラシタ)に嫁ぐ経緯

弥彦神社

前回天香山命(タカクラシタ)は使節団を率いて西国を治め、前31年に帰国して紀の国の大連になったと書きました。ホツマツタエには同様の記述があります。前25年、越の国が反乱を起こしたのでそれを鎮圧するため出兵します。今回は武力を用いず平定したため天皇から「ヤヒコ守」と讃えられ、越の国守に任命されました。新潟県にある弥彦神社がその政庁ということになります。
さらに5年後の前20年、帰国した天香山命(タカクラシタ)と天皇は盃をかわしますが、以前は酒が飲めなかったはずの天香山命が酒をたくさん飲むので理由を聞くと、当地(越の国)は寒くてよく飲むうちに好きになったとのこと。「若返った」と喜んだ天皇は宮に出仕していたユリ姫(五十鈴依姫)を天香山命(タカクラシタ)に嫁がせました、越の国で男女をもうけます。とまあ理解できる話です。もちろん文献では天皇は五瀬命の弟であってニギハヤヒではないですが、その様子は親子の会話のようでもあります。

そしてホツマツタエではユリ姫(五十鈴依姫)との馴れ初めがその直後に書かれています。しかしなぜかユリ姫(五十鈴依姫)とタギシミミの馴れ初めが紹介されます。いや今天香山命(タカクラシタ)に嫁いだのだからそこは二人の馴れ初めだろう、と思いたくもなります。タギシミミは天皇(五瀬命の弟)の子という設定です。お互いに歌を交わしあう様子など初々しさが伝わります。しかしユリ姫(五十鈴依姫)は宮中に出仕する身で天皇の許しがなければ嫁ぐことができません。しかしこの度の功に報いてユリ姫(五十鈴依姫)を天香山命(タカクラシタ)に賜りました、とあります。これを読んで私は天香山命(タカクラシタ)はタギシミミだと確信しました。そしてそうであるならば、神武天皇はニギハヤヒということになります。

隠された系図

現代に伝わるニギハヤヒの系図

上は以前にもあげたニギハヤヒの系図です。現代に残る文献を付き合わせるとこのように書くことができます。そして次は現代に残る神武天皇の系図です。

現代に伝わる神武天皇の系図

これも定説とされている神武天皇の系図です。そして両者を合わせるとこうなります。

神武天皇ニギハヤヒの系図

なるほどこれは結構説得力がある、と私は自負して以前神武東征についてまとめたときにこの説を披露したのですが、その前後の歴史認識が少し雑で納得がいかず今は記事を削除しています。そのあたりを掘り下げたのでさらに説明を続けたいと思います。

タタライソスズ姫

前回書いたようにタタライソスズ姫(媛蹈鞴五十鈴媛)は皇后なのですが、神武天皇(ニギハヤヒ)ではなくタギシミミ(天香山命、以後タギシミミと書く)の后なのではないかと私は考えています。タギシミミは葦原中国入りの時すでに青年であることはわかったので、ニギハヤヒは40前後、即位時は40歳を超えていると考えられます。タタライソスズ姫の生年はホツマツタエに記載されており、前46年生まれ。上にある五十鈴依姫を娶る前の前23年にカンヤイミミを、続く前22年にカンヌナカワミミを産んでいると書いてあるのでそれぞれ数え23歳、24歳の時になります。父がニギハヤヒであれば50歳近くとなり不自然で、タギシミミであれば30代くらいになり双方違和感のない年齢になります。
タギシミミからすればタタライソスズ姫は政略結婚の相手、一方五十鈴依姫とは恋愛結婚になり、いくら正妃で皇子がいるとはいえタタライソスズ姫は不安になるでしょう。五十鈴依姫をタギシミミに賜る際、クシミカタマ(タタライソスズ姫の兄とされる人物)は天皇に苦言を呈しています。苦言の内容は姫の年齢が若すぎるという些細な事ですが、皇后を支える阿波国の勢力としては危険な兆候に思えたのかもしれません。

神武天皇の実体

このように我々が歴史書や伝承で知る神武天皇は五瀬命の弟という架空の存在で、その実態はニギハヤヒ、タギシミミ、道臣命の事績、人格であるというのが私の説になります。整理すると次のようになります。

ニギハヤヒ 東征に勝利し初の全国統一を成し遂げた神日本磐余彦天皇
タギシミミ タタライソスズ姫を皇后とし、2代綏靖天皇の父
道臣命 神武東征の全行程に従軍し、熊野から宇陀への行軍を指揮した人物

彼らを五瀬命の弟と書き換えることで、特に初代天皇であるニギハヤヒの存在をかき消してしまったのは大変罪が重いことだと思います。つづく

神武東征

ウガヤ王朝の滅亡

前1世紀ころの西日本

前1世紀の西日本

神武東征は九州から葦原中国(近畿)を目指した出兵で、その頃九州では一定の勢力が存在したということになります。これは天孫ニニギの孫であるウガヤフキアエズを祖としたウガヤ王朝だとされています。宇佐を首都として九州北部を勢力下に治めており、周辺の国々(安芸、吉備、阿波など)もそれに服していたと考えています。ウエツフミ、竹内文献、宮下文書などの古文書には50~70代に及ぶ王統も残されており、その最後の方に五瀬命の名が残されています。彼は神武天皇の兄とされる人物で、神武東征にも同伴します。

九州北部のウガヤ王朝(筑紫国)に服する国として、四国にあった阿波国がありました。首都は阿波宮で今の金刀比羅宮、長い階段があり私も一度上りました。そこはクシミカタマ(ワニヒコ)という人物が治めており、代々オオモノヌシ(大将軍のような地位)を継ぐ家系にあります。出雲の国譲りにさかのぼると天津神である天孫ニニギに国津神である出雲のオオナムチは降伏しますが、その数百年たった当時も主従関係が続いていて、筑紫のウガヤ王朝に服する阿波国のオオモノヌシという関係になっています。そのクシミカタマの妹がタタライソスズ姫で後に神武天皇の皇后となる人物です。ホツマツタエによるとクシミカタマとタタライソスズ姫の年齢差は46歳(2倍ではない)になるので、それが正しいなら妹ということはないと思います。クシミカタマの子にアタツクシネという人物もいて、彼は2代目綏靖天皇のオオモノヌシ(大将軍)になります。
出雲国はというと阿波国とは兄弟のような関係ですが、ウガヤ王朝には属していなかった可能性があります。理由は初期銅鐸(鳴らす銅鐸)の出土が出雲に偏っており、出雲は独自の文化圏だったと思われるからです。

神武東征

紀元前45年ころ、葦原中国にニギハヤヒが降り立ちますが、海を挟んだ阿波国でもその情報はすぐに耳に入ったことでしょう。クシミカタマは宗主国である筑紫のウガヤ王朝へそれを報告します。ウガヤ王朝は五瀬命が政務を執っており、これは捨ててはおけない事態だと認識します。そして前38年ころ、五瀬命は東征を開始します。日本書紀などでは五瀬命のほかに弟の稲飯命、三毛入野命、そして神武天皇とその子タギシミミ、日臣命(後の道臣命)、途中で仲間になった椎根津彦などが神武東征に同行していたとされていますが、私が考えるに確実なのは総大将の五瀬命と将軍日臣命、そして途中(明石海峡あたり)から椎根津彦だと思います。出発地は日向ではなくウガヤ朝の首都宇佐で、陸路で岡水門まで行きそこで船団に乗り込み、後は記述通り安芸国の埃宮、吉備国の高島宮を経て難波という経路です。日向からではない理由というのは後で説明したい思いますが、たぶんその頃日向は阿多隼人とよばれる地族が支配する地域であり、ウガヤ王朝の勢力下ではなかったと思います。また宇佐から陸路岡水門としていますが、東征には船団が必要となり、それを擁していたとすれば本州下関に近い岡水門が適当だと考えてのことです。宇佐から海路であれば岡水門に寄る必要はないはずで、あえて岡水門に立ち寄ったことを記述している理由は筑紫国で唯一、戦争に耐えうる船団を擁する港だったから、と考えることができます。そこから船団で東進し上述の港で軍備を整え、河内国の白肩津に到着したのは2年後の前36年ころだと考えます。

孔舎衛坂の戦い

五瀬命は進軍し、対するナガスネヒコは孔舎衛坂で迎え撃ちます。激しい戦闘となりますが思った以上にナガスネヒコ軍の力は強く、東征軍は攻めあぐねます。そんな中、総大将である五瀬命は矢を受けて負傷してしまいます。東征軍はいったん退かざるを得ませんでした。そこで計って紀伊半島を迂回し、背後を急襲しようという作戦を立てます。捕虜などからニギハヤヒ一行も別動隊が熊野から北上したという話を聞いたのかもしれません。東征軍は南へと進路を変えます。しかし総大将の五瀬命の傷は深く、紀の国の竈山で命を落としてしまいました。

その後の東征軍

ここまでは皆が知る神武東征序盤の山場ですが、実際は総大将が戦死して東征軍は瓦解し敗色濃厚という状態だったと思います。さらに船で熊野に着くころには皇子2人が死亡する記述があり、これが史実かはともかくもう戦争を継続する力は残されていなかったでしょう。軍は日臣命が残兵を指揮しかろうじて崩壊を免れていましたが、熊野での丹敷戸畔との戦闘で全員が捕縛されます。「毒気で全軍が眠ってしまった」という描写はそういうことではないでしょうか。この時夢で天照大神が出てきたりと色々あって軍は奇跡的に甦り宇陀へと行軍します。もしかしたら宇陀までは何とかたどり着いたのかもしれません。考えてみても熊野から宇陀までは100kmを越える山道で、徒歩で進むのは相当な困難であることは察することができます。負傷者も多く食料も心元なかったでしょう。遅かれ早かれ日臣命率いる東征軍は全員捕縛され、ニギハヤヒの前に跪きました。ナガスネヒコも駆けつけますが、彼は孔舎衛坂の激闘で多くの部下を失っており全員処刑することを提案します。しかしニギハヤヒはボロボロの姿になった彼らの投降をゆるすことにしました。ウガヤ朝は天孫ニニギの孫であるウガヤフキアエズが祖である天津神。ニギハヤヒも天津神であり元は同祖ということになります。これが天羽羽矢を付き合わせ天神の孫であることを確認しあったという件になります。ニギハヤヒは同族のよしみで降伏を許しナガスネヒコもしぶしぶこれに従いますが、投降軍との間に大きな溝ができました。王(もしくは皇子)である五瀬命は戦死、東征軍も降伏し、ここにウガヤ王朝は滅亡しました。紀元前36年ころのことです。

神武天皇即位

戦後処理と阿波国の思惑

東征軍の降伏した噂はすぐに広まり、阿波国のクシミカタマの耳にも届きました。阿波国はもともと出雲を祖とする国津神。筑紫ウガヤ朝の五瀬命が死亡したときいてその支配から離脱を決意し、ニギハヤヒに帰順の旨使いを出します。磐余邑(奈良県桜井市)の陣でニギハヤヒ一行と阿波国使節は戦後処理を話し合います。そしてニギハヤヒを新たな王とし、皇后に阿波国の姫であるタタライソスズ姫を立てることを提案しました。しかしニギハヤヒはすでに40歳を超える高齢であり、タタライソスズ姫はまだ10歳ほど。王となることは受け入れるもタタライソスズ姫は息子の天香山命(タカクラシタ)の后に、ということで合意に至りました。そして橿原に宮殿を建築し、翌前35年、ニギハヤヒは初代天皇神日本磐余彦として即位しました。

即位の儀

即位の儀はウガヤ朝の方式を受け継ぎ、三種の神器を継承する儀礼だったようです。ホツマツタエの30文にその詳細が描かれています。しかしこの記述は後世書き換えたようにも感じられます。なぜならニギハヤヒの即位はなかったことになっているからです。次代の綏靖天皇の即位はこの記述のようだったのかもしれません。

西国への使節団

ニギハヤヒは即位し、タタライソスズ姫が皇后になったからといっても、筑紫のウガヤ王朝はまだ形としては残っています。ニギハヤヒは天香山命(タカクラシタ)を代表とする使節団(スベシカドとあるが統使人?)を組織し、敗軍の将である日臣命(以後道臣命と書きます)や阿波国の使者なども引き連れ、さらに軍勢も従え西国へと遣わします。前31年タカクラシタは帰国します。筑紫国(ウガヤ朝)、山陰(出雲?)、さらに越国では反抗勢力を武力で従わせ、全国統一の証である国統絵(くにすべえ)を父ニギハヤヒに捧げました。
使節団は筑紫から神宝を持ち帰りました。三種の神器は「ヲシテ(文書)」、「鏡」、「剣」となります。ヲシテは死亡した五瀬命から引き継いだ道臣命がニギハヤヒへと捧げましたが、の臣である中臣はハラ宮(静岡県浅間神宮)の宮司だったアメタネコが引き継ぐこととなり「なおり中臣」(新・中臣)となり、同じように八重垣()の臣である物主は阿波国のクシミカタマが引き継ぎ「なおり物主」(新・物主)となります。神宝を持ち帰ることで天皇と左右の臣の体制は整いました。大功をあげた天香山命(タカクラシタ)は紀の国の大連となり天皇を守護することになります。つづく

ニギハヤヒと天磐船伝説

神武東征の前に葦原中国入りしたニギハヤヒ

ニギハヤヒの葦原中国入り

天磐船経路

神武東征の記述を読めば、ニギハヤヒは神武東征より前に葦原中国へ降り立った人物とされています。これはたぶん事実で、彼は東国から船で難波へたどり着いたのでしょう。磐船神社は何かしら由緒があると思います。東国から、と書きましたが、場所は東海、関東、東北いずれも可能性があります。当時の地名でいうと東海はハラミ、関東はホツマ、東北はヒタカミとなります。高天原というのはヒタカミの首都多賀城のことです。ホツマツタエには当時の流行り歌に次のようなものがあったと書かれています。

「のりくだせ ほつまちひろむ あまもいわふね」
(乗り下せ ホツマ路開む 天磐船)

これは船でホツマを越え、葦原中国を目指そう、という歌でしょう。であればニギハヤヒは関東より東国の人物かと思われます。しかし後の時代を見れば尾張か、当時ハラ宮と呼ばれていた静岡県の浅間神宮とも考えられます。これはニギハヤヒの最初の妻である天道日女命を探ることで導き出せると思いますが、まだ結論はでていません。

熊野とタカクラシタ

現代に伝わるニギハヤヒ系図

ニギハヤヒは船で紀伊半島を越え、難波へたどり着きました。一方で息子である天香山命(タカクラシタ)は熊野で下船し、陸路大和を目指したのでしょう。彼は「ふつのみたま」という武器を携えていました。これは「経津主神(ふつぬし)の御霊」ということで茨城県香取神宮の祭神となります。これを見ても天磐船は関東より東から出発している感じがあります。
このニギハヤヒの天磐船の話は時代でいうと紀元前45年ころのことだと思います。そしてこの時点ではまだ神武東征前なので丹敷戸畔や道臣命などは登場しません。神武東征はこれから数年後の出来事になります。日本書紀などではタカクラシタと道臣命はともに行軍したかのような記述になっていますが、これは後の世代で意図的に混同させたと考えられます。
日本書紀などにおいてこの場面で出てくる「天照大神、建御雷神、ふつのみたま」は少し唐突のように感じます。建御雷神は出雲の国譲りで活躍する神で、数百年前の人物です。しかし出雲の国譲りの時代にさかのぼると、建御雷神は紀伊山地のどこかで大量虐殺のようなことを行っていると思われる記述がホツマツタエにはあります。具体的にはホツマツタエの8文で、捕虜9100人をとらえたが多くが死んでしまい高野山に埋めた、というくだりです。これは丹生都比売神社と何か関連があるのではないかという気がします。
話は戻って「ふつのみたま」を持ったタカクラシタですが、彼は陸路大和を目指し道中は武力に頼んで進んでいったのではないでしょうか。なので過去の惨劇の当事者だった建御雷神と関連付けたのだと思います。

熊野と徐福

徐福像(新宮市)

熊野から大和へ向かうタカクラシタですが、この熊野の地には秦の始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を求めて船で蓬莱山を目指した徐福が漂着したという伝承があります。実際に和歌山県新宮市にある徐福の墓では秦時代の貨幣である半両銭が出土しています。半両銭が後の時代に運び込まれた、ということもあるとは思いますが、徐福がこの地に降り立ったのは特に疑わなくていいでしょう。そうであれば熊野には中国の戦国時代をくぐり抜けてきた文化、文物も漂着していたはずです。東国の人々からすれば大変物珍しいことでしょう。徐福渡来から150年程経過はしていますが、熊野には中国の文化の香りがまだ漂っていたと思います。八咫烏というのももともとは中国が由来の概念で、太陽に住むとされる三本足の烏のことです。高句麗も三足烏(八咫烏)を重視していたとされます。ホツマツタエでは熊野の八咫烏というのは老人として登場します。熊野に住み着いた徐福一行の子孫で、大和までの山道を把握していた物知りな老人、という見方もできます。

ニギハヤヒとナガスネヒコ

神武東征前

ニギハヤヒは船で難波に到着し、当地の地族であるナガスネヒコとまみえます。ナガスネヒコは奈良県の生駒あたりに勢力を持っていました。ナガスネヒコはニギハヤヒに帰順し従う道を選びます。天香山命(タカクラシタ)も熊野から大和へと侵入してきたでしょう。ニギハヤヒはナガスネヒコの妹であるミカシヤ姫を娶り婚姻関係を結びます。のちにウマシマチも生まれます。ニギハヤヒは侵入者でありながら地族であるナガスネヒコと融和し歓迎される人徳があった人物と考えられます。義兄であるナガスネヒコは今まで通り生駒を拠点とし、一方ニギハヤヒ一行は奈良盆地南部の橿原あたりに拠点を置きました。
この時点でニギハヤヒやナガスネヒコは40歳前後、天香山命(タカクラシタ)は20歳前後でしょうか。ウマシマチは生まれたばかりです。

【補足】ニギハヤヒとホアカリ

ニギハヤヒという人物は謎が多く、よくホアカリという人物と同一として語られます。ホアカリは天孫ニニギの兄にあたる人物で、天孫降臨のあと奈良県の飛鳥周辺を地盤とします。これは出雲の国譲り神話と同時代で紀元前5世紀~紀元前4世紀ころの話です。一方ニギハヤヒは紀元前1世紀ころの人物で、両者は別人となります。ではなぜ同一視されるのかというと、ニギハヤヒの時代、もしくは死後、彼はホアカリの転生だろうと当時の人たちが考えたから、ということになります。転生とか言われるともう受け付けないという人も多いかと思いますので、今回はホアカリについてはこの程度で終えますが、日本人の死生観、転生観というのは古代史を知る上で避けては通れない問題でもあります。つづく