占い、宗教、歴史などの研究をまとめています。

神武東征

ウガヤ王朝の滅亡

前1世紀ころの西日本

前1世紀の西日本

神武東征は九州から葦原中国(近畿)を目指した出兵で、その頃九州では一定の勢力が存在したということになります。これは天孫ニニギの孫であるウガヤフキアエズを祖としたウガヤ王朝だとされています。宇佐を首都として九州北部を勢力下に治めており、周辺の国々(安芸、吉備、阿波など)もそれに服していたと考えています。ウエツフミ、竹内文献、宮下文書などの古文書には50~70代に及ぶ王統も残されており、その最後の方に五瀬命の名が残されています。彼は神武天皇の兄とされる人物で、神武東征にも同伴します。

九州北部のウガヤ王朝(筑紫国)に服する国として、四国にあった阿波国がありました。首都は阿波宮で今の金刀比羅宮、長い階段があり私も一度上りました。そこはクシミカタマ(ワニヒコ)という人物が治めており、代々オオモノヌシ(大将軍のような地位)を継ぐ家系にあります。出雲の国譲りにさかのぼると天津神である天孫ニニギに国津神である出雲のオオナムチは降伏しますが、その数百年たった当時も主従関係が続いていて、筑紫のウガヤ王朝に服する阿波国のオオモノヌシという関係になっています。そのクシミカタマの妹がタタライソスズ姫で後に神武天皇の皇后となる人物です。ホツマツタエによるとクシミカタマとタタライソスズ姫の年齢差は46歳(2倍ではない)になるので、それが正しいなら妹ということはないと思います。クシミカタマの子にアタツクシネという人物もいて、彼は2代目綏靖天皇のオオモノヌシ(大将軍)になります。
出雲国はというと阿波国とは兄弟のような関係ですが、ウガヤ王朝には属していなかった可能性があります。理由は初期銅鐸(鳴らす銅鐸)の出土が出雲に偏っており、出雲は独自の文化圏だったと思われるからです。

神武東征

紀元前45年ころ、葦原中国にニギハヤヒが降り立ちますが、海を挟んだ阿波国でもその情報はすぐに耳に入ったことでしょう。クシミカタマは宗主国である筑紫のウガヤ王朝へそれを報告します。ウガヤ王朝は五瀬命が政務を執っており、これは捨ててはおけない事態だと認識します。そして前38年ころ、五瀬命は東征を開始します。日本書紀などでは五瀬命のほかに弟の稲飯命、三毛入野命、そして神武天皇とその子タギシミミ、日臣命(後の道臣命)、途中で仲間になった椎根津彦などが神武東征に同行していたとされていますが、私が考えるに確実なのは総大将の五瀬命と将軍日臣命、そして途中(明石海峡あたり)から椎根津彦だと思います。出発地は日向ではなくウガヤ朝の首都宇佐で、陸路で岡水門まで行きそこで船団に乗り込み、後は記述通り安芸国の埃宮、吉備国の高島宮を経て難波という経路です。日向からではない理由というのは後で説明したい思いますが、たぶんその頃日向は阿多隼人とよばれる地族が支配する地域であり、ウガヤ王朝の勢力下ではなかったと思います。また宇佐から陸路岡水門としていますが、東征には船団が必要となり、それを擁していたとすれば本州下関に近い岡水門が適当だと考えてのことです。宇佐から海路であれば岡水門に寄る必要はないはずで、あえて岡水門に立ち寄ったことを記述している理由は筑紫国で唯一、戦争に耐えうる船団を擁する港だったから、と考えることができます。そこから船団で東進し上述の港で軍備を整え、河内国の白肩津に到着したのは2年後の前36年ころだと考えます。

孔舎衛坂の戦い

五瀬命は進軍し、対するナガスネヒコは孔舎衛坂で迎え撃ちます。激しい戦闘となりますが思った以上にナガスネヒコ軍の力は強く、東征軍は攻めあぐねます。そんな中、総大将である五瀬命は矢を受けて負傷してしまいます。東征軍はいったん退かざるを得ませんでした。そこで計って紀伊半島を迂回し、背後を急襲しようという作戦を立てます。捕虜などからニギハヤヒ一行も別動隊が熊野から北上したという話を聞いたのかもしれません。東征軍は南へと進路を変えます。しかし総大将の五瀬命の傷は深く、紀の国の竈山で命を落としてしまいました。

その後の東征軍

ここまでは皆が知る神武東征序盤の山場ですが、実際は総大将が戦死して東征軍は瓦解し敗色濃厚という状態だったと思います。さらに船で熊野に着くころには皇子2人が死亡する記述があり、これが史実かはともかくもう戦争を継続する力は残されていなかったでしょう。軍は日臣命が残兵を指揮しかろうじて崩壊を免れていましたが、熊野での丹敷戸畔との戦闘で全員が捕縛されます。「毒気で全軍が眠ってしまった」という描写はそういうことではないでしょうか。この時夢で天照大神が出てきたりと色々あって軍は奇跡的に甦り宇陀へと行軍します。もしかしたら宇陀までは何とかたどり着いたのかもしれません。考えてみても熊野から宇陀までは100kmを越える山道で、徒歩で進むのは相当な困難であることは察することができます。負傷者も多く食料も心元なかったでしょう。遅かれ早かれ日臣命率いる東征軍は全員捕縛され、ニギハヤヒの前に跪きました。ナガスネヒコも駆けつけますが、彼は孔舎衛坂の激闘で多くの部下を失っており全員処刑することを提案します。しかしニギハヤヒはボロボロの姿になった彼らの投降をゆるすことにしました。ウガヤ朝は天孫ニニギの孫であるウガヤフキアエズが祖である天津神。ニギハヤヒも天津神であり元は同祖ということになります。これが天羽羽矢を付き合わせ天神の孫であることを確認しあったという件になります。ニギハヤヒは同族のよしみで降伏を許しナガスネヒコもしぶしぶこれに従いますが、投降軍との間に大きな溝ができました。王(もしくは皇子)である五瀬命は戦死、東征軍も降伏し、ここにウガヤ王朝は滅亡しました。紀元前36年ころのことです。

神武天皇即位

戦後処理と阿波国の思惑

東征軍の降伏した噂はすぐに広まり、阿波国のクシミカタマの耳にも届きました。阿波国はもともと出雲を祖とする国津神。筑紫ウガヤ朝の五瀬命が死亡したときいてその支配から離脱を決意し、ニギハヤヒに帰順の旨使いを出します。磐余邑(奈良県桜井市)の陣でニギハヤヒ一行と阿波国使節は戦後処理を話し合います。そしてニギハヤヒを新たな王とし、皇后に阿波国の姫であるタタライソスズ姫を立てることを提案しました。しかしニギハヤヒはすでに40歳を超える高齢であり、タタライソスズ姫はまだ10歳ほど。王となることは受け入れるもタタライソスズ姫は息子の天香山命(タカクラシタ)の后に、ということで合意に至りました。そして橿原に宮殿を建築し、翌前35年、ニギハヤヒは初代天皇神日本磐余彦として即位しました。

即位の儀

即位の儀はウガヤ朝の方式を受け継ぎ、三種の神器を継承する儀礼だったようです。ホツマツタエの30文にその詳細が描かれています。しかしこの記述は後世書き換えたようにも感じられます。なぜならニギハヤヒの即位はなかったことになっているからです。次代の綏靖天皇の即位はこの記述のようだったのかもしれません。

西国への使節団

ニギハヤヒは即位し、タタライソスズ姫が皇后になったからといっても、筑紫のウガヤ王朝はまだ形としては残っています。ニギハヤヒは天香山命(タカクラシタ)を代表とする使節団(スベシカドとあるが統使人?)を組織し、敗軍の将である日臣命(以後道臣命と書きます)や阿波国の使者なども引き連れ、さらに軍勢も従え西国へと遣わします。前31年タカクラシタは帰国します。筑紫国(ウガヤ朝)、山陰(出雲?)、さらに越国では反抗勢力を武力で従わせ、全国統一の証である国統絵(くにすべえ)を父ニギハヤヒに捧げました。
使節団は筑紫から神宝を持ち帰りました。三種の神器は「ヲシテ(文書)」、「鏡」、「剣」となります。ヲシテは死亡した五瀬命から引き継いだ道臣命がニギハヤヒへと捧げましたが、の臣である中臣はハラ宮(静岡県浅間神宮)の宮司だったアメタネコが引き継ぐこととなり「なおり中臣」(新・中臣)となり、同じように八重垣()の臣である物主は阿波国のクシミカタマが引き継ぎ「なおり物主」(新・物主)となります。神宝を持ち帰ることで天皇と左右の臣の体制は整いました。大功をあげた天香山命(タカクラシタ)は紀の国の大連となり天皇を守護することになります。つづく