占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

戦国時代の考え方

歴史的事件と因果の法則

本能寺の変

本能寺の変は明智光秀が主君の織田信長を本能寺で夜討ちした事件です。なぜ謀反を起こしたのか、その動機については謎で様々な説があります。私は次のように考えていました。

1582年、当時京都には織田信長、徳川家康、明智光秀などが滞在していました。羽柴秀吉は中国地方へ遠征を準備しています。そんな中で光秀は秀吉から次のように聞かされます。「主君(信長)の命で家康を暗殺する」という計略です。内密に事を運ぶためこの計略を知る者は極わずか、秀吉側の重臣と光秀側の重臣(斎藤利三)などにより密かに計略は練られます。そして家康が本能寺に滞在している所を狙い、計画を実行に移します。それが本能寺の変です。
夜討ちの結果死んだのはなんと主君の織田信長。徳川家康を討つ予定が信長を殺してしまいました。慌てた光秀は信長の長男信忠をも殺し京都を制圧、そこでこの事態の把握と今後の分析をします。斎藤利三によれば信長の命で家康を討つために秀吉と策を練ったわけですが、これは手を汚さずに信長を暗殺する秀吉の策謀だった、と理解します。ならば秀吉はすぐに引き返してくるはず、そして間もなくその報を聞き、急遽隘路の難所である山崎で迎え撃つことを決めます。それが山崎の戦いですが、士気も上がらず軍備も不十分な明智軍は敗退し、明智光秀は殺されてしまいました、とされていますが実際は生きて潜伏し、後に僧侶天海として家康に仕えます。斎藤利三は秀吉に利用され主君光秀を謀反人にしてしまったことを何とか挽回しようとしますが、山崎の戦いでとらえられ無残に殺されてしまいます。これを深く悲しんだ光秀(天海)は利三の娘である福(春日局)を重く用い、その霊を慰めました。

小早川秀秋

私はこのように考えていましたが実際のところはわかりません。そのような中で岡山へも足を運んだ際、小早川秀秋が関ヶ原の戦いの後ここを領地としたが2年後死亡した、とあります。そこで小早川秀秋ももしかすると死んでいなかったのでは、とふと思いました。光秀も謀反人の汚名を着ながら死んだこととして名前を変え生き続けた、ならば小早川秀秋も裏切者の汚名を着ながら死んだこととし、別人として江戸の礎を築くのに力を発揮したのでは。そう思い調べてみると江戸初期の儒学者、林羅山の存在が浮かび上がりました。なるほど小早川秀秋も死んだこととして名前を変え、林羅山として江戸幕府を作り上げたのだ、と思いました。そしてそれと同時に、小早川秀秋は明智光秀と秀吉の妻であるねね(高台院)との子なのではと考えました。

明智光秀と小早川秀秋

山崎の戦いで逃走した光秀は長宗我部元親を頼ります。そして本能寺の変の裏側を知った元親は光秀を匿います。そのころ浮気性の秀吉に愛想を尽かしていたねねと、秀吉の策に敗れた光秀は意気投合し、子をもうけたのが小早川秀秋です。1582年生まれとなっていますが数か月の違いは誰もわかりません。実際は1583年、林羅山もこの年に生まれています。ねねはまだ30代前半、光秀は年齢不詳ですが50代かなと思います。妻を大事にしたと言われる光秀ですが、この時は家族も家来も坂本城もすべてを失っています。秀吉との間に子ができなかったねねは大変喜びましたが、まさか光秀との子と言うことはできません。なので兄(木下家定)の子として自分で育てました。

関ヶ原の戦い

そう考えれば関ヶ原の戦いもまた違った視点から見ることができます。小早川秀秋は秀吉の養子だったこともある豊臣家の重臣ですが、実の父である明智光秀にとって豊臣家は仇です。天海(明智光秀)は秀秋に実の父であることを打ち明け、秀秋は本能寺の変の真相を知ります。なので秀秋は西軍を裏切ることに迷いはありませんでした。関ヶ原で東軍と西軍はぶつかりますが、秀秋は既に腹を決めています。この機を逃さず裏切りを決行し、東軍を勝利へと導きました。しかし汚名は免れようもありません。裏切者となった秀秋は死んでその名前を残すこととします。謀反人の明智光秀、裏切者の小早川秀秋、この二人は親子であり、あえて汚名を残すことで、反面教師として裏から徳川家に尽くすこととなります。そして表立っては天海、林羅山と名乗り、江戸幕府の重臣として基礎を固めました。

私はこれは十分ありうる説だなと自分で納得していました。そして旅行からひと月ほどたった2016年の1月頃、この説を前提として歴史は繰り返すと仮定し、空白の4世紀を分析してみることとしました。つづく