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垂仁天皇と景行天皇

日本書紀について

日本書紀
日本書紀

日本書紀は日本最古の正史とされる歴史書です。奈良時代養老4年(720年)に完成しました。重要な歴史書なのですが、日本人はほとんど読まない本でもあります。一度は目を通したことはあっても、物語としても中途半端ですし、天皇の年齢や在位が明らかにおかしいので歴史書として見るのも苦しいです。また戦前は国家神道の影響で強制的に学ばされたこともあり、戦後は研究者以外はあまり触れない本となってしまいました。私も本棚にはあったもののほとんど読まないでいました。ただ天武天皇が手がけた書でもあるので何か隠されているなとも感じていました。

最近歴史についてある程度自分の考えが整理されてきたこともあり、少し腰を据えて日本書紀を読み直してみました。すると乱雑に思えた記述や年代がある意図をもって書かれていることに気がつき、隠された歴史の一端に触れることが出来るようになりました。空白の4世紀と言われる時代、そして伝説の人物ヤマトタケルの実像が鮮やかに浮かび上がってきました。

空白の4世紀、そしてヤマトタケルに触れる前に、まずは垂仁天皇景行天皇について見ていく必要があります。予備知識が必要なこともあり複雑でわかりにくい点もあるかと思いますが、できるだけわかりやすく解説していきたいと思います。

垂仁天皇(在位282~292)

垂仁天皇については以前は九州あたりからヤマトへ来た人物かと思っていたのですが、最近はもともとのヤマト国、卑弥呼のヤマト国を継ぐ人物であると考えるようになりました。前の崇神天皇卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)を倒し248年に即位した人物で、魏志倭人伝にも記述があります。その後疫病などで国内は混乱し、トヨを立てて国の安定化を図りました。垂仁天皇は従来のヤマト国の勢力が失地回復した時の王で、それが282年頃ということだと思います。

ヤマト国を取り戻し一時的に近畿は治まったのですが、九州では景行天皇が破竹の勢いで進軍し、それはヤマト国へも伝わってきたと思われます。そのような時代背景の中で垂仁天皇はひとまず東日本、東北の勢力と手を結び対抗できる体制を作ろうと考えたのだと思います。そして天日槍の子孫タジマモリを東日本へ派遣し協力を求めます。しかしタジマモリが帰国する前に垂仁天皇は殺されてしまいます。292年のことです。

景行天皇(在位293~310)

景行天皇は山口県の周防国を拠点としていた勢力です。天日槍が穴戸(下関あたり)で訪れたというイツツヒコ王国との関連も感じます。

283年山口県から九州へ侵攻を開始します。7年ほどで九州全土を平定します。290年に近畿へ入り一時垂仁に服属します。しかしすぐに謀反を起こし自ら天皇になります。ヤマトタケルの父とされています。奈良県を拠点とし306年には上総国(千葉県)へと巡幸します。死亡は310年。子供が80人いたようです。

まとめ

ここまで垂仁天皇や景行天皇の活躍する古墳時代の初期を簡単に見てきました。後漢が滅び東アジアの秩序が乱れ、崇神天皇、景行天皇などの勢力が拡大していきます。景行天皇は九州を平定し、さらに近畿で垂仁天皇を倒します。景行天皇はさらに東へと勢力の拡大を目論みます。そこで若干16歳(満15歳)のヤマトタケルを東征へと向かわせます。東日本の各地にヤマトタケル東征の痕跡を探すことができます。一定の成果をあげ帰途についたヤマトタケルですが、帰国間近で病に倒れてしまいます。数え18歳、能褒野で力尽き白鳥になったとされています。

以上記紀の年代との相違はありますが、2倍暦などを計算に入れて読み直すとこのような歴史の流れが見えてきました。しかし310年にヤマトタケルは死亡してはいません。さらに日本書紀を解読することでその後の歴史、いわゆる空白の4世紀が明らかになっていきます。

静御前

静御前と郡山市

静御前堂
静御前堂

郡山市には静御前にまつわる史跡が多くあります。静町や御前といった地名にも残っており、静御前堂というお堂もあります。

毎年3月28日にはそこで例大祭が開かれます。私の誕生日と同じなので気になっていました。19歳くらいまでの記録しかなくなかなか実像に迫れないのですが、色々と伝承などを集めて整理しています。

年表

西暦 年齢
(数え)
できごと
1168年 1歳 京都で生まれました。母は磯野禅師、父は後白河法皇だと思われます。
1182年 15歳 神泉苑の善女龍王社で雨乞い。100人の白拍子の最後に舞い、雨を降らせたという伝説があります。この時義経と出会ったようです。
1185年 18歳
京都堀川邸跡
京都堀川邸跡
壇ノ浦の戦いで平家滅亡。鎌倉へ凱旋した義経は頼朝に疑いをかけられ、鎌倉へ入る事が許されませんでした。夏から秋にかけての数ヶ月間、京都堀川館で義経とすごしたようです。写真はその跡地。
その後義経は頼朝に命を狙われます。義経は兵を起こすため一旦京を去るのですが、その時一緒についていきました。父や母からは危ないので止められたのかと推測します。尼崎で船が難破し義経一行は吉野山へ隠れます。しかしここは女人禁制の地、止むなく静御前は京へ返されます。義経と別れたあと蔵王堂で捕らえられてしまいます。しばらく監禁されたのですが、義経は朝敵となっていて誰も助けることができない状態でした。その頃京都守護職になったばかりの北条時政に保護されやっと京へ帰ることができました。
1186年 19歳
(厄年)
母とともに鎌倉へ移送されました。頼朝に命じられて断ることができず鶴岡八幡宮で舞を披露します。男児を出産しますが由比ガ浜に沈められてしまいます。その後母とともに京へ帰りました。
1188年 21歳
花輪屋敷近くの静御前像
花輪屋敷近くの御前南公園
義経が奥州へ居ると知り京を経ちます。静御前、乳母のさいはら、従者小六の3人での旅でした。しかし小六が郡山で病に倒れてしまいます。困り果てて近くの花輪屋敷に滞在することとなります。その頃義経は岩手県宮古市に隠れていたようです。追っ手を避けつつ大般若経を写経していました。静御前はそれを知ってか知らずか郡山より先へは進まなかったようです。1年ほど滞在したと見られます。
1189年 22歳
美女池
美女池
義経が討たれたとの報を聞き悲嘆に暮れて郡山を去ります。その際美女池で自殺したことにしました。茨城県古川市、埼玉県久喜市栗橋で伝承が残るのはこの帰路のことだと思われます。結局京へ戻りましたが1ヶ月ほどで母磯野禅師と共に母の地元である香川県へ向かいました。長尾寺(香川県さぬき市)で母と共に出家しました。
1191年 24歳 香川の記録では母磯野禅師が死亡したとされています。しかし山口県徳佐の墓をみるとその後も生きていたようです。
1192年 25歳
尼御前岬
尼御前岬
義経を頼って再度奥州へ向かいます。東海道は避け北陸を通ったようです。途中安宅の関へ立ち寄ります。もしかするとここで義経と再会した可能性があります。再開したとはいえお互いの意見が合わなかったのだと思います。静御前は誰にも知られず義経と暮らせればいいと思っていたでしょうし、義経としては部下も抱えているし無責任に投げ出すわけにもいきません。そしてこの時義経は大陸へ渡ることを決意していたのだと思います。二人はここで決別したのではないでしょうか。そして再度身を投げたことにした場所として尼御前岬の伝承になっているのかと思います。
その後
山口県徳佐の風景
山口県徳佐の風景
その後山口県の徳佐で大内満盛の庇護を受け暮らすことになります。宝清山八幡宮近くの笊笥庵に居住し、母と共に京の雅楽を教えながら尼としてひっそりと暮らしたようです。由比ガ浜で沈められたとされる男児は生きていて、ここで母と祖母とともに暮らしたのかと思われます。この前訪れてみましたが近所には温泉もありそこで旅の傷を癒したのではないでしょうか。1240年くらいまで生きたのだと思われます。お墓は山の中の目立たないところにひっそりとありました。