占い、宗教、歴史などの研究をまとめています。

アマテラス②

白山比咩神社
白山比咩神社

宗像三女神の母

ホツマツタエではアマテル(男神)に12人の后がいることとなっています。東西南北に3人ずつ、王統に世継ぎが途絶えることを心配してのことだといいます。最初に書いておきますが、このアマテル(男神)は存在しません。以下何度か出てきますが、架空もしくはスサノオとかぶらせています。
北の正妃がモチコ、そして妹のハヤコも北の后です。2人はイザナギの弟クラキネの娘、つまりイザナギの姪となります。ハヤコは3人の娘を産みます。タケコ、タキコ、タナコ、すなわち宗像三女神です。
ここで疑問に感じるのは宗像三女神はアマテラスの子だよなあ、ということです。じゃあハヤコがアマテラスなのではないか、と考え追求してみました。

ハヤコ(速佐須良比売)

ハヤコは日本書紀には記述はありませんが、ホツマツタエではかなり詳細に描かれている人物です。その内容から大祓祝詞に登場する速佐須良比売と同一視できると思います。大祓祝詞は後に語るとして、ホツマツタエではどのような人物なのか、簡単に説明します。
上記のようにクラキネと呼ばれる北陸地方の長官の娘です。姉モチコと共にアマテル(男神)の后となります。そして3人の娘(宗像三女神)を産みます。
アマテル(男神)の后なのですが、いずれスサノオと不倫をします。その前にスサノオは朝日宮(籠神社)でハヤスウ姫を見初めて結婚を申し込むのですが、破談になります。気落ちしたスサノオはモチコ、ハヤコと不倫関係になるのですが、ハヤコはハヤスウ姫に嫉妬します。後にハヤコはオロチとなりハヤスウ姫を噛み殺した、ということですが、嫉妬から人はオロチ(大蛇)になる、というのが古代日本の考え方のようです。
その後ハヤコは身を寄せる場所がなくなり流離うこととなるのですが、これが速佐須良比売と重なります。根の国から流離い、信州、東北へと落ち延びたのでしょうか。例えば遠野物語など、東日本にもいくつか痕跡が見つかります。
滋賀県の安羅神社にはスサノオと速佐須良比売が祀られています。由緒ではスサノオが速佐須良比売の形見をここに祀った、ということです。速佐須良比売は行方不明になり、不憫に思ったスサノオが形見だけでもと考えたのでしょう。
クラキネ(イザナギの弟)、つまり天津神の王族の娘で宗像三女神の母、これはアマテラスの一つの側面であり、ハヤコの人物が投影されていると考えます。

モチコ

モチコはハヤコの姉、アマテル(男神)の后の一人で長男ホヒを産みます。しかしホヒは天穂日命のことで、これは時代が違います。スサノオの6代孫の大己貴の時代、つまり出雲の国譲りの頃の人物です。ホツマツタエでは2つの時代が絡み合っており、それぞれの因果を相殺できるように親子関係が訂正されていることが多くあります。国譲り後出雲を治めた天穂日命、モチコはその母、とすることで、モチコの子は本来この地の王たるはずだった、ということが推察されます。
モチコは長男を産みますが、アマテル(男神)は瀬織津姫ホノコの子オシホミミを世継ぎと考えます。それに嫉妬したモチコもオロチと化します。ホツマツタエにおけるヤマタノオロチはモチコとハヤコ、そしてその一族を指します。つまり天津神、アマテラスこそヤマタノオロチということです。
ここであらためて整理すると、モチコは長男ホヒ(別時代)を産み、ホノコは男児オシホミミ(別時代)を産んだ。アマテル(男神)(スサノオ)はホノコの子を世継ぎとし、モチコはホノコに嫉妬した。

古今東西よくある后達の争いのようです。ホノコという女性も出てきますが、なかなか実体がつかめません。時代が違うのか、別の誰かなのか。瀬織津姫もやはり大祓祝詞に登場する人物で、この時代に生きていることは確かです。しかし瀬織津姫=ホノコというのが違和感があります。
本当の瀬織津姫はモチコだと思います。アマテラスの荒魂と呼ばれる人物です。しかし後世、天津神としては瀬織津姫=「嫉妬でオロチとなるモチコ」は都合が悪くなります。そこでアマテルという男神を創作し、モチコに嫉妬され殺される人物に瀬織津姫を当てた、というのが実際のところだと思います。それはホノコなのか誰なのか、以下明らかにしていきます。
重要な点は、モチコは他に世継ぎを産んだ女性に嫉妬して殺害した、という事です。

天津神

天津神の代表はアマテラスです。上古25代と呼ばれる古代の王統があるのですが、信ぴょう性は不明なものの、そこには日本神話の神々の名が連ねてあります。19代オモタル、20代カシコネに続き21代目にイザナギが記されています。その次22代目が「天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇」となっており、ムカツ姫で女性です。天津神系統のイザナギの次の王、ここでは女王となりますが、それはイザナギの姪にあたる、モチコ、ハヤコ姉妹ということです。
とりあえずここまでを整理すると、

アマテラス=モチコ・ハヤコ=ヤマタノオロチ

ということです。つづきます。

アマテラス①

日本神話のアマテラス

アマテラスというのは伊勢神宮に祀られている女神です。日本書紀では神話の登場人物となっています。イザナギの左目を洗ったときに生まれ、高天原に住み、弟スサノオが乱暴なため岩戸に隠れ、思兼命や天宇受賣命によって岩戸から出てきた神です。同じく弟のツキヨミと共に天下を代わる代わる治めています。

スサノオとの誓約(うけい)

スサノオとの誓約(うけい)は有名な逸話です。姉アマテラスに会いに行ったスサノオみて、アマテラスは「国を奪いに来たのか」と武装して待ち構えます。スサノオは「ただ根の国へ行く途中によってひと目会いたかっただけだ」と釈明しますが、アマテラスは信用しません。そしてその心が正しいのか誓約をします。スサノオの産んだ子が男児ならば、よこしまな気持ちはないとの証明にします、といい、アマテラスはスサノオの十柄の剣を、スサノオはアマテラスの五百箇の御統をそれぞれ噛みちぎりました。
アマテラスの産んだ子は3柱の女神で、宗像三女神です。一方スサノオの産んだ子は5柱の男神です。誓約はスサノオが勝ちました。

ホツマツタエでの記述

ホツマツタエではアマテラスは男神となっています。そしてその正妃が瀬織津姫(向津姫)です。瀬織津姫の実体はわかりませんが、女神アマテラスと同一視する見方もあります。そこでアマテラスは男なのか女なのか、実在したとすればどのような人物だったのか、このあたりが大きな謎として浮かび上がります。日本書紀より古いホツマツタエでは男神なのだから男だったのだろう、とも考えられますし、日本書紀の段階で記述の誤りを正して女神に戻した、とも考えられます。

アマテラスの実像

私が集めた資料などを整理していく中で、アマテラスを実在の人物と考え見えてきたことについてまとめてみたいと思います。

  • アマテラスは女性
  • 生きた時代は紀元前7世紀頃
  • 複数の女性の記述が重なっている
  • いずれもスサノオの后である
  • ヤマタノオロチである

以上がアマテラスの概要となります。「事実なのか?証拠はあるのか?」と言われると「こんな感じだと思う」としか答えられませんが、少なくとも上の5項目に誤りはない思います。一体どういうことなのか、以降すこし説明していこうと思います。

古代日本の暦について

ホケノ山古墳
ホケノ山古墳

日本の失われた暦

古代日本の暦についてはほとんど何もわかっていませんが、ホツマツタエではいくつかの主要な暦が記述されています。一つはスズ暦、そしてスズ暦の後を継ぐアスス暦、そしてこれらと併用して使用されているキアエ暦です。スズ暦については今一つはっきりしませんが、51スズまであるようです。これはウガヤフキアエズの51代と対応しているのではないかと考えています。アスス暦は365日で2年の2倍暦を採用しています。キアエ暦は干支と似ていて60個の年号が循環します。干支を「エト」と読むのはこれが起源のようです。アスス1年を「キアエ」とし、アスス2年が「キアト」、3年が「ツミエ」・・・、59年が「ネウエ」、60年が「ネウト」、61年が「キアエ」です。しかしこれも2倍暦なため実質30年で一周りするところが特徴です。

ホツマツタエにおける最後の年はアスス暦843年です。ではこのアスス暦を365日で1年に換算し直し、それを西暦に当てはめれば古代の年表がかんたんにできるのでは、と思うのですがそれがそう単純ではありません。ホツマツタエにおいても古代の人物やその業績、さらに年代までもが改ざんされており、当てはめるにもどこを基準にすべきなのか、正しい部分と改ざんされた部分はどのあたりなのか、などなど色々と考慮すべき点があり、それらを整理してまとめるときにどうしても恣意的になってしまいます。とはいえある程度しっかりした年表が作成されることは歴史研究においても、日本人の心理的な面においても重要な事だと考えます。

以下私がどのように年代を求めているのか、その基点の根拠はなにかなどを少しまとめておきたいと思います。

アスス暦

アスス暦は843年あるわけなので、2倍だとすれば421年ほどの歴史が記述されていると考えられます。しかしアスス暦も途中でおかしくなっており、特に700年を過ぎたあたりから重複や引き伸ばしなどが見られ、暦としての機能を果たせなくなっているように読み取れます。ちょうど空白の4世紀に差し掛かるあたりであり、この時期の混乱した様子が感じ取れます。なのでその終盤の100年ほどは置いておいて、比較的正確だと思われる部分を解析し、西暦に当てはめたいと思います。一人の人物の記述から基点となる年代を求めることができます。魏志倭人伝にも記述がある「トヨ」です。

豊鍬入姫命(トヨ)

魏志倭人伝は中国の書ですが、私達日本人ですら古代日本史の年代や出来事を探るのに中国の書を頼りにしてしまいます。日本書紀に卑弥呼やトヨがいなくても、魏志倭人伝に書いてあるので実在しただろうと考えてしまいます。トヨ(壹與、台与)は女王卑弥呼が死亡した後、男王を立てたが戦乱が収まらず、13歳で立てられた、とされている女性です。13歳とありますが、これも2倍暦なので数え6歳のことです。

魏志倭人伝におけるトヨは日本史におけるどの人物に対応するのか、というのは邪馬壹国(ヤマト国)の所在地解明にもつながりますが、私は日本書紀における豊鍬入姫命がトヨであると考えています。これはホツマツタエと日本書紀を並行して読むことで導き出すことができます。

崇神天皇の祭祀

崇神天皇の治世で天照大神と倭大国魂を祀ったというのはホツマツタエ、日本書紀双方に記述されています。記述と年代を整理すると以下のようになります。

日本書紀 ホツマツタエ 出来事
記述なし アスス624年 トヨスキ姫に天照大神を祀らせる。
崇神5年 アスス625年 疫病発生。
崇神6年 アスス626年 民が四散、天照大神の宮を移す。

この段階で日本書紀の豊鍬入姫命とホツマツタエのトヨスキ姫は同一人物であることがわかるのですが、魏志倭人伝のトヨに対応するかどうかはまだ不明です。

トヨスキ姫の年齢

これより下ってアスス710年、ヤマト姫が11歳で御杖代となります。翌年アスス711年、ヤマト姫は斎野(飯の宮)にいたり、トヨスキ姫に仕えます。そしてその3年後のアスス714年、トヨスキ姫は103歳で斎宮をヤマト姫に譲り、宮を伊勢に移します。ヤマト姫が斎宮になったのはアスス713年とも読み取れますが、714年のほうが正しいと思います。ホツマツタエでトヨスキ姫の年齢が確認できる記述はこれのみです。

では90年前にあたる624年においてトヨスキ姫の年齢は103-90=13歳になります。13歳と言えば魏志倭人伝におけるトヨの年齢です。ここにおいて魏志倭人伝のトヨはトヨスキ姫(豊鍬入姫命)ということが確認できます。日本書紀では豊鍬入姫命の年齢に関する記述がないためこの比定ができませんでしたが、ホツマツタエを介することで魏志倭人伝のトヨが豊鍬入姫命であることを確認することができました。つまりアスス624年崇神4年が魏志倭人伝における「卑弥呼が死んで男王を立てたが収まらずトヨを立てた年」となります。

アスス暦から西暦を出す計算式

魏志倭人伝では正始8年(247年)倭国は狗奴国と紛争状態にあったとあります。そしてこの頃卑弥呼が死亡し塚を建てたとあります。そして男王が立てられたが人々は服さず、トヨを立てて国が治まった、ということです。崇神1年はアスス621年であり、これが西暦248年とすれば以下のようになります。

西暦 アスス暦 日本書紀 出来事
247年 619年
620年
開化59年
開化60年
倭国と狗奴国の紛争。この頃卑弥呼死亡。
248年 621年
622年
崇神1年
崇神2年
崇神天皇即位。
249年 623年
624年
崇神3年
崇神4年

トヨを立てた。

つまりアスス621年が西暦248年であり、アスス暦から西暦を出す計算式は、

(アスス暦-125)÷2

ということです。621-125=496、496÷2=248です。倭姫に斎宮を継いだアスス714年は、714-125=589、589÷2=294.5で294年となります。

紀元前は少し手を加えて上記の式からさらに1を引きます。なぜなら紀元0年がないからです。紀元前3、前2、前1、紀元1、紀元2…となるので単純な引き算だと1年ずれます。アスス87年は87-125=-38、-38÷2=-19、さらに-1で紀元前20年となります。アスス元年はと言うと1-125=-124、-124÷2=-62、さらに-1で紀元前63年となります。ただアスス暦も初期と末期の部分は少し正確性に疑問な点もあるため注意が必要です。

まとめ

以上ホツマツタエに見られる暦と、それから割り出される西暦への計算式をまとめました。魏志倭人伝のトヨが日本書紀の豊鍬入姫命であることがわかり、邪馬壹国(ヤマト国)の所在地も畿内、纏向遺跡であることがわかりました。またこれによりヤマトタケルの生年を導くことができ、そこから空白の4世紀の解明につながりました。

空白の4世紀

仁徳天皇陵

日本書紀と歴史

日本史には空白の4世紀と言われる謎の時代があります。大きな日本史の流れとしては250年ころ弥生時代から古墳時代へと移行するのですが、その古墳時代の前期にあたる270年~400年ほどの歴史が文字資料に残っておらず空白になっているのです。この空白を埋めようと多くの歴史家が様々な仮説を立てていますがどれも決定的とは言えない状況のようです。

しかし実は単純に日本の歴史書「日本書紀」を読み解くことで空白の4世紀が見えてくるのです。これは奈良時代、日本書紀の編纂時に意図的に封印し、後世正しい視点で読み解けば自ずから浮かび上がるように仕組まれたものでした。これは相当に高度な技巧を要するものであり、当時の日本の文化レベルが極めて高水準だったことを物語っています。この技巧は儒教で言う「中庸」の観点を文章に埋め込み歴史を表現するという、極めて高い精神性が要求される手法と言えます。

歴史というものは勝者によって描かれる、というのは否定できない事実です。奈良時代に現存していた各種の文献もそれぞれの立場によって描かれ、どれが真実の歴史なのか判別に困っていたのだと思います。しかし見方を変えれば勝者によって描かれた歴史自体がありのままに歴史を表現しているとも言えます。やはり自分に都合の悪いところは書きたくないとか、敵方の悪いところは誇張するとかというのは自然であり、その描き様から当時の時代背景や為政者の気持ちを読み解くことができるわけです。奈良時代というのは一旦日本の歴史が元に帰り、まっさらな状態で時代を見つめることができた貴重な時期だったのだと思います。その時にどう歴史を残すのか、日本人の知恵と文化が結集され、世界に歴史書のあり方を問うた渾身の書が日本書紀と言えるでしょう。

ヤマトタケルについて

では実際に空白の4世紀を明らかにしたいのですが、避けて通れないのがヤマトタケルです。ヤマトタケルは景行天皇の皇子であり、熊襲征伐と東征を行い大和王権の拡大に寄与した人物です。生きた時代については記紀の年代をそのまま取れば紀元100年ころの人物になります。しかし実際は293年に生まれています。そして310年に東征からの帰還中死亡したとされています。これだけ見ると天皇の皇子として2度の戦争を指揮し、皇位に付く前に病に倒れてしまった人物のようです。それにしては日本各地に伝説が残り、その名前や逸話を知らない日本人はいないほど有名であり、さらに武神として各地に祀られ信仰の対象にもなっています。なぜここまで過大に持ち上げられるのか、そこを説明しなくてはなりません。

  • まずヤマトタケルは310年で死んではいません。景行天皇の次の天皇は成務天皇ですが、ヤマトタケルは東征後景行天皇を殺し自ら成務天皇となりました。ここが日本史の大事件であり、その隠蔽はヤマトタケル自身が行ったものだと考えられます。
  • 次にヤマトタケルの生きた時代です。293年に生まれ、死亡したのは399年、実に数え107歳まで生きたたいへん長寿の人物です。古代で長寿と言えば武内宿禰が思い出されますが、武内宿禰はヤマトタケルのことであり長寿という部分は史書にも残っているわけです。成務天皇の享年は107歳です。古代の異常に長い歴代天皇の年齢のなかに埋没され見過ごしてしまいますが、その中に一人だけ本当の年齢の人物がいた事になります。
  • そしてヤマトタケルは仁徳天皇でもあります。仁徳天皇と言えば日本最大の古墳、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を思い出しますが、まさにあの古墳がヤマトタケルの陵墓です。成務天皇と仁徳天皇が同一人物とか意味がわからない、と思うかもしれませんが、天皇の事績として仁徳天皇紀に書かれた出来事はヤマトタケルが天皇だった頃の史実ということです。これは後に解説していきます。
  • さらに武烈天皇もヤマトタケルです。暴虐で何一つ良いことをしなかったという武烈天皇の記述も、実は若き頃のヤマトタケルの事績なのです。武烈天皇は18歳で死んでいますが、18歳と言えばヤマトタケルの死んだ年齢でもあります。このように巧妙にヤマトタケルを隠蔽しながら、その史実はきちんと日本書紀に残されているのです。

空白の4世紀を知る上で、このヤマトタケルの事実を語らないことはできません。というよりも、日本史における空白の4世紀それ自体が、ヤマトタケルが王として君臨した時代そのものと言えるのです。このことを踏まえたうえで、今一度古墳時代初期からの歴史を見ていきたいと思います。

景行天皇の治世

垂仁天皇と景行天皇でも触れたように、景行天皇は山口県を拠点とし、九州へと攻め入ります。私の推測では馬韓からの渡来人、もしくはその子孫だと考えています。九州での戦争では弥生人の国家を次々と滅ぼしており、それは景行紀の12年に詳しく描かれています。

290年九州を平定した景行天皇は大和へ向かいます。後にヤマトタケルは兄オオウスとともに生まれたことになっていますが、実はオオウスは景行天皇とともに九州から大和へ来たのだと思います。ヤマトタケルは武内宿禰でもあります。武内宿禰の父は武雄心命とされていますが、この人物がオオウスなのだと思われます。出生地は佐賀県武雄市です。景行天皇の軍勢は和歌山市付近に滞在します。そこで武雄心命は影媛と呼ばれる女性との間に子供をもうけます。しかし影媛は景行天皇の女性でもあったようで、293年に生まれた子ヤマトタケルは景行天皇の子供ということで育てられます。294年には武雄心命(オオウス)は美濃を任されます。

この頃の治世には倭姫の話埴輪の話などがあります。ともに垂仁天皇の治世のように見られますが、年代を計算すると景行天皇の時代になるのです。景行天皇は暴君のようなイメージがあります。一方で殉死の風習をなくし埴輪を作らせるなどの政策も行ったようです。しかしそれも垂仁天皇の事績にされるなど、当時としても良いイメージはなかったのかと思われます。

306年、景行27年に再び熊襲が叛いたとあります。先の戦争で九州から船で逃れた熊襲、隼人が上総国(千葉県)にいる事が判明し、それを討ちに景行天皇は自ら出征します。しかしここでは思うようにいかずに敗退し、その帰路美濃へ立ち寄ったのだと思われます。そこで美濃の武雄心命(オオウス)とヤマトタケルが似ているとわかり、景行天皇は二人が親子だと悟ります。しかし今更そのようなことは言えるはずもなく、彼は兄だということにしたのでしょう。周囲の人たちも薄々気づいていたのだと思います。

ヤマトタケルの東征

景行天皇とオオウスは仲が悪かったという記述があります。上記のような経緯もあり、さらにオオウスを恨んだのでしょう。しかし美濃では一定の勢力があり簡単に討てる相手でもありません。ですがその存在は目障りなため一計を案じます。つまり美濃の勢力で相模、上総などの東国を攻めさせようと考えたわけです。しかしオオウスもそれに素直に応じませんでした。なので景行天皇は息子のヤマトタケルを東征へ向かわせたのです。16歳のヤマトタケルはその辺りの事情がわかりません。兄の代わりに自分が行くのだと単純に考えたのかもしれません。また戦果を上げるチャンスと捉えたのかもしれません。そして308年冬10月、ヤマトタケルは東征へと出発しました。16歳で無謀な気もしますが、吉備武彦大伴武日の軍勢をつけてもらっているので軍としては備わっていたのでしょう。ただし景行天皇の思惑としては成果の期待はしていなかったでしょうし、むしろそのまま戻ってこなくてもよいとも思っていたのではないでしょうか。他人の息子を皇子としておくわけにも行きません。

ヤマトタケルの東征についてですが、大筋としては静岡県、神奈川県相模での戦闘を経て上総国へ。途中浦賀水道でオトタチバナ姫を失います。上総国でも戦争を行っており主な目的はここだったのかもしれません。その後茨城県の鹿島神宮へ。そこから北上し福島県の勿来に陣を張ります。東北の軍と対峙しますがお互い争いは避けたかったのか、多賀城で会談をしたと思われます。帰路はそこから南下して新治、筑波を経て再度相模へ。武蔵の国はこの時に作られたようです。その後長野、美濃をへて尾張へ。ここでしばらく滞在しました。途中吉備武彦を越へ向かわせており、尾張で合流するのを待ちます。

景行天皇を討つ

309年尾張へ到着するのですが、ここはオオウスの支配地域です。ここでヤマトタケルは兄オオウスが実父であると知ったのでしょう。苦難と葛藤の末、ヤマトタケルは近畿へ攻め入り景行天皇を討つことを決断します。まずは吉備武彦を帰国させヤマトタケルが三重県能褒野で死亡したと報告させます。叛意を悟らせず油断を誘うためでもありますが、生きて天皇でもある養父を討つという汚名を残したくなかったというのも理由の一つでしょう。近畿へ攻め入ったヤマトタケルは景行天皇を高穴穂宮へと追い詰め、ついに討ち取りました。310年のことです。

最近5世紀の日本を調べていたのですが、新たな発見などもあり現在過去の記事を精査中です。とりあえず年表を作成したのでそれを載せておきます。

垂仁天皇と景行天皇

日本書紀について

日本書紀
日本書紀

日本書紀は日本最古の正史とされる歴史書です。奈良時代養老4年(720年)に完成しました。重要な歴史書なのですが、日本人はほとんど読まない本でもあります。一度は目を通したことはあっても、物語としても中途半端ですし、天皇の年齢や在位が明らかにおかしいので歴史書として見るのも苦しいです。また戦前は国家神道の影響で強制的に学ばされたこともあり、戦後は研究者以外はあまり触れない本となってしまいました。私も本棚にはあったもののほとんど読まないでいました。ただ天武天皇が手がけた書でもあるので何か隠されているなとも感じていました。

最近歴史についてある程度自分の考えが整理されてきたこともあり、少し腰を据えて日本書紀を読み直してみました。すると乱雑に思えた記述や年代がある意図をもって書かれていることに気がつき、隠された歴史の一端に触れることが出来るようになりました。空白の4世紀と言われる時代、そして伝説の人物ヤマトタケルの実像が鮮やかに浮かび上がってきました。

空白の4世紀、そしてヤマトタケルに触れる前に、まずは垂仁天皇景行天皇について見ていく必要があります。予備知識が必要なこともあり複雑でわかりにくい点もあるかと思いますが、できるだけわかりやすく解説していきたいと思います。

垂仁天皇(在位282~292)

垂仁天皇については以前は九州あたりからヤマトへ来た人物かと思っていたのですが、最近はもともとのヤマト国、卑弥呼のヤマト国を継ぐ人物であると考えるようになりました。前の崇神天皇卑弥呼(倭迹迹日百襲姫)を倒し248年に即位した人物で、魏志倭人伝にも記述があります。その後疫病などで国内は混乱し、トヨを立てて国の安定化を図りました。垂仁天皇は従来のヤマト国の勢力が失地回復した時の王で、それが282年頃ということだと思います。

ヤマト国を取り戻し一時的に近畿は治まったのですが、九州では景行天皇が破竹の勢いで進軍し、それはヤマト国へも伝わってきたと思われます。そのような時代背景の中で垂仁天皇はひとまず東日本、東北の勢力と手を結び対抗できる体制を作ろうと考えたのだと思います。そして天日槍の子孫タジマモリを東日本へ派遣し協力を求めます。しかしタジマモリが帰国する前に垂仁天皇は殺されてしまいます。292年のことです。

景行天皇(在位293~310)

景行天皇は山口県の周防国を拠点としていた勢力です。天日槍が穴戸(下関あたり)で訪れたというイツツヒコ王国との関連も感じます。

283年山口県から九州へ侵攻を開始します。7年ほどで九州全土を平定します。290年に近畿へ入り一時垂仁に服属します。しかしすぐに謀反を起こし自ら天皇になります。ヤマトタケルの父とされています。奈良県を拠点とし306年には上総国(千葉県)へと巡幸します。死亡は310年。子供が80人いたようです。

まとめ

ここまで垂仁天皇や景行天皇の活躍する古墳時代の初期を簡単に見てきました。後漢が滅び東アジアの秩序が乱れ、崇神天皇、景行天皇などの勢力が拡大していきます。景行天皇は九州を平定し、さらに近畿で垂仁天皇を倒します。景行天皇はさらに東へと勢力の拡大を目論みます。そこで若干16歳(満15歳)のヤマトタケルを東征へと向かわせます。東日本の各地にヤマトタケル東征の痕跡を探すことができます。一定の成果をあげ帰途についたヤマトタケルですが、帰国間近で病に倒れてしまいます。数え18歳、能褒野で力尽き白鳥になったとされています。

以上記紀の年代との相違はありますが、2倍暦などを計算に入れて読み直すとこのような歴史の流れが見えてきました。しかし310年にヤマトタケルは死亡してはいません。さらに日本書紀を解読することでその後の歴史、いわゆる空白の4世紀が明らかになっていきます。