占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

空白の4世紀 – 年表

5世紀の日本を調べていて新たな発見などがあり、過去の記事を精査中です。空白の4世紀の年表を載せておきます。

年表

年表
西暦 出来事 備考
281年 崇神天皇死亡 崇神天皇は大和で死亡したと考えます。
282年 垂仁天皇即位 崇神天皇から垂仁天皇への皇位の継承は自然なものではないと思います。垂仁天皇は崇神に倒された卑弥呼のヤマト国を継承する人物で、この時期失地回復を果たしたのだと思います。
283年 狭穂彦の反乱
熊襲の反乱
狭穂彦の反乱は大和での出来事。熊襲の反乱は九州での出来事で景行天皇が山口県から西征し九州北部を侵略していきます。
284年

290年
景行日向の高屋宮を拠点とする 景行天皇はここを拠点とし九州南部、熊襲、隼人などを征服していきます。
285年 野見宿禰の相撲の話 東日流外三郡誌にも記されています。相撲の起源でもあります。
286年 但馬の神宝を見せてもらう 新羅の国からもたらされた但馬の神宝。また別に崇神60年には出雲の神宝事件があります。「神宝を見る」というのはその国を滅ぼしたということだと思います。
287年 垂仁天皇タジマモリを東国へ遣わす タジマモリは新羅王子天日槍の5世孫。天日槍は150年ころ、孝霊天皇などと同世代の人物だと思います。タジマモリは垂仁天皇の信頼厚い人物だったと思われます。5年後帰国しますがすでに垂仁天皇は亡くなっていました。
290年 景行天皇大和へ 景行天皇は九州一体を平定し、次は大和へ向かいます。現在の和歌山市に滞在。一時垂仁天皇に服属します。
292年 景行天皇謀反
垂仁天皇死亡
垂仁天皇の死亡時期については景行天皇の即位と同時期とみてのことで、まだ根拠が薄いです。垂仁天皇の陵墓は宝来山古墳だと思われます。
293年 景行天皇即位 近畿一体も勢力下におきます。
293年 ヤマトタケル誕生 小碓、日本武尊とも書かれる。武内宿禰でもある。ヤマトタケルが一般的なのでそう書きます。
294年 倭姫2代目斎宮に 豊鍬入姫から天照を離し倭姫に付け伊勢に祀らせる。豊鍬入姫は51歳、倭姫は5歳。豊鍬入姫は倭姫の伯母となる。これは垂仁紀にありますが、景行天皇の治世です。崇神天皇の行為に習ったのでしょう。
294年 景行天皇美濃へ。帰還後纒向に滞在。 この時ヤマトタケルの兄大碓(オオウス)は生後1年で美濃へ。兄遠子、弟遠子が美人なので住み着いたとあります。後年ヤマトタケルと争った兄はこの人物でこの時すでに青年になっていたと思われます。つまり景行天皇はオオウスと共に美濃へ行き、オオウスがその地に残ったのだと思います。
306年 景行天皇上総国巡幸。帰還後伊勢綺宮に滞在。 この時の上総国巡幸でヤマトタケルも同行したと思われます。14歳。上総国での争いがヤマトタケルの熊襲討伐は史実ではないと考えますが、物語の下地はこの遠征かと思います。
308年 ヤマトタケル東征 この時16歳。今で言えば高校1年生。無謀な気がします。
309年 ヤマトタケル帰還し尾張滞在 この時17歳。尾張で宮簀姫を妻に。宮簀姫はヤマトタケルが東征へ向かうときに出会っていて結婚を約束していたようです。尾張でしばらく滞在しています。
310年 ヤマトタケル死を偽装
景行天皇死亡
この時18歳。草薙の剣を置いて伊吹山へ。病にかかり三重県能褒野で死亡し白鳥になる。奈良県琴弾原、大阪府古市邑と降り立つ。景行天皇はオオウス、もしくはヤマトタケルに殺されます。
311年

312年
空位 仁徳天皇即位前、菟道稚郎子と皇位を譲り合ったとあります。実際はヤマトタケルとオオウスの争いでしょう。
313年 ヤマトタケル即位 成務天皇でもあり仁徳天皇でもあります。宮は高穴穂宮(滋賀県大津市)か難波高津宮(大阪市中央区)かと思われます。
313年 楽浪郡、帯方郡滅亡 高句麗による。楽浪郡、帯方郡は漢民族の出先機関です。朝鮮半島での漢民族の衰えは決定的となります。
314年 成務天皇全国に国造を設置 成務天皇(ヤマトタケル)によるこの事績は各地に記録が残っており確認することができます。
321年 仲哀天皇生まれる ヤマトタケルと両道入姫の次男です。
337年頃 武内宿禰東北、北陸地方を視察 王としてではなく大臣武内宿禰として。東北や北陸の各地に痕跡があります。景行紀25年の記述がこのことだと思われます。
342年 仲哀天皇即位 22歳。皇后両道入姫の次男。ヤマトタケルはこの時50歳で隠居のような身になったのかと思います。気長足姫(神功皇后)を皇后とします。日本書紀の仲哀紀の初めの部分、白鳥の話があります。父を偲んで白鳥を献上させたが途中奪われたという話ですが、これはヤマトタケルが父と兄を殺害したことを暗示しています。
343年 敦賀に仮宮
仲哀天皇南海道巡幸
さらに山口県穴門豊浦宮へ宮を移す
敦賀の気比神宮。山幸彦の時代から由緒があり、この時期に拡大したのではないかと思われます。仲哀天皇、神功皇后、ヤマトタケルなどが祀られています。
その後仲哀天皇は紀伊(和歌山県)を経て穴門(山口県)へ。ここへ神功皇后を呼びます。3年ほど滞在しています。
346年 仲哀天皇熊襲を討つが勝てず
仲哀天皇崩御(26歳)
三韓征伐
この時神功皇后に神懸かりがあり新羅を討てと神託があったが、それに従わず熊襲を討って負けてしまいます(史実ではないと思う)。仲哀天皇はすぐ病に倒れ死亡。神功皇后、武内宿禰(ヤマトタケル)が三韓征伐へ。
347年 かご坂王、忍熊王の反乱 神功皇后が三韓征伐から帰国し誉田別(応神天皇)を出産。穴門を経て大和へ帰還すると、かご坂王、忍熊王が留守中に兵を挙げていました。武内宿禰が反乱を制圧。
347年 神功皇后摂政元年(17歳)
磐余若桜宮(奈良県桜井市)に宮を遷す
ヤマトタケルはこの時54歳。難波の宮も並行して機能していたと考えられます。
349年 新羅から使者が来る 先の戦争での人質を取り返しに来た模様。記述からはお互い信頼できていない様子を感じます。
353年 武内宿禰、誉田別皇子と気比神宮へ 誉田別皇子(応神天皇)は若くして皇太子になっておりヤマトタケルも期待をかけていた様子です。この時も大宴会を開いたとあります。
353年 百済へ使者 仁徳紀より。紀角宿禰を百済へ遣わします。国境を定め各種の記録を付けたとあります。新羅とは違い百済とは幾分友好的です。紀角宿禰は葛城襲津彦などと対朝鮮外交で活躍しており、共に武内宿禰の子とされています。外交は重大事ですので親族に任せたのでしょう。
365年 上毛野田道を新羅へ派兵 仁徳紀より。田道将軍と言われる人物です。
367年 上毛野田道を東北へ派兵 仁徳紀より。田道将軍が伊峙の水門(石巻?)で討たれます。古墳文化は宮城県大崎市付近の大崎平野までとされていますので、この戦争と関連が深いと思われます。
370年 百済から使者が来る 神功紀より。久テイら。同時期に新羅からも使者が来ており貢物の内容で揉めています。翌年の戦争の原因になっているようです。
371年 新羅再征 神功紀49年の戦争の記述です。大きな戦果があったようです。また百済とともに戦ったとあります。攻めとったいくつかの国を百済へ与えており百済は朝貢を約束したとあります。
372年 七支刀をもらう 370年、371年と立て続けに百済から使者が来ており、百済へも使者を派遣しています。両国の友好的な様子が伺えます。2倍暦を用いて計算するとこの年に七支刀をもらったようです。
銘文にある「倭王旨」はヤマトタケルのことでしょう。「旨」は「うま(い)」です。武内宿禰の弟に甘美内宿禰(うましうちのすくね)という人物がいるとされていますが、双方ヤマトタケルの別名だと思われます。
377年 新羅を討ちに襲津彦を派遣 新羅の計にかかり襲津彦は新羅ではなく加羅を討ってしまったようです。襲津彦は王の怒りを恐れ帰国できなかったとあります。
381年 神功皇后崩御 享年50歳。若くして夫と別れながらもその事績からは力強さを感じます。
381年 応神天皇即位 36歳。ヤマトタケルの孫にあたります。この時ヤマトタケルは89歳です。
384年 高句麗、百済、新羅、任那から使節。韓人池を造る この頃高句麗が南下し百済が圧迫を受けています。応神紀にある「百済が礼を失した」というのは高句麗に領土を削られたことを言っています。
388年 弓月君が百二十県の人民を率いて帰化 秦氏の祖です。
389年 王仁渡来 王仁は百済における儒教の先生だったようで、経書をもって日本に渡来しました。高句麗が強勢になったため大和朝廷としても経書の研究が必要になったと思われます。
391年 阿知使主(アチノオミ)が十七県の人民を率いて帰化 東漢氏の祖です。弓月君と阿知使主は帯方郡由来の漢人で多くの技術をもたらします。帯方郡は高句麗に滅ぼされており、その支配を嫌って日本に帰化したのでしょう。
391年 広開土王碑の記述 広開土王碑は「百済と新羅は(倭の)属民なので倭に朝貢していた。よって391年海を渡って(倭を)破り百済と新羅を臣民とした」歴史の流れを見れば大筋このような文だと考えられます。高句麗はこの頃朝鮮半島を掌握し、更に海をわたって壱岐まで進出したようです。
395年 高句麗から使節が来る 上表文には「高麗の王、倭に教う」とあり太子はその無礼なことに怒ったとされています。
396年 武庫の船火災 応神紀31年の記述です。高句麗に対抗するため500隻の船を集めたのですが、それを見た新羅の使者が危機を感じ放火した事件のようです。
399年 阿知使主を呉へ派遣 高句麗を経由して呉(東晋)へ向かったようです。
399年 ヤマトタケル死亡 107歳です。若くして王になり激動の時期を駆け抜けた世界に誇れる日本の王と言えるでしょう。
401年 応神天皇崩御
呉から使いが帰る
55歳です。死後呉からの使者が縫女とともに帰国したとあります。絹織物に価値を感じたのでしょう。ひとつの時代の終焉を感じます。

かご坂王忍熊王の反乱

五色塚古墳
五色塚古墳

権力争いに影響を与えた4世紀の内乱

「かご坂王忍熊王の反乱」は神功皇后紀元年に記述がみられます。347年の出来事です。前年の346年はいわゆる三韓征伐で、多くの兵、物資が動員されたと考えられます。かご坂王忍熊王は仲哀天皇の皇子とされていますが、前年急死した仲哀天皇は生きていれば27歳、もし子供がいるとしても10歳に満たないと推測できます。さすがにその年齢で反乱は起こせないのでかご坂王と忍熊王は仲哀天皇の兄弟、異母兄弟、従兄弟などと見るのが普通です。戦乱で宇治に陣取ったところを考慮すると、宇治天皇、両道入姫の親戚であると考えます。力のある外戚が乱をおこし、王権を奪おうとしたのでしょう。

反乱の原因

記述から読み取れる原因は前年仲哀天皇が急死したことで自分たちの立場が危うくなった、というものです。前にも少し触れましたが、犬上君の祖である倉見別という人物も乱に加担しています。私が思うに彼は仲哀天皇の兄である稲依別王ではないかと思います。弟が遠い戦地で急死し、連絡手段も脆弱ななかで疑念が増大し、事態を把握できない以上不測に備えて兵を挙げる、というのは理解できる行動です。あとは数十年王権を見ていて政治に不満があり、悪政を糺すと旗を挙げれば周囲が付き従うと判断したのかもしれません。実際乱に加担した五十狭茅宿禰は武蔵国造であり東国から兵を起こしました。途中兵力を拡大しながら進軍したとなればかなりの規模だったでしょう。

弟橘姫の死

三韓征伐中ですので畿内は手薄です。実際戦端は播磨の明石ですので反乱軍は難波、大和といった首都機能を制圧していたでしょう。弟橘姫はこの年に死んでいるので巻き込まれて殺されてしまった可能性が高いと思います。この機に乗じて皇后が目障りな側室を殺した、というのは十分あり得る展開です。頼れる息子はというと記述ではわからないので何とも言えないですが、普通に三韓征伐に参加していた可能性も高いです。

市辺押磐皇子

履中天皇の子で市辺押磐皇子という人物がいます。この時10代後半くらいでしょうか。彼は100年以上後、5世紀後半に雄略天皇に殺されたとされています。これはありえないのでいずれかの記述が嘘なわけですが、私は347年の乱で反乱軍に殺されたとみています。また市辺押磐皇子には子がいたとされ23代顕宗天皇、24代仁賢天皇になったとありますが、時代が飛びすぎて不自然です。いろいろと年代が混乱していて、記述を正直に読むことが不可能になってきます。この辺りから5世紀の天皇の謎につながっていきます。その解説は後に譲るとして、とりあえずは弟橘姫とその孫である市辺押磐皇子がこの347年の乱で殺され、さらに市辺押磐皇子には年齢的にも子はいなかったと考えます。

反乱の鎮圧とその後

かご坂王忍熊王の反乱の詳細は神功皇后紀に記述されています。結果として反乱は鎮圧されます。近江あたりの戦闘で大勢は決したようです。この乱で皇后両道入姫の勢力は大打撃を受けます。4世紀後半、神功皇后、応神天皇と王権の主流は維持しますが、平群氏、葛城氏は実務で存在感を増していきます。399年ヤマトタケルが死亡し、401年応神天皇が死亡します。その後誰が即位したのか、応神天皇のあとであれば仁徳天皇ですが、ヤマトタケルと同一人物ですので死んでいます。仁徳天皇のあとであれば履中天皇ですが、長生きした仁徳天皇より前に死んでいます。となると反正天皇や允恭天皇などが候補に挙がりますが、双方仁徳天皇の子という設定で、それを事実ととらえれば履中天皇と同じように仁徳天皇より先に死んでいるか、即位できてもあまりに高齢です。

なので私は5世紀初頭については、ヤマトタケルの死を隠し、その死を知っている一握りの氏族が主要役職を固め政権を維持したのではないかと考えています。仁徳天皇陵の築造時期が少し遅れたのもこの理由であれば納得できます。どのくらい続いたでしょうか、413年には倭は東晋に遣使を派遣しています。421年には倭の五王の一人である讃が宋に遣使を送ります。少なくとも20年後には讃という王が立っていることが確認できます。

空白の4世紀と言われますが、では5世紀はよほど歴史も明らかになっているのだろうというと全くそのようなことはなく、ただ倭の五王の記述があるだけで歴史が不明確な点は4世紀とほとんど変わりません。これから5世紀について見ていきますが、倭の五王と天皇の対比、稲荷山古墳鉄剣などの考古学的資料の検証、またより詳しく正確になってくる朝鮮史との比較をしながらヤマト王権の外交などを調べたいと思います。さらにその過程で浮かび上がる日本書紀の意図、目的についても解説していきます。

弟橘姫

履中天皇の実体

弟橘姫は私も最初はヤマトタケルの東征時に死んだと思っていましたが、様々な資料でヤマトタケルとの間に子をもうけているのを見ると生きていたとする方が正しいのかなと思うようになりました。さらに両道入姫が八田皇女ということがわかり、では磐之姫は誰なのか、となると最も可能性があるのは弟橘姫かな、と考えました。弟橘姫とその子孫を探ることで、5世紀における権力争いの主体を明らかにしたいと思います。また履中天皇について考察する過程で、日本書紀の「予言書」としての側面も少しずつ解説していきます。

平群木菟宿禰

ヤマトタケルと弟橘姫の間には稚武彦王という子がある、と景行紀51年にあります。しかしこの稚武彦王がまったく記述がなくここで一度行き詰まります。そこでヤマトタケルと同一人物である、仁徳天皇、武内宿禰の子はどうなのか、と調べてみます。仁徳天皇には履中天皇をはじめ5男1女を確認することができます。武内宿禰には平群木菟をはじめ7男2女を確認できます。平群木菟については仁徳紀元年にも特に記載があり、仁徳天皇と同日に生まれ名前を交換した、とあります。平群木菟と名前を交換したのは履中天皇ではなく仁徳天皇なのですが、武内宿禰の子という部分を重視します。そこで稚武彦王は履中天皇であり、平群木菟なのではないかと考えました。

履中天皇陵

根拠はいくつかあるのですが、一番大きなものとして履中天皇陵の存在を挙げます。古墳に少し詳しければ履中天皇陵が日本で3番目に大きい古墳であることは知っていると思います。履中天皇は15代応神、16代仁徳の次、17代目の天皇です。単純に天皇の在位順で考えればその古墳は5世紀中ごろから後半に作成されていると考えるのが普通です。しかし履中天皇陵は埴輪による編年などによれば4世紀末に作成が始まり、応神仁徳よりも古いことがわかっています。もちろん古墳の被葬者の比定が間違っていると考えることもできますが、私の研究では履中天皇陵に矛盾が生じません。

百舌鳥古墳群
百舌鳥古墳群

今でこそ履中天皇陵は3番目の大きさの古墳ですが、仁徳、応神陵はこの後に作られたので、作成当時最大の古墳ということになります。作成時期は4世紀末から5世紀前半にかけて。310年~320年頃に生まれ、70歳くらいまで生きたとするのなら時期が一致します。仁徳天皇陵と同じような方向を向き、南西部に寄り添う形はヤマトタケルの長男の陵墓にふさわしいものです。

生きた年代と築造時期
生きた年代と築造時期

平群氏

次に平群木菟宿禰が外交など国家の最重要課題に関与し、厚く信頼されていた様子が記述から読み取れることです。履中紀にある弟の反乱の記述では、反正天皇が自分も疑われるのはかなわないので信頼できる人物を付けてくれ、と言って付き添わせたのが木菟宿禰です。履中天皇が木菟宿禰のため少しおかしいですが、履中天皇自体は架空の、予言の天皇なのでこのような矛盾が生じることがあります。(この部分は後で説明します。)

また平群氏という氏族が強勢であることも挙げます。武烈紀では平群真鳥が国を乗っ取る勢いと描写されています。臣下のなかでも王家を揺るがす力があるということです。これはヤマトタケルの長男の系譜でありながら、弟橘姫とともに「死んだ」ことになっていて王位につくことはできないものの、実態は王族と変わらないということです。

「予言書」日本書紀

根拠も矛盾しているし、そもそも履中天皇は天皇だろ?と思うかもしれません。これは日本書紀が「歴史書」であると同時に、「予言書」の顔も持っているのでこのような説明になってしまいます。そもそも履中天皇や仁徳天皇は架空の天皇、未来の天皇ということです。4世紀において履中天皇は即位していません。仁徳天皇も同じく即位していません。仁徳紀や履中紀というのはヤマトタケルや平群木菟宿禰が今生即位できなかったので、来世において仁徳天皇、履中天皇として即位するだろうという「予言」の部分なのです。
わかりやすく歴史を構築して説明したいがために「予言書」日本書紀の解説をしなくてはならない辛さはあるのですが、それでも日本人は仏教の素養があるのでまだましかなとも思います。とりあえずここは弟橘姫の説明からそれるので「予言書」日本書紀についてはまた後で解説しますが、磐之姫というのも弟橘姫が皇后になれなかったので来世になるであろう皇后としての記述ということになります。

葛城氏

弟橘姫の説明に戻ります。当時も皇后、側室という概念は存在し、正妃をウチミヤ、側室をスケと呼んでいたようです。弟橘姫はスケにあたります。息子は王になれなくとも有力氏族として王権を支えます。平群氏もそうですが、葛城氏というのも弟橘姫の子孫と考えています。4世紀後半から頻繁に名前が登場する葛城襲津彦は弟橘姫の息子であり、葛城氏の祖となります。平群氏、葛城氏という氏族が5世紀前半ころ隆盛します。そのきっかけとなったのが347年の「かご坂王忍熊王の反乱」と考えます。おそらくこの乱が原因で弟橘姫はなくなったと思われます。死後奈良山に埋葬されたとありますが、五社神古墳ではないかと思います。

ここまで弟橘姫について見てきました。表向き死んでいるため日陰の道を歩むこととなりましたが、息子たちは有力氏族として力を付けます。特に平群木菟宿禰はヤマトタケルの長男であり、ヤマトタケルがあまりに長寿だったため親より先に死んでしまいますが実質王権のナンバー2といった立ち位置だったでしょう。両道入姫、弟橘姫とみてきたので次は4世紀の内乱である「かご坂王忍熊王の反乱」から5世紀初頭の王位継承を探りたいと思います。また「予言書」日本書紀についても順次解説していきます。