占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

5世紀の日本史まとめ

歴史を探る「占い」という軸

今回は5世紀の日本史について解説していきましたが、その際に触れなくてはならない日本書紀の試みについても説明しました。私の説と日本書紀とのギャップはどうして生じるのか、占いや予言などの分野に踏み込むこととなりましたが論理が飛躍しないように苦心しました。そして空白の4世紀、5世紀と調べてみて、私の説は大筋で正しいことがわかり、この説に至るきっかけとなった戦国時代の考え方をについても、今となれば大げさではないと思い今回書いてみました。

さらに戦国時代の様相から、占いによって空白の4世紀を解明した経緯を書こうかとも思ったのですが、すでに十分な説明をしているので蛇足になると思い、この辺りでやめにしようと思います。戦国時代のあの人物は古墳時代のあの人物の転生、などいろいろ思うところはあるのですが、これはむしろ書かない方がいいだろうと思いました。解明に至る大きな鍵になったのはヤマトタケルの生まれた年を293年と確定できたことになりますが、それにはまずホツマツタエのトヨスキ(豊鍬入姫)の記述から基準となる年代を割り出すことが必要でした。興味のある方はぜひ文献や私の記事を読んで調べてみてください。

5世紀解明への足掛かり

5世紀については倭の五王と天皇の比定を中心に、5世紀の権力争いとその原因となったヤマトタケルの妃たちについても触れました。特に履中天皇を4世紀に活躍した平群木菟宿禰と設定することで、様々な文献や遺跡と矛盾することなく説明できました。履中天皇の生存時期からそれに続く履中系の仁賢天皇、顕宗天皇兄弟の在位時期を改めて、その後の眉輪王の変と允恭天皇の正体も確認できました。また大草香皇子という謎の皇族についても応神天皇の直系の孫という重要な地位だったことがわかりました。

日本文化の再発見

空白の4世紀、そして続く5世紀と、日本史の大きな謎を解明できたことは大変な成果だと思います。上で列記していて我ながらすごいと思いました。専門家でもない私がこのように歴史を解明できるのは、「占いの視点」という他人にはない軸があるからだと思います。歴史を平面で見るのではなく、転生や因果の法則から立体的に捉えることができる、そこが私の強みだと考えています。そして同じ視点で編纂された日本書紀と私の考察が時代を超えて共鳴することで、日本人の高い精神性と文化を再発見することにもつながりました。

最近暑くなってきたので私はまた休憩に入り、気が向いたら5世紀についてもう少し整理して、できれば年表のようにしてみたいと思います。

5世紀後半について

雄略天皇とヤマト王権の陰り

雄略天皇

雄略天皇の即位は宋への上表文から478年と考えています。通常より20年ほど繰り下がり、なので雄略紀の記述がもしかすると允恭天皇の時代にあたるのでは、と思われる個所もあり流れをつかむことができないでいます。上表文の内容はしっかりしたもので、優秀な臣下が補佐していたのでしょう。これは人材を育成した允恭天皇の功績とも言えます。内政では絹や酒、土師器の生産などに力を入れていたようで、治世を経て生活の質は向上したと見受けられます。一方「大悪天皇」と言われているように、むやみに人を殺す性格であったことも伝わっています。

外交面では新羅との関係が悪化し、一方で百済を後押しして高句麗を強く意識しています。国内では長い間友好関係だった吉備国との関係も悪化しています。力強さは脆さにもつながり、雄略の死後は大きく混乱した様子です。清寧、顕宗、仁賢、武烈、継体と続きますが、顕宗、仁賢は5世紀前半に在位、武烈は架空の天皇ということで、実際には雄略天皇の死後清寧天皇が即位し、間は挟まず継体天皇を見つけ出す、という流れだと思います。

武烈天皇

武烈天皇空白の4世紀の説明でも触れましたが、おおむねヤマトタケルのことだと思います。時期を置いて再度武烈紀を読んでみてもそう感じます。武烈紀には平群真鳥と鮪の親子が出てきますが、武烈天皇とこの二人の関係は景行天皇とオオウス、そしてヤマトタケルの関係をなぞっているように読み取れます。景行天皇が妃にしようとした影媛は既にオオウスが関係をもっており、その子であるヤマトタケルが二人を殺した、という4世紀初頭の出来事です。

王朝の興亡とカルマ
王朝の興亡とカルマの解消

ある王朝があったとき、その勃興時と滅亡時に似たような出来事が起きる、というのは私もなんとなく感じています。これは占いの分野で、勃興時の大きなカルマを解消するために滅亡時に役割を変えて似たような出来事が起きる、という関係です。この武烈天皇の記述にはそういった考え方が反映されていると感じます。実際には6世紀初頭に武烈紀に書いてあるような出来事はなかったでしょう。ヤマト王朝もここで滅亡したわけではありません。しかしこの時期はヤマト王朝における節目の時期であることは間違いありません。日本書紀の編纂者はこの武烈紀をもって、仁徳、履中と展開していったいった架空の歴史、予言の部分を収束させようとしたのでしょう。なので意図的に非現実的な作り話のように武烈紀は記述されています。しかしこれらの出来事はヤマト王朝の初期に、似たような形で実際にあったことだと推測できます。

清寧天皇

清寧天皇は雄略天皇の次の天皇とされています。それは正しいと思うのですが、日本書紀には目立った事績はなく、仁賢天皇と顕宗天皇兄弟を見つけ出した経緯が記されています。仁賢天皇と顕宗天皇については倭の五王などで詳しく見ましたが、時代としては5世紀前半です。なので清寧天皇との関連はないと思うのですが、「隠れた皇族を見つけ出し王に据えた」という部分は史実なのではないかと思います。つまり6世紀前半、王統が途絶えそうになり継体天皇を探し出した、という出来事に清寧天皇が関与しているのではないのかと考えています。

まとめ

以上5世紀後半について見てきました。本来は個々の事績を年表のように流れで説明したかったのですが、力不足でそこまではできませんでした。今後時間をかけて精査していきたいと思います。流れにこだわらなければ允恭紀、安康紀、雄略紀を読めば何が起きていたのかは知ることができるでしょう。今回は5世紀の概略として、倭の五王と天皇の対比をわかりやすく伝えるという目的は果たせたので、これは十分な成果だと私は感じています。

次は日本書紀の試みについて書いていこうと思いますが、占いや予言など信じないという方は特に読まなくても問題ないです。ですが今まで4世紀、5世紀と見てきて、この日本書紀の記述の仕方は何なのか、当然疑問に感じると思います。当時は資料が少なかったため仕方なかったとか、歴史を記述する能力が極端に低かったとか、そもそも文献を字面通りに読むのが本来は正しいとか、いろいろな解釈が可能かと思います。今回は履中天皇について、本来即位する時間的余地がないのに天皇であるとする矛盾を、予言の部分ということで少し説明しました。また武烈天皇については、カルマの解消のため王朝交代時に似たような出来事が起こると説明しました。次はこういった部分も含めつつ、より大きな観点から日本書紀の謎を探りたいと思います。

允恭天皇

隠された出自

允恭天皇の即位について見ていきたいと思います。出自を見ていくことで即位時の様子もわかってきます。父が仁徳天皇、母が磐之姫となっていますが、これは双方違うでしょう。ですが普通に日本書紀を読んでいてはほかに手がかりもなく、年代的な矛盾に目を瞑り仁徳天皇の子と受け入れざるを得ません。私は仁賢天皇と顕宗天皇を5世紀前半に在位していたと考え、履中紀、安康紀、雄略紀なども横断的に見ながら一つの説に行き着いたので、少し解説していきたいと思います。

大草香皇子

允恭天皇の即位時、天皇の候補がもう一人いました。それが大草香皇子です。こちらも父は仁徳天皇とされており、母は日向髪長姫となっています。しかしまずこの大草香皇子も仁徳天皇の子ではないはずです。日向髪長姫が登場するのは応神紀13年、私の計算だと387年にあたり、少しずれたとしても390年前後のことだと思います。美人と名高い髪長姫を日向から召し、皇子(仁徳天皇)に娶らせたとあります。この皇子は仁徳天皇ではなく、応神天皇の実在の皇子のいずれか、額田大中彦皇子もしくは大山守皇子かと思いますが、断定できません。そしてその間に二人の子が生まれるのですが、それが大草香皇子、もう一人が草香幡梭姫皇女となります。応神天皇から見てにあたります。

眉輪王

成人した大草香皇子は中蒂姫を妃とし、二人の間に眉輪王をもうけます。これは430年頃の話だと考えられます。ここで時代は大きく飛ぶのですが、安康元年(475年)では大草香皇子は殺され、中蒂姫は天皇(安康天皇)の妃となります。連れ子の眉輪王は父の仇討ちで天皇を殺した、とあります。この仇討ちの結果、葛城氏の衰退が決定的になります。しかし葛城氏の衰退はもっと早く440年頃、大草香皇子も5世紀前半の人物。そこで時代のおかしい安康天皇の部分を顕宗天皇に変えて読めばすべてつながります。

つまりどういうことかというと、435年頃、顕宗天皇(倭王珍)は兄仁賢天皇(倭王讃)の後を継ぎ天皇となります。そして自分を脅かす存在である大草香皇子を殺します。大草香皇子には既に中蒂姫という妃がいて、その間にはまだ幼い眉輪王という子もいます。当時は夫を殺された妻や子を自分のものとするような風習があったようです。顕宗天皇は中蒂姫を妃とし、眉輪王も自分の子とします。眉輪王は父を殺された恨みを抱いており、顕宗天皇を殺してしまいました。これが442年の政変で葛城氏の衰退は決定的となります。そして眉輪王こそ允恭天皇(倭王済)の正体ということになります。応神天皇からみて直系のひ孫にあたります。

ちなみに大草香皇子の妹(姉?)の草香幡梭姫皇女は仁賢天皇の妃になったのだと思います。

ヤマト王権正統系譜
ヤマト王権正統の系譜

即位時の年齢

こう考えると443年の即位時、允恭天皇はまだ子供のはずです。允恭天皇が幼くして即位したと思われる記述がいくつか見られます。まずは名前、雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと)ですが、「稚子」は子供のことです。次に即位時の記述で、「天皇の御印を奉った」とあり、自力での皇位継承ではなかったと推測される点。さらに允恭天皇の崩御時の記述、「年は若干であった」とあり何のことかと思いますが、これは即位時に「年は若干であった」という意味で、崩御時に書くことで類推させようとしていると考えることができます。

となると、允恭天皇を補佐した勢力があるはずです。倭直吾子籠という人物がいて、たびたび名前が出てくるのですが、この人物が眉輪王の後見人として442年の争乱を主導したのではないかと考えています。倭直吾子籠は石上神宮を中心とした狭義のヤマトの長で、朝鮮半島(安羅?)へ派遣されていた経験もあり半島情勢にも詳しい人物だったと思います。

まとめ

ということで允恭天皇の出自と即位について見てきました。磐之姫の子というのは年代的にありえないにせよ、履中天皇(平群氏)の系列となると不自然になるので悩みました。上記のように考えるとすっきりし、大草香皇子という謎の皇族の立ち位置もはっきりします。允恭天皇は眉輪王のことで、応神天皇の直系であり大草香皇子の子、両道入姫から続くヤマト王権の正統ということがわかりました。つづく