占い、宗教、歴史などの研究をまとめています。

弟橘姫

履中天皇の実体

弟橘姫は私も最初はヤマトタケルの東征時に死んだと思っていましたが、様々な資料でヤマトタケルとの間に子をもうけているのを見ると生きていたとする方が正しいのかなと思うようになりました。さらに両道入姫が八田皇女ということがわかり、では磐之姫は誰なのか、となると最も可能性があるのは弟橘姫かな、と考えました。弟橘姫とその子孫を探ることで、5世紀における権力争いの主体を明らかにしたいと思います。また履中天皇について考察する過程で、日本書紀の「予言書」としての側面も少しずつ解説していきます。

平群木菟宿禰

ヤマトタケルと弟橘姫の間には稚武彦王という子がある、と景行紀51年にあります。しかしこの稚武彦王がまったく記述がなくここで一度行き詰まります。そこでヤマトタケルと同一人物である、仁徳天皇、武内宿禰の子はどうなのか、と調べてみます。仁徳天皇には履中天皇をはじめ5男1女を確認することができます。武内宿禰には平群木菟をはじめ7男2女を確認できます。平群木菟については仁徳紀元年にも特に記載があり、仁徳天皇と同日に生まれ名前を交換した、とあります。平群木菟と名前を交換したのは履中天皇ではなく仁徳天皇なのですが、武内宿禰の子という部分を重視します。そこで稚武彦王は履中天皇であり、平群木菟なのではないかと考えました。

履中天皇陵

根拠はいくつかあるのですが、一番大きなものとして履中天皇陵の存在を挙げます。古墳に少し詳しければ履中天皇陵が日本で3番目に大きい古墳であることは知っていると思います。履中天皇は15代応神、16代仁徳の次、17代目の天皇です。単純に天皇の在位順で考えればその古墳は5世紀中ごろから後半に作成されていると考えるのが普通です。しかし履中天皇陵は埴輪による編年などによれば4世紀末に作成が始まり、応神仁徳よりも古いことがわかっています。もちろん古墳の被葬者の比定が間違っていると考えることもできますが、私の研究では履中天皇陵に矛盾が生じません。

百舌鳥古墳群
百舌鳥古墳群

今でこそ履中天皇陵は3番目の大きさの古墳ですが、仁徳、応神陵はこの後に作られたので、作成当時最大の古墳ということになります。作成時期は4世紀末から5世紀前半にかけて。310年~320年頃に生まれ、70歳くらいまで生きたとするのなら時期が一致します。仁徳天皇陵と同じような方向を向き、南西部に寄り添う形はヤマトタケルの長男の陵墓にふさわしいものです。

生きた年代と築造時期
生きた年代と築造時期

平群氏

次に平群木菟宿禰が外交など国家の最重要課題に関与し、厚く信頼されていた様子が記述から読み取れることです。履中紀にある弟の反乱の記述では、反正天皇が自分も疑われるのはかなわないので信頼できる人物を付けてくれ、と言って付き添わせたのが木菟宿禰です。履中天皇が木菟宿禰のため少しおかしいですが、履中天皇自体は架空の、予言の天皇なのでこのような矛盾が生じることがあります。(この部分は後で説明します。)

また平群氏という氏族が強勢であることも挙げます。武烈紀では平群真鳥が国を乗っ取る勢いと描写されています。臣下のなかでも王家を揺るがす力があるということです。これはヤマトタケルの長男の系譜でありながら、弟橘姫とともに「死んだ」ことになっていて王位につくことはできないものの、実態は王族と変わらないということです。

「予言書」日本書紀

根拠も矛盾しているし、そもそも履中天皇は天皇だろ?と思うかもしれません。これは日本書紀が「歴史書」であると同時に、「予言書」の顔も持っているのでこのような説明になってしまいます。そもそも履中天皇や仁徳天皇は架空の天皇、未来の天皇ということです。4世紀において履中天皇は即位していません。仁徳天皇も同じく即位していません。仁徳紀や履中紀というのはヤマトタケルや平群木菟宿禰が今生即位できなかったので、来世において仁徳天皇、履中天皇として即位するだろうという「予言」の部分なのです。
わかりやすく歴史を構築して説明したいがために「予言書」日本書紀の解説をしなくてはならない辛さはあるのですが、それでも日本人は仏教の素養があるのでまだましかなとも思います。とりあえずここは弟橘姫の説明からそれるので「予言書」日本書紀についてはまた後で解説しますが、磐之姫というのも弟橘姫が皇后になれなかったので来世になるであろう皇后としての記述ということになります。

葛城氏

弟橘姫の説明に戻ります。当時も皇后、側室という概念は存在し、正妃をウチミヤ、側室をスケと呼んでいたようです。弟橘姫はスケにあたります。息子は王になれなくとも有力氏族として王権を支えます。平群氏もそうですが、葛城氏というのも弟橘姫の子孫と考えています。4世紀後半から頻繁に名前が登場する葛城襲津彦は弟橘姫の息子であり、葛城氏の祖となります。平群氏、葛城氏という氏族が5世紀前半ころ隆盛します。そのきっかけとなったのが347年の「かご坂王忍熊王の反乱」と考えます。おそらくこの乱が原因で弟橘姫はなくなったと思われます。死後奈良山に埋葬されたとありますが、五社神古墳ではないかと思います。

ここまで弟橘姫について見てきました。表向き死んでいるため日陰の道を歩むこととなりましたが、息子たちは有力氏族として力を付けます。特に平群木菟宿禰はヤマトタケルの長男であり、ヤマトタケルがあまりに長寿だったため親より先に死んでしまいますが実質王権のナンバー2といった立ち位置だったでしょう。両道入姫、弟橘姫とみてきたので次は4世紀の内乱である「かご坂王忍熊王の反乱」から5世紀初頭の王位継承を探りたいと思います。また「予言書」日本書紀についても順次解説していきます。

両道入姫

ヤマト王権の主流

綺戸辺

両道入姫の母は綺戸辺です。垂仁紀34年に記述があります。ホツマツタエでもアスス暦722年の出来事としてより詳細な記述があります。298年のことです。この時代において天皇の妃の記述としては扱いが大きく、かなり重要な女性だと思います。綺戸辺は垂仁天皇の妃となったとあるのですが、実際は宇治天皇の妃になったのだと思われます。298年の段階で垂仁天皇はすでに死亡しています。記述にある亀を突いて岩になった伝承があるのは宇治。記紀には出てこない謎の天皇、宇治天皇に綺戸辺は嫁ぎ、両道入姫をもうけました。また男子も生んでおり、磐衝別命と言って両道入姫の兄にあたります。

宇治天皇

宇治天皇とは誰なのか、ということになりますが、これは仁徳紀における菟道稚郎子であり、さらにヤマトタケルの実の父であるオオウスのことでもあります。オオウスは景行天皇とともにヤマトを制圧し、その後美濃へ行ったとされています。美濃と宇治は少し距離がありますが、宇治で綺戸辺を妃としたようです。菟道稚郎子は仁徳天皇の異母弟で、皇位を譲り合い自殺したとされる人物ですが、遺言で八田皇女を後宮に入れてくれと頼みます。仁徳天皇と八田皇女は異母兄妹です。また、ヤマトタケルと両道入姫も母は違えど同じオオウスの子で異母兄妹にあたります。つまり両道入姫が八田皇女ということです。ただ綺戸辺は298年に妃となり、兄を産んでから両道入姫を産んでいるわけで、313年の時点ではまだ10歳前後かと思われます。両道入姫の子仲哀天皇が生まれたのは321年ですので20歳前後、ここでは妃として十分理解できる年齢となります。

両道入姫の長男、稲依別王

また両道入姫は仲哀天皇の前に稲依別王を産んでいます。犬上君と武部君の先祖とあります。この犬上君というのは347年の「かご坂王忍熊王の反乱」で登場します。倉見別という人物で犬上君の祖とあります。稲依別王と関連がある、もしくは同一人物であると思います。かご坂王忍熊王の反乱はのちの権力争いに大きな影響をあたえるので、後で詳しく見ていきます。

磐衝別命と継体天皇

また先ほど紹介した両道入姫の兄、磐衝別命も重要です。彼自身は目立った事績はないのですが、越国で勢力を築きました。石川県羽咋市の羽咋神社で祭神として祀られているように、当地で王として生涯を送ったと思われます。重要なのは磐衝別命の子孫が継体天皇ということです。6世紀初頭、王統が途絶えそうになり継体天皇を探し出して王位につけた、というのは有名です。あまりに遠い血筋ですのでこの時期に王朝交代がなされたのではとの説もあります。しかし上記のように、磐衝別命はオオウスの子で両道入姫の兄にあたります。ヤマトタケル、応神天皇というヤマト王朝最盛期の王の血筋となります。王朝交代どころか、むしろヤマト王権の威光を血統に求めた、王朝再興の目的だったことがわかります。

古市古墳群との関係

両道入姫はヤマトタケルや弟橘姫と違って「死んだこと」になっていなかったため、正規の皇后として立てられ、そして息子の仲哀天皇は皇位につくことができました。さらに応神天皇と系譜は続きます。応神天皇陵は日本で2番目の規模の古墳ですが、古市古墳群に属しています。これは断言はできないのですが、古市古墳群の各埋葬者は両道入姫から続く氏族ではないかと考えています。しかし古墳の埋葬者を断定することはもう不可能な部分も多いので、その可能性があるという程度で、両者を強く結びつける必要もないかと思います。

以上が両道入姫の概要となります。出自もよく保守的な勢力からの応援も効く、ヤマト王権の正統のような感じです。しかし347年のかご坂王忍熊王の反乱以降状況が悪くなっていったように思われます。それは後に説明するとして、次は弟橘姫について見ていこうと思います。

ヤマトタケルと二人の妃

5世紀における権力争いの構図

5世紀を語るのに、そのだいぶ前の人物であるヤマトタケルの妃たちについて言及することにも理由があります。4世紀半ばまではまだヤマト王権は基礎が固まっていませんでした。反乱や王位簒奪などの危険がありました。しかし4世紀も後半になるとその脅威は薄れ、ヤマト王権は朝鮮半島へと勢力拡大をもくろみます。国内にはすでにヤマト王権に対抗できる勢力はありませんでした。唯一吉備王国は大勢力を誇っていましたが、ヤマト王権との関係は良好でした。

399年ヤマトタケルが死亡します。401年には応神天皇も死亡します。ただヤマトタケルの死去は当初隠された、とも思える節もあります。仁徳天皇陵築造時期や武内宿禰の伝承などからそう推測します。しかしいつまでも死を隠し通すことはできません。では次の王は誰にするか、王位をめぐる権力争いが発生します。5世紀はヤマトタケルの子孫達が激しい権力争いを行った時代です。

両道入姫と弟橘姫

ヤマトタケルには複数の妃がいますが、後の王権に影響を与えた女性は二人に絞られます。両道入姫弟橘姫です。景行紀の51年に記述があります。ヤマトタケルと同一人物である仁徳天皇はというと、まず皇后である磐之媛と、磐之媛の死後皇后となった八田皇女です。磐之媛は弟橘姫のことであり、八田皇女は両道入姫となります。

弟橘姫はヤマトタケルの東征の時に死んだのでは、と思うはずです。しかしどうも生きて近畿に戻っていた、というのが真相のようです。弟橘姫の死を悲しんで「吾妻はや」と嘆いたので吾妻という地名になったとか、弟橘姫の死を受け入れられず立ち去れなかったから木更津の地名になったとか、それらは1700年たった今でも言い伝えられています。実は生きていたのか、と思うと少し興ざめですが、一度死んだことにした手前生きていたことにはできなかった事情があったのだと思います。これは死んで白鳥になったヤマトタケルについても同じです。ヤマトタケルと弟橘姫は「死んだ」ことになっているため、その後の歴史にも顔を出すことができませんでした。しかしその子らは当然王権の有力氏族となります。

まずはこの二人の女性についてみていきますが、人物の名前が錯綜するので混乱するかと思います。ですのでまずは仁徳天皇、磐之媛、八田皇女は架空の人物だと考えておいてください。それが日本書紀の正しい読み方です。実体はヤマトタケル、弟橘姫、両道入姫で、史実を追う時にヤマトタケルと弟橘姫は死んだことになっていて表舞台に出ることはできない、という前提が重要になります。つづく

5世紀の日本を理解するにあたって

日本の歴史はなぜ解りづらいのか

最近また歴史の研究を再開したので、記録として書いてみようと思います。今回は4世紀に続いて5世紀の倭国(ヤマト王権)を調べてみました。

最近吉野ケ里遺跡で石棺が見つかり、卑弥呼の墓ではないかとにぎわっていました。邪馬台国(ヤマタイではなくてヤマト)は九州なのか近畿なのか、といった論争は終わりが見えないですが、私は近畿、纏向遺跡だと確信しています。卑弥呼は倭迹迹日百襲姫のことです。ただ倭迹迹日百襲姫についても一つ疑問があって、ホツマツタエではトト姫とモモソ姫は別の人物となっていることです。倭迹迹日百襲姫というのは二人の人物を重ね合わせた存在なのか、これはより深く調べなければわかりません。
卑弥呼というのは倭国大乱後、紛争を収めるため立てられ、国内外から女王と認識されていたことは確かだと思われます。これは複数の人物が引き継いできた地位かもしれません。私個人としては倭迹迹日百襲姫という一人の女性が君臨していたと考えています。

日本書紀の問題

弥生時代から古墳時代にかけての歴史は本当に分かりにくいです。その問題の根本は日本書紀にあります。普通に読んでは理解ができず、ただそれぞれの天皇の事績を個別に追うくらいしかできません。年代を確定するのにも苦労します。今回雄略紀を調べていて、百済の武寧王の生年を起点とし、そこから各天皇の在位期間を西暦で割り出すという、たぶん多くの人が試みている方法で年代を探ろうとしましたが、この方法では中国の史書における倭の五王との対比がまったくうまくいきません。これは武寧王が生まれたという記録を雄略紀のある年(雄略5年)に書くことで、わざと年代を確定できなくしているのではないかと思います。この手法は神功皇后紀にも見ることができ、神功皇后39年に故意に魏志倭人伝の記述をのせ、あたかも神功皇后を卑弥呼と錯覚させるように仕向けています。このように、朝鮮や中国の歴史と比較する形で日本史を認識させたくない理由がなにかあるのだろうと思います。

日本書紀編纂の時代背景

日本書紀が成立した720年頃は中国は唐、朝鮮は統一新羅の時代です。少しさかのぼれば663年、白村江の戦いで倭国(ヤマト)は敗北し、対外的に慎重にならざるを得ない時期に日本書紀は編纂されました。特に新羅に対し、何か口実を与えるような記述は避けたかったというのが、このわかりにくい歴史書が生まれた理由でしょう。

日本書紀の試み

そしてそれとは別に、この複雑で倒錯しているかのような歴史の記述のなかに、日本書紀の壮大な試みがあると私は感じています。5世紀の日本を見ていくにあたり、いくつかの例をあげながらそれを説明したいと思います。これは私独自の占いによる歴史観となります。できることならこのような手法で説明はしたくないのですが、日本書紀を用いて歴史を解説するにあたって、歴史の流れと日本書紀の記述とのギャップを埋める何らかの説明がなければ、私の仮説がどうしてもただの空想と受け取られかねないからです。私はこの占いの手法を使い、空白の4世紀を再構築することに成功しました。簡素ながら年表を作成し、朝鮮史との比較が可能になり、考古学的な矛盾も解消できるようになったのではと思っています。しかしやはり成務天皇が仁徳天皇でもありヤマトタケルである、というのは、ただ言葉だけで納得してもらえるとは思っていません。そう考えるに至った私の思考をなぞる形で説明し、少しでも考え方を共有できればと思っています。

不明確な5世紀の日本

5世紀の日本史は倭の五王の記述が存在するため、4世紀よりは少し道しるべが見えるように感じます。しかし5世紀を探っていくと複雑さに気がめいります。自然な流れで歴史を把握しようと仮説を立て、痕跡を探り、一つの流れをつかめたと思うと、それは日本書紀の通史と全く食い違います。この食い違いは4世紀にも見ることはできますが、うまく説明できる自信がなく触れないでいました。今回5世紀を解説するにあたり、複雑に入れ違う天皇の在位をただ書き記しても、到底納得できないだろうと悩みました。それを説明するにはなぜ日本書紀はそのように編纂されたのか、だれの意思でどのような動機なのか、それを私のわかる範囲で伝える必要があると思いました。

こう書いてしまうと私の中ではある程度筋書きが見えるのですが、それを書くのには少し時間がかかるなと思います。整理しながら無理なく書いていこうかと思います。つづく