占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

両道入姫

ヤマト王権の主流

綺戸辺

両道入姫の母は綺戸辺です。垂仁紀34年に記述があります。ホツマツタエでもアスス暦722年の出来事としてより詳細な記述があります。298年のことです。この時代において天皇の妃の記述としては扱いが大きく、かなり重要な女性だと思います。綺戸辺は垂仁天皇の妃となったとあるのですが、実際は宇治天皇の妃になったのだと思われます。298年の段階で垂仁天皇はすでに死亡しています。記述にある亀を突いて岩になった伝承があるのは宇治。記紀には出てこない謎の天皇、宇治天皇に綺戸辺は嫁ぎ、両道入姫をもうけました。また男子も生んでおり、磐衝別命と言って両道入姫の兄にあたります。

宇治天皇

宇治天皇とは誰なのか、ということになりますが、これは仁徳紀における菟道稚郎子であり、さらにヤマトタケルの実の父であるオオウスのことでもあります。オオウスは景行天皇とともにヤマトを制圧し、その後美濃へ行ったとされています。美濃と宇治は少し距離がありますが、宇治で綺戸辺を妃としたようです。菟道稚郎子は仁徳天皇の異母弟で、皇位を譲り合い自殺したとされる人物ですが、遺言で八田皇女を後宮に入れてくれと頼みます。仁徳天皇と八田皇女は異母兄妹です。また、ヤマトタケルと両道入姫も母は違えど同じオオウスの子で異母兄妹にあたります。つまり両道入姫が八田皇女ということです。ただ綺戸辺は298年に妃となり、兄を産んでから両道入姫を産んでいるわけで、313年の時点ではまだ10歳前後かと思われます。両道入姫の子仲哀天皇が生まれたのは321年ですので20歳前後、ここでは妃として十分理解できる年齢となります。

両道入姫の長男、稲依別王

また両道入姫は仲哀天皇の前に稲依別王を産んでいます。犬上君と武部君の先祖とあります。この犬上君というのは347年の「かご坂王忍熊王の反乱」で登場します。倉見別という人物で犬上君の祖とあります。稲依別王と関連がある、もしくは同一人物であると思います。かご坂王忍熊王の反乱はのちの権力争いに大きな影響をあたえるので、後で詳しく見ていきます。

磐衝別命と継体天皇

また先ほど紹介した両道入姫の兄、磐衝別命も重要です。彼自身は目立った事績はないのですが、越国で勢力を築きました。石川県羽咋市の羽咋神社で祭神として祀られているように、当地で王として生涯を送ったと思われます。重要なのは磐衝別命の子孫が継体天皇ということです。6世紀初頭、王統が途絶えそうになり継体天皇を探し出して王位につけた、というのは有名です。あまりに遠い血筋ですのでこの時期に王朝交代がなされたのではとの説もあります。しかし上記のように、磐衝別命はオオウスの子で両道入姫の兄にあたります。ヤマトタケル、応神天皇というヤマト王朝最盛期の王の血筋となります。王朝交代どころか、むしろヤマト王権の威光を血統に求めた、王朝再興の目的だったことがわかります。

古市古墳群との関係

両道入姫はヤマトタケルや弟橘姫と違って「死んだこと」になっていなかったため、正規の皇后として立てられ、そして息子の仲哀天皇は皇位につくことができました。さらに応神天皇と系譜は続きます。応神天皇陵は日本で2番目の規模の古墳ですが、古市古墳群に属しています。これは断言はできないのですが、古市古墳群の各埋葬者は両道入姫から続く氏族ではないかと考えています。しかし古墳の埋葬者を断定することはもう不可能な部分も多いので、その可能性があるという程度で、両者を強く結びつける必要もないかと思います。

以上が両道入姫の概要となります。出自もよく保守的な勢力からの応援も効く、ヤマト王権の正統のような感じです。しかし347年のかご坂王忍熊王の反乱以降状況が悪くなっていったように思われます。それは後に説明するとして、次は弟橘姫について見ていこうと思います。

ヤマトタケルと二人の妃

5世紀における権力争いの構図

5世紀を語るのに、そのだいぶ前の人物であるヤマトタケルの妃たちについて言及することにも理由があります。4世紀半ばまではまだヤマト王権は基礎が固まっていませんでした。反乱や王位簒奪などの危険がありました。しかし4世紀も後半になるとその脅威は薄れ、ヤマト王権は朝鮮半島へと勢力拡大をもくろみます。国内にはすでにヤマト王権に対抗できる勢力はありませんでした。唯一吉備王国は大勢力を誇っていましたが、ヤマト王権との関係は良好でした。

399年ヤマトタケルが死亡します。401年には応神天皇も死亡します。ただヤマトタケルの死去は当初隠された、とも思える節もあります。仁徳天皇陵築造時期や武内宿禰の伝承などからそう推測します。しかしいつまでも死を隠し通すことはできません。では次の王は誰にするか、王位をめぐる権力争いが発生します。5世紀はヤマトタケルの子孫達が激しい権力争いを行った時代です。

両道入姫と弟橘姫

ヤマトタケルには複数の妃がいますが、後の王権に影響を与えた女性は二人に絞られます。両道入姫弟橘姫です。景行紀の51年に記述があります。ヤマトタケルと同一人物である仁徳天皇はというと、まず皇后である磐之媛と、磐之媛の死後皇后となった八田皇女です。磐之媛は弟橘姫のことであり、八田皇女は両道入姫となります。

弟橘姫はヤマトタケルの東征の時に死んだのでは、と思うはずです。しかしどうも生きて近畿に戻っていた、というのが真相のようです。弟橘姫の死を悲しんで「吾妻はや」と嘆いたので吾妻という地名になったとか、弟橘姫の死を受け入れられず立ち去れなかったから木更津の地名になったとか、それらは1700年たった今でも言い伝えられています。実は生きていたのか、と思うと少し興ざめですが、一度死んだことにした手前生きていたことにはできなかった事情があったのだと思います。これは死んで白鳥になったヤマトタケルについても同じです。ヤマトタケルと弟橘姫は「死んだ」ことになっているため、その後の歴史にも顔を出すことができませんでした。しかしその子らは当然王権の有力氏族となります。

まずはこの二人の女性についてみていきますが、人物の名前が錯綜するので混乱するかと思います。ですのでまずは仁徳天皇、磐之媛、八田皇女は架空の人物だと考えておいてください。それが日本書紀の正しい読み方です。実体はヤマトタケル、弟橘姫、両道入姫で、史実を追う時にヤマトタケルと弟橘姫は死んだことになっていて表舞台に出ることはできない、という前提が重要になります。つづく

空白の4世紀

仁徳天皇陵

日本書紀と歴史

日本史には空白の4世紀と言われる謎の時代があります。大きな日本史の流れとしては250年ころ弥生時代から古墳時代へと移行するのですが、その古墳時代の前期にあたる270年~400年ほどの歴史が文字資料に残っておらず空白になっているのです。この空白を埋めようと多くの歴史家が様々な仮説を立てていますがどれも決定的とは言えない状況のようです。

しかし実は単純に日本の歴史書「日本書紀」を読み解くことで空白の4世紀が見えてくるのです。これは奈良時代、日本書紀の編纂時に意図的に封印し、後世正しい視点で読み解けば自ずから浮かび上がるように仕組まれたものでした。これは相当に高度な技巧を要するものであり、当時の日本の文化レベルが極めて高水準だったことを物語っています。この技巧は儒教で言う「中庸」の観点を文章に埋め込み歴史を表現するという、極めて高い精神性が要求される手法と言えます。

歴史というものは勝者によって描かれる、というのは否定できない事実です。奈良時代に現存していた各種の文献もそれぞれの立場によって描かれ、どれが真実の歴史なのか判別に困っていたのだと思います。しかし見方を変えれば勝者によって描かれた歴史自体がありのままに歴史を表現しているとも言えます。やはり自分に都合の悪いところは書きたくないとか、敵方の悪いところは誇張するとかというのは自然であり、その描き様から当時の時代背景や為政者の気持ちを読み解くことができるわけです。奈良時代というのは一旦日本の歴史が元に帰り、まっさらな状態で時代を見つめることができた貴重な時期だったのだと思います。その時にどう歴史を残すのか、日本人の知恵と文化が結集され、世界に歴史書のあり方を問うた渾身の書が日本書紀と言えるでしょう。

ヤマトタケルについて

では実際に空白の4世紀を明らかにしたいのですが、避けて通れないのがヤマトタケルです。ヤマトタケルは景行天皇の皇子であり、熊襲征伐と東征を行い大和王権の拡大に寄与した人物です。生きた時代については記紀の年代をそのまま取れば紀元100年ころの人物になります。しかし実際は293年に生まれています。そして310年に東征からの帰還中死亡したとされています。これだけ見ると天皇の皇子として2度の戦争を指揮し、皇位に付く前に病に倒れてしまった人物のようです。それにしては日本各地に伝説が残り、その名前や逸話を知らない日本人はいないほど有名であり、さらに武神として各地に祀られ信仰の対象にもなっています。なぜここまで過大に持ち上げられるのか、そこを説明しなくてはなりません。

  • まずヤマトタケルは310年で死んではいません。景行天皇の次の天皇は成務天皇ですが、ヤマトタケルは東征後景行天皇を殺し自ら成務天皇となりました。ここが日本史の大事件であり、その隠蔽はヤマトタケル自身が行ったものだと考えられます。
  • 次にヤマトタケルの生きた時代です。293年に生まれ、死亡したのは399年、実に数え107歳まで生きたたいへん長寿の人物です。古代で長寿と言えば武内宿禰が思い出されますが、武内宿禰はヤマトタケルのことであり長寿という部分は史書にも残っているわけです。成務天皇の享年は107歳です。古代の異常に長い歴代天皇の年齢のなかに埋没され見過ごしてしまいますが、その中に一人だけ本当の年齢の人物がいた事になります。
  • そしてヤマトタケルは仁徳天皇でもあります。仁徳天皇と言えば日本最大の古墳、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を思い出しますが、まさにあの古墳がヤマトタケルの陵墓です。成務天皇と仁徳天皇が同一人物とか意味がわからない、と思うかもしれませんが、天皇の事績として仁徳天皇紀に書かれた出来事はヤマトタケルが天皇だった頃の史実ということです。これは後に解説していきます。
  • さらに武烈天皇もヤマトタケルです。暴虐で何一つ良いことをしなかったという武烈天皇の記述も、実は若き頃のヤマトタケルの事績なのです。武烈天皇は18歳で死んでいますが、18歳と言えばヤマトタケルの死んだ年齢でもあります。このように巧妙にヤマトタケルを隠蔽しながら、その史実はきちんと日本書紀に残されているのです。

空白の4世紀を知る上で、このヤマトタケルの事実を語らないことはできません。というよりも、日本史における空白の4世紀それ自体が、ヤマトタケルが王として君臨した時代そのものと言えるのです。このことを踏まえたうえで、今一度古墳時代初期からの歴史を見ていきたいと思います。

景行天皇の治世

垂仁天皇と景行天皇でも触れたように、景行天皇は山口県を拠点とし、九州へと攻め入ります。私の推測では馬韓からの渡来人、もしくはその子孫だと考えています。九州での戦争では弥生人の国家を次々と滅ぼしており、それは景行紀の12年に詳しく描かれています。

290年九州を平定した景行天皇は大和へ向かいます。後にヤマトタケルは兄オオウスとともに生まれたことになっていますが、実はオオウスは景行天皇とともに九州から大和へ来たのだと思います。ヤマトタケルは武内宿禰でもあります。武内宿禰の父は武雄心命とされていますが、この人物がオオウスなのだと思われます。出生地は佐賀県武雄市です。景行天皇の軍勢は和歌山市付近に滞在します。そこで武雄心命は影媛と呼ばれる女性との間に子供をもうけます。しかし影媛は景行天皇の女性でもあったようで、293年に生まれた子ヤマトタケルは景行天皇の子供ということで育てられます。294年には武雄心命(オオウス)は美濃を任されます。

この頃の治世には倭姫の話埴輪の話などがあります。ともに垂仁天皇の治世のように見られますが、年代を計算すると景行天皇の時代になるのです。景行天皇は暴君のようなイメージがあります。一方で殉死の風習をなくし埴輪を作らせるなどの政策も行ったようです。しかしそれも垂仁天皇の事績にされるなど、当時としても良いイメージはなかったのかと思われます。

306年、景行27年に再び熊襲が叛いたとあります。先の戦争で九州から船で逃れた熊襲、隼人が上総国(千葉県)にいる事が判明し、それを討ちに景行天皇は自ら出征します。しかしここでは思うようにいかずに敗退し、その帰路美濃へ立ち寄ったのだと思われます。そこで美濃の武雄心命(オオウス)とヤマトタケルが似ているとわかり、景行天皇は二人が親子だと悟ります。しかし今更そのようなことは言えるはずもなく、彼は兄だということにしたのでしょう。周囲の人たちも薄々気づいていたのだと思います。

ヤマトタケルの東征

景行天皇とオオウスは仲が悪かったという記述があります。上記のような経緯もあり、さらにオオウスを恨んだのでしょう。しかし美濃では一定の勢力があり簡単に討てる相手でもありません。ですがその存在は目障りなため一計を案じます。つまり美濃の勢力で相模、上総などの東国を攻めさせようと考えたわけです。しかしオオウスもそれに素直に応じませんでした。なので景行天皇は息子のヤマトタケルを東征へ向かわせたのです。16歳のヤマトタケルはその辺りの事情がわかりません。兄の代わりに自分が行くのだと単純に考えたのかもしれません。また戦果を上げるチャンスと捉えたのかもしれません。そして308年冬10月、ヤマトタケルは東征へと出発しました。16歳で無謀な気もしますが、吉備武彦大伴武日の軍勢をつけてもらっているので軍としては備わっていたのでしょう。ただし景行天皇の思惑としては成果の期待はしていなかったでしょうし、むしろそのまま戻ってこなくてもよいとも思っていたのではないでしょうか。他人の息子を皇子としておくわけにも行きません。

ヤマトタケルの東征についてですが、大筋としては静岡県、神奈川県相模での戦闘を経て上総国へ。途中浦賀水道でオトタチバナ姫を失います。上総国でも戦争を行っており主な目的はここだったのかもしれません。その後茨城県の鹿島神宮へ。そこから北上し福島県の勿来に陣を張ります。東北の軍と対峙しますがお互い争いは避けたかったのか、多賀城で会談をしたと思われます。帰路はそこから南下して新治、筑波を経て再度相模へ。武蔵の国はこの時に作られたようです。その後長野、美濃をへて尾張へ。ここでしばらく滞在しました。途中吉備武彦を越へ向かわせており、尾張で合流するのを待ちます。

景行天皇を討つ

309年尾張へ到着するのですが、ここはオオウスの支配地域です。ここでヤマトタケルは兄オオウスが実父であると知ったのでしょう。苦難と葛藤の末、ヤマトタケルは近畿へ攻め入り景行天皇を討つことを決断します。まずは吉備武彦を帰国させヤマトタケルが三重県能褒野で死亡したと報告させます。叛意を悟らせず油断を誘うためでもありますが、生きて天皇でもある養父を討つという汚名を残したくなかったというのも理由の一つでしょう。近畿へ攻め入ったヤマトタケルは景行天皇を高穴穂宮へと追い詰め、ついに討ち取りました。310年のことです。

最近5世紀の日本を調べていたのですが、新たな発見などもあり現在過去の記事を精査中です。とりあえず年表を作成したのでそれを載せておきます。