占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

日本書紀の試み

天武・持統天皇陵
天武・持統天皇陵

「予言書」日本書紀とその解明

天武天皇

日本書紀は天武天皇によって編纂が開始され、およそ50年後の720年に完成した日本最古の正史です。日本書紀を編纂した一番の目的は、外国(中国、朝鮮他)に自国の歴史を知ってもらうためです。歴史書があることで国としての体裁も整います。
663年の白村江の戦い、672年の壬申の乱を経て天武天皇が即位します。まさに激動の時代を生きぬき、天下を取ったと言えるでしょう。その過程で幾度となく精神的にも追い込まれ、自省する時間も多かったと思います。そのような精神的な葛藤を経て、天武天皇は一定の境地に達したのでしょう。天武天皇は歴代天皇の中でも、頭一つ抜けた人物だったと日本人は認識しておくべきだと思います。

日本人の歴史観

日本書紀は歴史書としては書き方が独特で、転生や因果の法則などの仏教的な考え方を強く反映しています。これは天武天皇独自の歴史観というより、古来から続く日本人の歴史観だと思います。このような歴史の記述の仕方はすでに仏教伝来以前の書であるホツマツタエでも見ることができます。様々な歴史的な出来事の動機、因果から、転生後の関係を内包させて記述する、というのは日本古来からある歴史の記述法です。天武天皇は日本書紀を編纂する時どのように歴史を記述するか悩んだと思いますが、結局従来の書き方を踏襲したためにこのような複雑で読みにくい歴史書ができてしまいました。

独自性と普遍性

当時日本のみならず、東アジアにおいて教養と言えば中国の書に通じていることを指しました。その中でも儒学がもっとも尊ばれました。儒学には聖君、暴君といった考え方があり、人間の本性は本来善とする性善説に立ち、儒学を学ぶ者はその性質を伸ばして君主を補佐し、君主は慈愛の心で民に接し、天下太平の世を築くという統治のあり方が王道でした。
例えば「仁徳天皇」などという名前は儒教的な考え方では最上級の君主に冠される称号といえます。民の竈の話など、仁徳天皇が聖君であったにふさわしい逸話です。しかし私は仁徳天皇を架空の天皇と説明しました。実際民の竈の話などはなく、その逆のことが行われていたのでしょう。国民の衣食住などは省みず重税を課し、まずは王宮の建築を優先した、というのが史実だと考えるわけです。つまり聖君、暴君は長い歴史で見れば表裏一体のこと、というのが日本的な歴史観と言えます。ヤマトタケルは転生して聖君になるだろうから架空の仁徳天皇として記述し、その事績も予想しておこう、というのが仁徳紀で、正反対のことが史実なのかもと考えながら読む必要があります。このような書き方から日本書紀は「予言書」としての側面を持つこととなります。

こう考えると善政のための努力や悪政に至る怠慢なども長い時間軸では同じ評価となってしまいます。一見暴論にも見えますが、これは先ほど示した東アジアの常識である儒教的な統治論との違いを明確に感じます。中国という大国、当時は唐ですが、軍事力や文化の厚さなどすべてで上回る国に対し、それに飲み込まれることなく、自らの歴史観を示そうとした気概を感じます。
そしてこの歴史観は、国や時代を問わない普遍的な法則に基づいている、と主張しています。いずれ他の国々もこの世界の大きな仕組みに気が付く時が来るとして、日本人は既にその法則を理解し、正史「日本書紀」という形で公開しているというのが精神的な優位性を持つとの考えです。

誤解しないでほしい部分としては、大悪天皇なので来世は聖君になるであろう、というのは間違いないのですが、聖君に至るまでの過程をも否定するものではないという点です。一つ一つの政策や裁判において公平公正でなければ善政とは言えませんが、それの土台となる法整備や人材育成が無意味だと考えているわけではありません。日本書紀の編纂と同時進行で大宝律令は作成されましたし、遣唐使はその後も200年近く続けられました。儒学や仏教、そして中国の歴史と政治からはまだまだ学ぶことは多いと考えていたわけです。
そういった日々の積み重ねにより基礎を固め、いずれヤマトタケルは仁徳天皇として転生し聖君となるであろう、というのが日本書紀の隠された意図と言えるでしょう。

その後の日本書紀

日本書紀の完成から1300年が経過していますが、いまだ仁徳天皇はあらわれていないように感じます。実際は既に歴史の舞台に登場しているのかもしれませんが、日本人がそれを仁徳天皇と認識し、天武天皇の意図を理解したという話は聞いたことがありません。そういった意味で日本書紀の試みはあまりうまくいっているとは言えないと思います。本来は多くの日本人がこの意図に気が付き、このような先見性のある歴史書を持つことを誇りに感じてくれるだろうと期待していたと思います。これは奈良時代と現代では世界の認識が大きく変化したのも原因だと思います。当時の人間には現代のような科学技術の発展や開かれた国際性など想像もできないと思います。そんな中で画期的な歴史書である日本書紀もありふれた古文書の一つとみなされるようになってしまいました。

日本書紀解明の経緯

2015年の冬、私は車中泊などをしながら西日本を旅行しました。元来歴史については興味があり、史跡巡りのような感じでいろいろ立ち寄りました。伊勢神宮、京都、神戸、淡路島、岡山、出雲大社、大宰府跡、気比神宮など2週間ほどかけて巡りました。そんな中で戦国時代、本能寺の変や関ヶ原の戦いなどを深く考える機会があり、そこでこの日本書紀の秘密を解明することに成功しました。天武天皇の意図を汲み取ることができたわけです。そして家にあった日本書紀を丁寧に読み進めることで、空白の4世紀の全容をつかむことができました。次はその経緯を解説していこうと思います。つづく

5世紀後半について

雄略天皇とヤマト王権の陰り

雄略天皇

雄略天皇の即位は宋への上表文から478年と考えています。通常より20年ほど繰り下がり、なので雄略紀の記述がもしかすると允恭天皇の時代にあたるのでは、と思われる個所もあり流れをつかむことができないでいます。上表文の内容はしっかりしたもので、優秀な臣下が補佐していたのでしょう。これは人材を育成した允恭天皇の功績とも言えます。内政では絹や酒、土師器の生産などに力を入れていたようで、治世を経て生活の質は向上したと見受けられます。一方「大悪天皇」と言われているように、むやみに人を殺す性格であったことも伝わっています。

外交面では新羅との関係が悪化し、一方で百済を後押しして高句麗を強く意識しています。国内では長い間友好関係だった吉備国との関係も悪化しています。力強さは脆さにもつながり、雄略の死後は大きく混乱した様子です。清寧、顕宗、仁賢、武烈、継体と続きますが、顕宗、仁賢は5世紀前半に在位、武烈は架空の天皇ということで、実際には雄略天皇の死後清寧天皇が即位し、間は挟まず継体天皇を見つけ出す、という流れだと思います。

武烈天皇

武烈天皇空白の4世紀の説明でも触れましたが、おおむねヤマトタケルのことだと思います。時期を置いて再度武烈紀を読んでみてもそう感じます。武烈紀には平群真鳥と鮪の親子が出てきますが、武烈天皇とこの二人の関係は景行天皇とオオウス、そしてヤマトタケルの関係をなぞっているように読み取れます。景行天皇が妃にしようとした影媛は既にオオウスが関係をもっており、その子であるヤマトタケルが二人を殺した、という4世紀初頭の出来事です。

王朝の興亡とカルマ
王朝の興亡とカルマの解消

ある王朝があったとき、その勃興時と滅亡時に似たような出来事が起きる、というのは私もなんとなく感じています。これは占いの分野で、勃興時の大きなカルマを解消するために滅亡時に役割を変えて似たような出来事が起きる、という関係です。この武烈天皇の記述にはそういった考え方が反映されていると感じます。実際には6世紀初頭に武烈紀に書いてあるような出来事はなかったでしょう。ヤマト王朝もここで滅亡したわけではありません。しかしこの時期はヤマト王朝における節目の時期であることは間違いありません。日本書紀の編纂者はこの武烈紀をもって、仁徳、履中と展開していったいった架空の歴史、予言の部分を収束させようとしたのでしょう。なので意図的に非現実的な作り話のように武烈紀は記述されています。しかしこれらの出来事はヤマト王朝の初期に、似たような形で実際にあったことだと推測できます。

清寧天皇

清寧天皇は雄略天皇の次の天皇とされています。それは正しいと思うのですが、日本書紀には目立った事績はなく、仁賢天皇と顕宗天皇兄弟を見つけ出した経緯が記されています。仁賢天皇と顕宗天皇については倭の五王などで詳しく見ましたが、時代としては5世紀前半です。なので清寧天皇との関連はないと思うのですが、「隠れた皇族を見つけ出し王に据えた」という部分は史実なのではないかと思います。つまり6世紀前半、王統が途絶えそうになり継体天皇を探し出した、という出来事に清寧天皇が関与しているのではないのかと考えています。

まとめ

以上5世紀後半について見てきました。本来は個々の事績を年表のように流れで説明したかったのですが、力不足でそこまではできませんでした。今後時間をかけて精査していきたいと思います。流れにこだわらなければ允恭紀、安康紀、雄略紀を読めば何が起きていたのかは知ることができるでしょう。今回は5世紀の概略として、倭の五王と天皇の対比をわかりやすく伝えるという目的は果たせたので、これは十分な成果だと私は感じています。

次は日本書紀の試みについて書いていこうと思いますが、占いや予言など信じないという方は特に読まなくても問題ないです。ですが今まで4世紀、5世紀と見てきて、この日本書紀の記述の仕方は何なのか、当然疑問に感じると思います。当時は資料が少なかったため仕方なかったとか、歴史を記述する能力が極端に低かったとか、そもそも文献を字面通りに読むのが本来は正しいとか、いろいろな解釈が可能かと思います。今回は履中天皇について、本来即位する時間的余地がないのに天皇であるとする矛盾を、予言の部分ということで少し説明しました。また武烈天皇については、カルマの解消のため王朝交代時に似たような出来事が起こると説明しました。次はこういった部分も含めつつ、より大きな観点から日本書紀の謎を探りたいと思います。

允恭天皇

隠された出自

允恭天皇の即位について見ていきたいと思います。出自を見ていくことで即位時の様子もわかってきます。父が仁徳天皇、母が磐之姫となっていますが、これは双方違うでしょう。ですが普通に日本書紀を読んでいてはほかに手がかりもなく、年代的な矛盾に目を瞑り仁徳天皇の子と受け入れざるを得ません。私は仁賢天皇と顕宗天皇を5世紀前半に在位していたと考え、履中紀、安康紀、雄略紀なども横断的に見ながら一つの説に行き着いたので、少し解説していきたいと思います。

大草香皇子

允恭天皇の即位時、天皇の候補がもう一人いました。それが大草香皇子です。こちらも父は仁徳天皇とされており、母は日向髪長姫となっています。しかしまずこの大草香皇子も仁徳天皇の子ではないはずです。日向髪長姫が登場するのは応神紀13年、私の計算だと387年にあたり、少しずれたとしても390年前後のことだと思います。美人と名高い髪長姫を日向から召し、皇子(仁徳天皇)に娶らせたとあります。この皇子は仁徳天皇ではなく、応神天皇の実在の皇子のいずれか、額田大中彦皇子もしくは大山守皇子かと思いますが、断定できません。そしてその間に二人の子が生まれるのですが、それが大草香皇子、もう一人が草香幡梭姫皇女となります。応神天皇から見てにあたります。

眉輪王

成人した大草香皇子は中蒂姫を妃とし、二人の間に眉輪王をもうけます。これは430年頃の話だと考えられます。ここで時代は大きく飛ぶのですが、安康元年(475年)では大草香皇子は殺され、中蒂姫は天皇(安康天皇)の妃となります。連れ子の眉輪王は父の仇討ちで天皇を殺した、とあります。この仇討ちの結果、葛城氏の衰退が決定的になります。しかし葛城氏の衰退はもっと早く440年頃、大草香皇子も5世紀前半の人物。そこで時代のおかしい安康天皇の部分を顕宗天皇に変えて読めばすべてつながります。

つまりどういうことかというと、435年頃、顕宗天皇(倭王珍)は兄仁賢天皇(倭王讃)の後を継ぎ天皇となります。そして自分を脅かす存在である大草香皇子を殺します。大草香皇子には既に中蒂姫という妃がいて、その間にはまだ幼い眉輪王という子もいます。当時は夫を殺された妻や子を自分のものとするような風習があったようです。顕宗天皇は中蒂姫を妃とし、眉輪王も自分の子とします。眉輪王は父を殺された恨みを抱いており、顕宗天皇を殺してしまいました。これが442年の政変で葛城氏の衰退は決定的となります。そして眉輪王こそ允恭天皇(倭王済)の正体ということになります。応神天皇からみて直系のひ孫にあたります。

ちなみに大草香皇子の妹(姉?)の草香幡梭姫皇女は仁賢天皇の妃になったのだと思います。

ヤマト王権正統系譜
ヤマト王権正統の系譜

即位時の年齢

こう考えると443年の即位時、允恭天皇はまだ子供のはずです。允恭天皇が幼くして即位したと思われる記述がいくつか見られます。まずは名前、雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさつまわくごのすくねのすめらみこと)ですが、「稚子」は子供のことです。次に即位時の記述で、「天皇の御印を奉った」とあり、自力での皇位継承ではなかったと推測される点。さらに允恭天皇の崩御時の記述、「年は若干であった」とあり何のことかと思いますが、これは即位時に「年は若干であった」という意味で、崩御時に書くことで類推させようとしていると考えることができます。

となると、允恭天皇を補佐した勢力があるはずです。倭直吾子籠という人物がいて、たびたび名前が出てくるのですが、この人物が眉輪王の後見人として442年の争乱を主導したのではないかと考えています。倭直吾子籠は石上神宮を中心とした狭義のヤマトの長で、朝鮮半島(安羅?)へ派遣されていた経験もあり半島情勢にも詳しい人物だったと思います。

まとめ

ということで允恭天皇の出自と即位について見てきました。磐之姫の子というのは年代的にありえないにせよ、履中天皇(平群氏)の系列となると不自然になるので悩みました。上記のように考えるとすっきりし、大草香皇子という謎の皇族の立ち位置もはっきりします。允恭天皇は眉輪王のことで、応神天皇の直系であり大草香皇子の子、両道入姫から続くヤマト王権の正統ということがわかりました。つづく