占い、歴史、宗教などの研究をしています。空白の4世紀や倭の五王など、日本史の謎を解明しています。

5世紀前半と葛城氏

仁賢天皇(倭王讃)と顕宗天皇(倭王珍)

根日女物語

玉丘古墳群
玉丘古墳群

仁賢、顕宗天皇は5世紀前半に在位していており、在位順も兄仁賢天皇が先で、さらにその前には飯豊天皇も在位していた、と前回の倭の五王で述べました。仁賢、顕宗天皇は播磨国で身を隠していましたが、播磨風土記には二人が登場する「根日女物語」という話があります。当地にいた根日女という女性を二人は好きになりますが、兄弟譲り合いどちらとも結ばれずにいました。二人は皇子として都へ上ることとなって離れ離れになり、失意の根日女は当地でなくなりました。根日女をしのんで築いた陵墓が玉丘古墳、という話です。この古墳の築造時期は5世紀前半であることがわかっています。このような地方の伝承は被葬者が混同される可能性は少なく、両天皇が5世紀末の人物だと時代が合わなくなります。5世紀前半に二人が青年だったと考えれば整合性がとれます。

年代の整合性

そもそも履中天皇がいつの時代に生きた人物か、というところが大きな問題になります。一般的には5世紀に活躍した人物と認識されており、履中天皇陵との辻褄があわなくなります。私はヤマトタケルと弟橘姫の間に生まれた長男で、生年は310年頃と考えています。70年ほど生きて380年頃死亡、そして履中天皇陵が作られます。これは築造時期が一致します。

とすればその子である市辺押磐皇子は330年頃の生まれだと考えられます。少し後ろにずれるかもしれません。347年に殺されたとすればまだ少年で、子はいないと考えるのが普通です。なので仁賢、顕宗天皇や飯豊青皇女が市辺押磐皇子の子、ということはまずありえません。

妹の青海皇女はいてもおかしくはありません。丹波へ逃げたのは彼女でしょう。仁賢、顕宗天皇はその子ではという推測もできますが、となると上の根日女物語では二人はおじさんになってしまいます。間にもう一世代あれば年齢的な不自然さはなくなります。なので飯豊青皇女(飯豊天皇)をはさみ、その子が仁賢、顕宗天皇であればその後の事績などもおかしくはありません。例えば倭王珍(顕宗天皇)が遣使を送った438年、顕宗天皇が70~80歳というのは想定しにくいですが、40~50歳なら理解できます。

平群氏系図
平群氏の系図

南郷遺跡群

さらに私の説を裏付ける考古学的研究として南郷遺跡群の存在を挙げます。今回5世紀の概要についてなんとなくつかめたと思い、考古学との関係を調べたところまさしく一致する成果が見つかり驚きました。考古学の研究は科学的、学術的に進めて結果が得られやすいですが、文献から歴史を探る分野はそれに追いついていないのだなと感じました。日本書紀が難解なため仕方がない面もありますが、せめてヤマト国近畿説は共通認識として研究を進めていく必要があるのではと思います。

葛城氏

葛城襲津彦

南郷遺跡群の説明は葛城氏の解説と重なりますので葛城氏の祖である葛城襲津彦から順にみていきます。
葛城襲津彦は4世紀後半から外交などで活躍した人物です。直接軍隊を指揮する将軍としても活躍します。幾度か朝鮮半島へ渡って軍事作戦を行い、さらに技術者を連れ帰ります。漢人(あやびと)と呼ばれ、鉄製品や窯業生産などの技術革新を担いました。こういった渡来系技術者は王権が管理していたと考えられますが、一部は有力氏族が囲い、その技術を独占していたと思われます。

室宮山古墳

葛城襲津彦は弟橘姫の息子であるとすれば、4世紀後半はもう高齢になっていたでしょう。御所市にある室宮山古墳は葛城氏の本拠地にあり、埋葬者は襲津彦の可能性が高いと思います。古墳の編年では履中天皇陵と同じくらいの時期、4世紀末頃築造が開始されています。その子には玉田宿禰戸田宿禰などがいますが、子であるか、もしかしたら孫という可能性もあります。仁徳紀12年に高句麗から使者が来て、その時戸田宿禰は鉄の盾を打ち抜き名を挙げたとあります。仁徳12年は413年の出来事と見ることができ、この時代葛城氏の子孫が政治の表舞台で活躍していたことが窺われます。

南郷遺跡群
南郷遺跡群

室宮山古墳にほど近いところに南郷遺跡群があります。奈良盆地の南端に位置し、発掘調査により5世紀の大規模施設跡があることがわかりました。多くの居館とともに当時最先端の各種工房跡が確認されています。渡来系技術者を葛城氏が囲っていたのでしょう。この遺跡の特徴として5世紀前半と後半で集落のありようが大きく変化していたことが挙げられます。遺跡群に属する極楽寺ヒビキ遺跡は5世紀前半の居館跡で、後に大規模な火災によって焼失した痕跡があります。私が先に示したように442年頃大規模な権力闘争があったとして、その混乱時によるものと考えることができます。

極楽寺ヒビキ遺跡模型
極楽寺ヒビキ遺跡模型

葛城氏は5世紀前半、飯豊、仁賢、顕宗の各天皇の時代に大きな権力を有していたのでしょう。各天皇は履中天皇の子孫たちであり、ともに弟橘姫からの氏族です。履中天皇の子孫を探し出し、それを担ぐことで葛城氏は最盛期を迎えます。顕宗紀には飯豊天皇の政庁である忍海角刺宮の立派なことを褒めたたえる歌が記されており、当時の繁栄ぶりをうかがうことができます。

5世紀前半の外交関係

高句麗の南下圧力

5世紀前半の外交関係はどうだったのでしょうか。中国への遣使については先の倭の五王の項目で見た通りですが、これは特に中国宋から官爵を得ることが目的でした。「安東大将軍」の名とともに百済や新羅、任那などの軍事支配権を認めてもらうことで、その地域の影響力を高めようということです。当時高句麗は強力な軍事力を背景に南下政策を進め、百済や新羅は対策に苦慮していました。百済と新羅は433年に羅済同盟を締結し、結束して高句麗に対抗しようとしました。その時倭国はどうだったのでしょうか。例えば百済の腆支王(在位405年~414年)は倭国に人質として滞在していた時期があり、即位時には倭国の後押しがあったという経緯があります。続く久尓辛王(在位414年~429年)は母が日本人という説もあります。このように見る限り百済とは友好関係を維持していたと考えられます。しかし新羅に対しては4世紀から強硬に接しており、それは5世紀も続いていたと思われます。仁徳17年(418年)の記述では新羅が朝貢を怠ったため、上でも触れた戸田宿禰らが新羅へ赴き詰問し、船80艘(実際80艘ではなくたくさんの意味か)で貢物をよこした、などとあります。

任那

任那は三韓の一つ、弁韓の地にあった国です。複数の小国に分かれていたようですが、そのいずれかに倭国の出先機関があったとされています。任那の記録はあまりなく実態がつかめないですが、日本書紀からわかることを少し解説していきます。

2世紀前半ころでしょうか、倭国大乱の前に新羅の王子とされる天日槍が日本へやってきます。当時の王と交渉し淡路島の一角を与えられ一時そこに住みますが、後に近江、但馬へと移り住みます。当時貴重な鉄製品を作る技術を持っていたようです。248年、崇神天皇(みまきいりひこ)が即位しますが、この天皇は任那と関係があります。加羅国の王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が自国へ帰りたいと言い、帰国時に天皇の名前をとって国名を任那にしたということです。都怒我阿羅斯等と天日槍は同一人物とされており、任那の建国は2世紀後半頃ではないかと思います。任那と新羅は仲が悪く、その理由は天皇からの贈り物の赤い絹を新羅が奪ったためとあります。

ホツマツタエによると弟橘姫は天日槍の5世孫、田道間守(タジマモリ)の娘とされています。タジマモリ死後の養父がオシヤマスクネとなっており、日本書紀ではタジマモリの記載はなく穂積氏忍山宿禰の娘とされています。6世紀の人物である穂積押山と名前が似ており、関連もしくは混同があるのかもしれません。そしてどちらも任那との関連がある人物です。弟橘姫は任那と関連が深い氏族の娘ということです。その子である履中、そして仁賢、顕宗も親任那、反新羅だったのではと考えられます。仁賢紀、顕宗紀では高句麗との関係強化が読み取れます。つまり5世紀前半ころの倭国は、任那、高句麗と連携し新羅への圧力を強めていたのでしょう。

葛城氏の衰退

443年允恭天皇が即位し、新羅との関係は改善したように見えます。ここで平群氏や葛城氏の勢力は弱体化します。雄略紀にも葛城氏の衰退に関する記述はありますが、実際はこの時期だと思います。平群氏に至っては後の氏族の痕跡が見つからないほどです。日本書紀を注意深く読むと刺青を入れられ馬飼いに落とされた、という風に推測することができます。

まとめ

葛城氏を中心に5世紀前半の様子を見てきました。飯豊、仁賢、顕宗の各天皇の在位を5世紀前半に当てはめることで考古学による成果との一致をみることができます。次は允恭天皇の即位時における政変から5世紀後半について見ていこうかと思いますが、時代が複雑に錯綜するので年代から歴史の流れを把握するのではなく、個々の記述をみてどの年代に相応するのか推測する必要があります。

倭の五王

倭王済、倭王興、倭王武

倭の五王を各天皇と比定していきたいと思うのですが、まずは最も異論のない倭王武から見てみたいと思います。

倭王武は元来雄略天皇だとされています。私もそうだと考えます。中国の史書ではっきりと年代が確認できるのが478年、その時の上表文があります。この上表文からわかることは父と兄が急死して自分が即位した、ということです。父を倭王済、兄を倭王興とする説が有力です。父は允恭天皇でこれもまず確かだと思うのですが、兄については異説もあります。しかし普通に考えて歴代天皇に名を連ねる安康天皇です。

年代の推測

問題は父と兄が急死して即位した年代です。雄略天皇の即位年は457年とされています。諸説ありますがその前後数年といったところです。しかし父と兄が急死して自分が即位したことを、20年後にあえて記述するでしょうか?上表文には百済の窮乏も記されており、475年の漢城陥落と一致します。普通に考えれば475年~478年頃に父、兄が死亡し、478年自分が即位したことを中国宋に伝えたのではないでしょうか。

次に允恭天皇(倭王済)の在位を調べてみます。一般的には412年即位、453年崩御というものです。しかしそれが事実だとすると允恭天皇は倭王讃、珍、済と被ることになるのでおかしいです。倭王済であることを前提とすれば遣使は443年と451年。440年頃即位したとして30年ほど在位し475年頃死亡。在位は少し長いですが特に違和感はありません。では安康天皇はどうかというと、倭王興は462年に遣使を派遣しています。上記の説であれば允恭天皇の在位と被りこれもおかしいです。そこで宋書には興が「倭王世子」と書いてあるとあり、「世子」つまり「皇太子」だったのでは、という説があります。これならば矛盾なく説明できます。そこで私はこの三代の天皇については次のように考えます。

天皇 倭王名 在位
允恭天皇 443年~474年
安康天皇 475年~477年
雄略天皇 478年~

稲荷山古墳鉄剣

稲荷山古墳出土鉄剣というものがあります。古墳時代において貴重な金石文が記されており、高い資料価値があります。そこに記されている「辛亥年」と「獲加多支鹵大王」から「辛亥年」を471年とし、「獲加多支鹵大王」をワカタケル、つまり雄略天皇とするという説が有力です。471年は日本書紀によれば雄略天皇の在位期間となります。この説が確かならば上の在位年表と矛盾します。471年説も十分あり得ますが、私は次のような理由で辛亥年を531年と考えています。
この鉄剣はその名の通り埼玉県行田市にある稲荷山古墳から出土しています。稲荷山古墳はさきたま古墳群の一つであり、その中でも最初期に築造されたと考えられています。時期は5世紀後半頃で、近接する大規模古墳はその後随時築造されました。では稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文、「辛亥年」は471年とするのが妥当、とも思われますが、この鉄剣とともに埋葬された人物は稲荷山古墳の初葬者ではない、という点が重要です。基本的に古墳は初葬者の死亡を契機として築造が開始されます。初葬者は前方後円墳であれば後円部の中心に埋葬されるのが基本です。この鉄剣も後円部からの出土ですが中央部ではなく、初葬者の埋葬場所は別にあると考えられています。そして鉄剣とともに発掘された副葬品からは6世紀初頭以降に広まったと推定される鎧などが出土しています。つまりこの鉄剣は稲荷山古墳に追葬された人物の副葬品と考えられます。
銘文を読めばこの鉄剣は「乎獲居の臣」の所持品であり、115文字の銘文は「辛亥年」に記されました。「乎獲居の臣」は「獲加多支鹵大王」が「斯鬼の宮」にいる時に武官として仕え、この剣を佩していたのでしょう。そして531年(辛亥年)、死後埋葬にあたり剣に銘文を記し副葬したのだと思います。
「獲加多支鹵大王」をワカタケルと読み雄略天皇と考えれば在位は5世紀後半、私の考えでは478年即位で500年頃までの間です。「斯鬼の宮」は今の奈良県桜井市になります。そのころ出仕してこの剣を下賜され、531年の埋葬にあたり銘文を記し副葬品とした、というのであればおかしい点はありません。稲荷山古墳の築造時期からすると531年では少し新しすぎる、という疑問も初葬者ではないとすれば解消します。私はこのような理由から辛亥年を531年と考えています。

倭王讃、倭王珍

では次に倭王讃と倭王珍について見ていきます。私は讃が仁賢天皇、珍が顕宗天皇ではないかと考えました。両天皇の父は前の「かご坂王忍熊王の反乱」でも見たように市辺押磐皇子となっています。しかし年齢的にも子はいなかっただろうと説明しました。ですがまずは顕宗紀を参考に、とりあえず市辺押磐皇子の子ということでその後の経緯を簡単に説明します。

父(市辺押磐皇子)が殺されたと聞いた兄弟(仁賢天皇と顕宗天皇)は従者とともに逃げ、丹波国の与謝郡へ隠れました。さらに播磨国縮見山の石屋、播磨国の明石へ逃げ身分を隠していました。とある宴会で身分を明かすこととなり、それを聞いた時の天皇(清寧天皇)は明石へ人をやり、皇子として迎え入れました、という話です。さらに続きがあり、清寧天皇崩御後、兄弟譲り合ってどちらもなかなか皇位につかず、代わりに姉の飯豊青皇女が天皇として政務を行った、ということです。

飯豊青皇女

飯豊青皇女は飯豊天皇と呼ばれ、歴代天皇の一人と数えられる場合もあります。市辺押磐皇子の娘となりますが、妹とする説もあります。市辺押磐皇子の妹に青海皇女の名前があります。私は市辺押磐皇子には年齢的には子がなく、青海皇女という女性は実在したと考えます。市辺押磐皇子は347年の乱で殺されますが、妹の青海皇女は難を逃れ、丹波国へ隠れたのではないでしょうか。年齢的にはまだ10代くらいでしょう。身を潜めて暮らしますが、後に娘を産みます。それが飯豊青皇女(飯豊天皇)です。市辺押磐皇子のにあたります。さらにその子が仁賢天皇と顕宗天皇ではないかと思います。そうであれば400年頃飯豊天皇は30代~40代くらい、仁賢天皇と顕宗天皇は10代~20代くらいです。倭王讃が中国の史書に登場するのは421年、この頃まで母の飯豊天皇が政務を行い、次に仁賢天皇(倭王讃)が立って、続いて弟の顕宗天皇(倭王珍)が即位します。宋書に珍は讃の弟とあるので矛盾がありません。
珍の次は済(允恭天皇)ですが、宋書では珍と済の関係は不明です。允恭天皇の即位前は1年空位があり、その時に大きな権力争いがあったと考えます。允恭天皇の即位年を倭王済が遣使した443年とし、442年は戦乱で空位、顕宗天皇は441年まで在位した、と仮定します。数年のずれはあるかもしれません。在位順に整理すると次のようになります。

5世紀天皇在位
天皇 倭王名 在位
応神天皇 ~401年
飯豊天皇 410年頃~420年頃
仁賢天皇 420年頃~430年頃
顕宗天皇 430年頃~441年
空位 442年
允恭天皇 443年~474年
安康天皇 475年~477年
雄略天皇 478年~500年頃
清寧天皇 500年頃~506年

私の説では日本書紀の在位順があまり意味がないということは既にわかっていると思いますが、これは倭の五王の比定としては今までにない斬新で大胆な説と言えます。特に仁賢天皇と顕宗天皇をこの位置に据えることで、様々な矛盾を解消できます。しかし天皇の在位が半世紀ほど繰上り、順番まで変わるとなれば相応の説得力がある説明が必要となるでしょう。次はこの説を補強するいくつかの根拠を挙げ、5世紀前半の状況を説明したいと思います。さらに4世紀から続く権力争いの構図も説明していこうと思います。

かご坂王忍熊王の反乱

五色塚古墳
五色塚古墳

権力争いに影響を与えた4世紀の内乱

「かご坂王忍熊王の反乱」は神功皇后紀元年に記述がみられます。347年の出来事です。前年の346年はいわゆる三韓征伐で、多くの兵、物資が動員されたと考えられます。かご坂王忍熊王は仲哀天皇の皇子とされていますが、前年急死した仲哀天皇は生きていれば27歳、もし子供がいるとしても10歳に満たないと推測できます。さすがにその年齢で反乱は起こせないのでかご坂王と忍熊王は仲哀天皇の兄弟、異母兄弟、従兄弟などと見るのが普通です。戦乱で宇治に陣取ったところを考慮すると、宇治天皇、両道入姫の親戚であると考えます。力のある外戚が乱をおこし、王権を奪おうとしたのでしょう。

反乱の原因

記述から読み取れる原因は前年仲哀天皇が急死したことで自分たちの立場が危うくなった、というものです。前にも少し触れましたが、犬上君の祖である倉見別という人物も乱に加担しています。私が思うに彼は仲哀天皇の兄である稲依別王ではないかと思います。弟が遠い戦地で急死し、連絡手段も脆弱ななかで疑念が増大し、事態を把握できない以上不測に備えて兵を挙げる、というのは理解できる行動です。あとは数十年王権を見ていて政治に不満があり、悪政を糺すと旗を挙げれば周囲が付き従うと判断したのかもしれません。実際乱に加担した五十狭茅宿禰は武蔵国造であり東国から兵を起こしました。途中兵力を拡大しながら進軍したとなればかなりの規模だったでしょう。

弟橘姫の死

三韓征伐中ですので畿内は手薄です。実際戦端は播磨の明石ですので反乱軍は難波、大和といった首都機能を制圧していたでしょう。弟橘姫はこの年に死んでいるので巻き込まれて殺されてしまった可能性が高いと思います。この機に乗じて皇后が目障りな側室を殺した、というのは十分あり得る展開です。頼れる息子はというと記述ではわからないので何とも言えないですが、普通に三韓征伐に参加していた可能性も高いです。

市辺押磐皇子

履中天皇の子で市辺押磐皇子という人物がいます。この時10代後半くらいでしょうか。彼は100年以上後、5世紀後半に雄略天皇に殺されたとされています。これはありえないのでいずれかの記述が嘘なわけですが、私は347年の乱で反乱軍に殺されたとみています。また市辺押磐皇子には子がいたとされ23代顕宗天皇、24代仁賢天皇になったとありますが、時代が飛びすぎて不自然です。いろいろと年代が混乱していて、記述を正直に読むことが不可能になってきます。この辺りから5世紀の天皇の謎につながっていきます。その解説は後に譲るとして、とりあえずは弟橘姫とその孫である市辺押磐皇子がこの347年の乱で殺され、さらに市辺押磐皇子には年齢的にも子はいなかったと考えます。

反乱の鎮圧とその後

かご坂王忍熊王の反乱の詳細は神功皇后紀に記述されています。結果として反乱は鎮圧されます。近江あたりの戦闘で大勢は決したようです。この乱で皇后両道入姫の勢力は大打撃を受けます。4世紀後半、神功皇后、応神天皇と王権の主流は維持しますが、平群氏、葛城氏は実務で存在感を増していきます。399年ヤマトタケルが死亡し、401年応神天皇が死亡します。その後誰が即位したのか、応神天皇のあとであれば仁徳天皇ですが、ヤマトタケルと同一人物ですので死んでいます。仁徳天皇のあとであれば履中天皇ですが、長生きした仁徳天皇より前に死んでいます。となると反正天皇や允恭天皇などが候補に挙がりますが、双方仁徳天皇の子という設定で、それを事実ととらえれば履中天皇と同じように仁徳天皇より先に死んでいるか、即位できてもあまりに高齢です。

なので私は5世紀初頭については、ヤマトタケルの死を隠し、その死を知っている一握りの氏族が主要役職を固め政権を維持したのではないかと考えています。仁徳天皇陵の築造時期が少し遅れたのもこの理由であれば納得できます。どのくらい続いたでしょうか、413年には倭は東晋に遣使を派遣しています。421年には倭の五王の一人である讃が宋に遣使を送ります。少なくとも20年後には讃という王が立っていることが確認できます。

空白の4世紀と言われますが、では5世紀はよほど歴史も明らかになっているのだろうというと全くそのようなことはなく、ただ倭の五王の記述があるだけで歴史が不明確な点は4世紀とほとんど変わりません。これから5世紀について見ていきますが、倭の五王と天皇の対比、稲荷山古墳鉄剣などの考古学的資料の検証、またより詳しく正確になってくる朝鮮史との比較をしながらヤマト王権の外交などを調べたいと思います。さらにその過程で浮かび上がる日本書紀の意図、目的についても解説していきます。