占い、宗教、歴史などの研究をまとめています。

アマテラス③

出雲大社
出雲大社

ハヤアキツ姫

アマテル(男神)の西の正妃にハヤアキツ姫という女性が居ます。住吉大神カナサキの娘とされています。カナサキは後に筑紫を治める人物ですが、やはり時代が遠く離れています。事績を見ると国譲り前後の人物です。そうするとハヤアキツ姫はカナサキの娘ではなく、本当の父は時代は違えど同じ筑紫を治めたアカツチではないか、と考えます。アカツチの娘はハヤスウ姫とされています。つまりハヤスウ姫=ハヤアキツ姫ということです。スサノオが朝日宮で見初め求婚した人物というのがハヤスウ姫(=ハヤアキツ姫)です。ホツマツタエでは破談になりますが、実際は2人は結ばれ子も生まれます。松江市の売布神社では速秋津比売神を主祭神とし、五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命を祀っています。
しかし五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命の3人の母はヤマタノオロチから救った奇稲田姫というのが定説です。私はここでピンと来ました。奇稲田姫もハヤスウ姫(ハヤアキツ姫)と同一人物なのではないか、ということです。調べてみると奇稲田姫の父はアシナヅチでアカツチの弟、それを事実と見れば奇稲田姫はハヤスウ姫と従姉妹同士ということです。もちろん実際に従姉妹の可能性もありますが、奇稲田姫の逸話は少々伝説的で現実感は薄いです。まず姉7人がオロチに食べられるというのもありえないですし、奇稲田姫は櫛となってスサノオはそれを身に着け、酒に酔わせたオロチを倒す、というのも実話というより物語です。ハヤスウ姫の従姉妹、という設定にして同一人物を匂わせ、ハッピーエンドのスサノオの英雄譚に仕立てあげた、という感じでしょう。なぜなら実際はスサノオの妻ハヤスウ姫は殺されているからです。

ハヤスウ姫は上の項目でも書いたように、ハヤコに妬まれ殺されます。ハヤアキツ姫については妬まれ殺された、という話はありませんが、最初に天児(アマガツ)を作った人物という記述があります。子を模った人形を幼児に添わせることで罪穢れを肩代わりさせ、厄落としをするという行事です。これは厄落としのため子を一度川へ流すというヒルコに行った厄落としを思い出します。その縁のある廣田神社、ここはカナサキがヒルコを育てた場所、そしてハヤアキツ姫はカナサキの娘とされている、やはりハヤアキツ姫はホノコのイメージが強く感じられます。ホノコはアマテル(男神)との間に男児をもうけ、モチコに深く妬まれます。

つまり整理すると、スサノオの世継ぎを産んだ女性(複数かも)がいて、彼女(たち)はモチコ、ハヤコ姉妹に妬まれ殺された、ということです。それがヤマタノオロチによる女性の殺害という物語になります。
そして私はハヤスウ姫=ハヤアキツ姫(物語の奇稲田姫)を同一人物とし、その息子はスサノオの跡継ぎ大屋毘古神(五十猛命)と考えています。

スサノオ=ツキヨミ説

スサノオ=ツキヨミ説というのがあります。ツキヨミはアマテラスの弟にしては記述がほとんどなく、日本書紀における保食神を訪ねて行き穢らわしいと斬り殺した件も、古事記ではツキヨミではなくスサノオの話となっています。ツキヨミは実在しないのではないか、そういった考えは古くからあるようです。
ツキヨミはイザナギの右目を洗って生まれたとされています。アマテラスは左目です。これは盤古神話と酷似しています。盤古神話は中国南方地方に伝わる創世神話で、海洋民族だった彼らが渡来し、日本にも同じような神話が残っているのかもしれません。もしかすると、氷河期末期から同じ神話を持つ民族が、温暖化の海進で別々に住むようになり、1万年もの間同じ神話を守り続けてきた、とも考えられます。
つまり右目左目は神話の話であり、ツキヨミというのは架空の人物で、神話における太陽をアマテラスとすると対の月が必要となり、それをツキヨミに当ててバランスをとり、その実体はスサノオのことでしょう。

山陰地方とツキヨミ

島根県には千酌(ちくみ)という地名があります。出雲国風土記によればその由来は「伊差奈枳(イザナギ)の命の御子、都久豆美の命が、この地で生まれなさった。そうだから当然ツクツミというべきであるが、今の人は従来どおり千酌と名づけている」ということです。ツクツミ、ツキヨミのことでしょうか。
鳥取県の霊石山付近では白兎の伝説があります。アマテラスが八上行幸の際、行宮にふさわしい地を探したところ、一匹の白兎が現れました。白兎はアマテラスの御装束をくわえて、霊石山頂付近の平地、現在の伊勢ヶ平まで案内し、そこで姿を消したそうです。白兎はツキヨミのご神体で、その後これを道祖白兎大明神と呼び、中山の尾続きの四ケ村の氏神として崇めた、とのことです。
ツキヨミは島根、鳥取でこのように伝承がありますが、これは若き日のスサノオのことではないでしょうか。若きスサノオとアマテラス(モチコ、ハヤコ)はこのあたりで出会った、ハヤスウ姫との出会いも地理的に遠くない朝日宮(宮津市)あたりです。

気吹戸主

そう考えれば、ツキヨミの子とされている気吹戸主はスサノオの子ということになります。大屋毘古神、五十猛命、気吹戸主、これは同一人物ということです。スサノオと共に朝鮮へと渡り、帰国後持ち帰った木の種を植えてまわった人物です。母のハヤアキツ姫はモチコ、ハヤコに殺されます。気吹戸主は復讐のためスサノオと共にその軍勢を打ち払らい、モチコは斬られたか、もしくはハヤコと共に北陸へと逃亡します。気吹戸主が荒ぶる神として恐れられる理由は、母を殺され復讐に駆られたからだと考えます。
モチコ、ハヤコを追い払い、スサノオは出雲を建国、そして気吹戸主は紀の国を建国します。気吹戸主はその後九州、四国を勢力下に治め、葦原中国を支配します。これは200年ほど続き、出雲の国譲りの時代に滅亡します。奈良県にある石上神社はイソカミ神社と読み、建国の父五十猛神(イソタケル)を祀るものだったのではないでしょうか。
後に詳しく説明しますが丹生都比売神社も紀の国の重要な拠点であったと思います。朱の着色料として使う丹(水銀)の採掘はこの国の大きな特徴です。丹生都比売神社は和歌山県伊都郡という地名に座します。これは九州の伊都国と通じるところがあるのかと思います。これもまた五十猛命に因んでいると思われます。
なにかでちらっと読んだのですが、五十猛命の「五十」は五十音のこと、という記述です。ホツマツタエによればアワウタで五十音を広めたのはイザナギ、イザナミとされていますが、私はこれは五十猛命(気吹戸主、大屋毘古神)の功績ではないかと考えています。日本初の和歌はスサノオが詠んだとされます。今の日本語はスサノオとその子である五十猛命を起点とし、出雲、紀の国の繁栄とともに標準の日本語となったという説です。
名前がたくさんあって混乱してしまいますが、スサノオ側からは五十猛命と呼び、天津神からは気吹戸主と恐れられていた、という感じで使い分けたいと思います。あらためて大屋毘古神、五十猛命、気吹戸主は一人「スサノオの後を継ぎ、紀の国を建国した息子」のことです。

時系列の問題

しかし上記のように考えると腑に落ちない部分もあります。たとえばスサノオはヤマタノオロチを退治した後に奇稲田姫と結婚した、とか、スサノオと五十猛命は新羅から帰国後ヤマタノオロチを退治した、など、色々と時系列がおかしなことになってしまいます。これは推測を交えつつ、現実的に受け入れられる話に置き換えると次のような経緯だと思います。

  1. スサノオはモチコ、ハヤコを后とし、モチコは男児を、ハヤコは宗像三女神を産む
  2. スサノオは出雲(当時はサホコの国)でハヤアキツ姫を后とし、后は五十猛命を産む
  3. スサノオと成人した五十猛命は新羅へ旅に出る
  4. 帰国するとサホコはモチコとその一族に乗っ取られ、宇佐も陥落しハヤアキツ姫は殺される
  5. スサノオと五十猛命はモチコ・ハヤコ一味(ヤマタノオロチ)を駆逐し、スサノオは出雲を、五十猛命は紀の国を建国
  6. 更に五十猛命(気吹戸主)は根の国へと侵攻。ハヤコは逃亡し流離う。

このような流れだと考えます。現実的にあり得る展開でもあり、また後の時代、これと似たような、また逆にしたような歴史的事件をいくつか思いつきます。歴史は因果と業を解消しながら進むのであれば、大胆な仮説ながらも検討の余地はあります。さらにつづきます。

アマテラス②

白山比咩神社
白山比咩神社

宗像三女神の母

ホツマツタエではアマテル(男神)に12人の后がいることとなっています。東西南北に3人ずつ、王統に世継ぎが途絶えることを心配してのことだといいます。最初に書いておきますが、このアマテル(男神)は存在しません。以下何度か出てきますが、架空もしくはスサノオとかぶらせています。
北の正妃がモチコ、そして妹のハヤコも北の后です。2人はイザナギの弟クラキネの娘、つまりイザナギの姪となります。ハヤコは3人の娘を産みます。タケコ、タキコ、タナコ、すなわち宗像三女神です。
ここで疑問に感じるのは宗像三女神はアマテラスの子だよなあ、ということです。じゃあハヤコがアマテラスなのではないか、と考え追求してみました。

ハヤコ(速佐須良比売)

ハヤコは日本書紀には記述はありませんが、ホツマツタエではかなり詳細に描かれている人物です。その内容から大祓祝詞に登場する速佐須良比売と同一視できると思います。大祓祝詞は後に語るとして、ホツマツタエではどのような人物なのか、簡単に説明します。
上記のようにクラキネと呼ばれる北陸地方の長官の娘です。姉モチコと共にアマテル(男神)の后となります。そして3人の娘(宗像三女神)を産みます。
アマテル(男神)の后なのですが、いずれスサノオと不倫をします。その前にスサノオは朝日宮(籠神社)でハヤスウ姫を見初めて結婚を申し込むのですが、破談になります。気落ちしたスサノオはモチコ、ハヤコと不倫関係になるのですが、ハヤコはハヤスウ姫に嫉妬します。後にハヤコはオロチとなりハヤスウ姫を噛み殺した、ということですが、嫉妬から人はオロチ(大蛇)になる、というのが古代日本の考え方のようです。
その後ハヤコは身を寄せる場所がなくなり流離うこととなるのですが、これが速佐須良比売と重なります。根の国から流離い、信州、東北へと落ち延びたのでしょうか。例えば遠野物語など、東日本にもいくつか痕跡が見つかります。
滋賀県の安羅神社にはスサノオと速佐須良比売が祀られています。由緒ではスサノオが速佐須良比売の形見をここに祀った、ということです。速佐須良比売は行方不明になり、不憫に思ったスサノオが形見だけでもと考えたのでしょう。
クラキネ(イザナギの弟)、つまり天津神の王族の娘で宗像三女神の母、これはアマテラスの一つの側面であり、ハヤコの人物が投影されていると考えます。

モチコ

モチコはハヤコの姉、アマテル(男神)の后の一人で長男ホヒを産みます。しかしホヒは天穂日命のことで、これは時代が違います。スサノオの6代孫の大己貴の時代、つまり出雲の国譲りの頃の人物です。ホツマツタエでは2つの時代が絡み合っており、それぞれの因果を相殺できるように親子関係が訂正されていることが多くあります。国譲り後出雲を治めた天穂日命、モチコはその母、とすることで、モチコの子は本来この地の王たるはずだった、ということが推察されます。
モチコは長男を産みますが、アマテル(男神)は瀬織津姫ホノコの子オシホミミを世継ぎと考えます。それに嫉妬したモチコもオロチと化します。ホツマツタエにおけるヤマタノオロチはモチコとハヤコ、そしてその一族を指します。つまり天津神、アマテラスこそヤマタノオロチということです。
ここであらためて整理すると、モチコは長男ホヒ(別時代)を産み、ホノコは男児オシホミミ(別時代)を産んだ。アマテル(男神)(スサノオ)はホノコの子を世継ぎとし、モチコはホノコに嫉妬した。

古今東西よくある后達の争いのようです。ホノコという女性も出てきますが、なかなか実体がつかめません。時代が違うのか、別の誰かなのか。瀬織津姫もやはり大祓祝詞に登場する人物で、この時代に生きていることは確かです。しかし瀬織津姫=ホノコというのが違和感があります。
本当の瀬織津姫はモチコだと思います。アマテラスの荒魂と呼ばれる人物です。しかし後世、天津神としては瀬織津姫=「嫉妬でオロチとなるモチコ」は都合が悪くなります。そこでアマテルという男神を創作し、モチコに嫉妬され殺される人物に瀬織津姫を当てた、というのが実際のところだと思います。それはホノコなのか誰なのか、以下明らかにしていきます。
重要な点は、モチコは他に世継ぎを産んだ女性に嫉妬して殺害した、という事です。

天津神

天津神の代表はアマテラスです。上古25代と呼ばれる古代の王統があるのですが、信ぴょう性は不明なものの、そこには日本神話の神々の名が連ねてあります。19代オモタル、20代カシコネに続き21代目にイザナギが記されています。その次22代目が「天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇」となっており、ムカツ姫で女性です。天津神系統のイザナギの次の王、ここでは女王となりますが、それはイザナギの姪にあたる、モチコ、ハヤコ姉妹ということです。
とりあえずここまでを整理すると、

アマテラス=モチコ・ハヤコ=ヤマタノオロチ

ということです。つづきます。

アマテラス①

日本神話のアマテラス

アマテラスというのは伊勢神宮に祀られている女神です。日本書紀では神話の登場人物となっています。イザナギの左目を洗ったときに生まれ、高天原に住み、弟スサノオが乱暴なため岩戸に隠れ、思兼命や天宇受賣命によって岩戸から出てきた神です。同じく弟のツキヨミと共に天下を代わる代わる治めています。

スサノオとの誓約(うけい)

スサノオとの誓約(うけい)は有名な逸話です。姉アマテラスに会いに行ったスサノオみて、アマテラスは「国を奪いに来たのか」と武装して待ち構えます。スサノオは「ただ根の国へ行く途中によってひと目会いたかっただけだ」と釈明しますが、アマテラスは信用しません。そしてその心が正しいのか誓約をします。スサノオの産んだ子が男児ならば、よこしまな気持ちはないとの証明にします、といい、アマテラスはスサノオの十柄の剣を、スサノオはアマテラスの五百箇の御統をそれぞれ噛みちぎりました。
アマテラスの産んだ子は3柱の女神で、宗像三女神です。一方スサノオの産んだ子は5柱の男神です。誓約はスサノオが勝ちました。

ホツマツタエでの記述

ホツマツタエではアマテラスは男神となっています。そしてその正妃が瀬織津姫(向津姫)です。瀬織津姫の実体はわかりませんが、女神アマテラスと同一視する見方もあります。そこでアマテラスは男なのか女なのか、実在したとすればどのような人物だったのか、このあたりが大きな謎として浮かび上がります。日本書紀より古いホツマツタエでは男神なのだから男だったのだろう、とも考えられますし、日本書紀の段階で記述の誤りを正して女神に戻した、とも考えられます。

アマテラスの実像

私が集めた資料などを整理していく中で、アマテラスを実在の人物と考え見えてきたことについてまとめてみたいと思います。

  • アマテラスは女性
  • 生きた時代は紀元前7世紀頃
  • 複数の女性の記述が重なっている
  • いずれもスサノオの后である
  • ヤマタノオロチである

以上がアマテラスの概要となります。「事実なのか?証拠はあるのか?」と言われると「こんな感じだと思う」としか答えられませんが、少なくとも上の5項目に誤りはない思います。一体どういうことなのか、以降すこし説明していこうと思います。

古代日本の暦について

ホケノ山古墳
ホケノ山古墳

日本の失われた暦

古代日本の暦についてはほとんど何もわかっていませんが、ホツマツタエではいくつかの主要な暦が記述されています。一つはスズ暦、そしてスズ暦の後を継ぐアスス暦、そしてこれらと併用して使用されているキアエ暦です。スズ暦については今一つはっきりしませんが、51スズまであるようです。これはウガヤフキアエズの51代と対応しているのではないかと考えています。アスス暦は365日で2年の2倍暦を採用しています。キアエ暦は干支と似ていて60個の年号が循環します。干支を「エト」と読むのはこれが起源のようです。アスス1年を「キアエ」とし、アスス2年が「キアト」、3年が「ツミエ」・・・、59年が「ネウエ」、60年が「ネウト」、61年が「キアエ」です。しかしこれも2倍暦なため実質30年で一周りするところが特徴です。

ホツマツタエにおける最後の年はアスス暦843年です。ではこのアスス暦を365日で1年に換算し直し、それを西暦に当てはめれば古代の年表がかんたんにできるのでは、と思うのですがそれがそう単純ではありません。ホツマツタエにおいても古代の人物やその業績、さらに年代までもが改ざんされており、当てはめるにもどこを基準にすべきなのか、正しい部分と改ざんされた部分はどのあたりなのか、などなど色々と考慮すべき点があり、それらを整理してまとめるときにどうしても恣意的になってしまいます。とはいえある程度しっかりした年表が作成されることは歴史研究においても、日本人の心理的な面においても重要な事だと考えます。

以下私がどのように年代を求めているのか、その基点の根拠はなにかなどを少しまとめておきたいと思います。

アスス暦

アスス暦は843年あるわけなので、2倍だとすれば421年ほどの歴史が記述されていると考えられます。しかしアスス暦も途中でおかしくなっており、特に700年を過ぎたあたりから重複や引き伸ばしなどが見られ、暦としての機能を果たせなくなっているように読み取れます。ちょうど空白の4世紀に差し掛かるあたりであり、この時期の混乱した様子が感じ取れます。なのでその終盤の100年ほどは置いておいて、比較的正確だと思われる部分を解析し、西暦に当てはめたいと思います。一人の人物の記述から基点となる年代を求めることができます。魏志倭人伝にも記述がある「トヨ」です。

豊鍬入姫命(トヨ)

魏志倭人伝は中国の書ですが、私達日本人ですら古代日本史の年代や出来事を探るのに中国の書を頼りにしてしまいます。日本書紀に卑弥呼やトヨがいなくても、魏志倭人伝に書いてあるので実在しただろうと考えてしまいます。トヨ(壹與、台与)は女王卑弥呼が死亡した後、男王を立てたが戦乱が収まらず、13歳で立てられた、とされている女性です。13歳とありますが、これも2倍暦なので数え6歳のことです。

魏志倭人伝におけるトヨは日本史におけるどの人物に対応するのか、というのは邪馬壹国(ヤマト国)の所在地解明にもつながりますが、私は日本書紀における豊鍬入姫命がトヨであると考えています。これはホツマツタエと日本書紀を並行して読むことで導き出すことができます。

崇神天皇の祭祀

崇神天皇の治世で天照大神と倭大国魂を祀ったというのはホツマツタエ、日本書紀双方に記述されています。記述と年代を整理すると以下のようになります。

日本書紀 ホツマツタエ 出来事
記述なし アスス624年 トヨスキ姫に天照大神を祀らせる。
崇神5年 アスス625年 疫病発生。
崇神6年 アスス626年 民が四散、天照大神の宮を移す。

この段階で日本書紀の豊鍬入姫命とホツマツタエのトヨスキ姫は同一人物であることがわかるのですが、魏志倭人伝のトヨに対応するかどうかはまだ不明です。

トヨスキ姫の年齢

これより下ってアスス710年、ヤマト姫が11歳で御杖代となります。翌年アスス711年、ヤマト姫は斎野(飯の宮)にいたり、トヨスキ姫に仕えます。そしてその3年後のアスス714年、トヨスキ姫は103歳で斎宮をヤマト姫に譲り、宮を伊勢に移します。ヤマト姫が斎宮になったのはアスス713年とも読み取れますが、714年のほうが正しいと思います。ホツマツタエでトヨスキ姫の年齢が確認できる記述はこれのみです。

では90年前にあたる624年においてトヨスキ姫の年齢は103-90=13歳になります。13歳と言えば魏志倭人伝におけるトヨの年齢です。ここにおいて魏志倭人伝のトヨはトヨスキ姫(豊鍬入姫命)ということが確認できます。日本書紀では豊鍬入姫命の年齢に関する記述がないためこの比定ができませんでしたが、ホツマツタエを介することで魏志倭人伝のトヨが豊鍬入姫命であることを確認することができました。つまりアスス624年崇神4年が魏志倭人伝における「卑弥呼が死んで男王を立てたが収まらずトヨを立てた年」となります。

アスス暦から西暦を出す計算式

魏志倭人伝では正始8年(247年)倭国は狗奴国と紛争状態にあったとあります。そしてこの頃卑弥呼が死亡し塚を建てたとあります。そして男王が立てられたが人々は服さず、トヨを立てて国が治まった、ということです。崇神1年はアスス621年であり、これが西暦248年とすれば以下のようになります。

西暦 アスス暦 日本書紀 出来事
247年 619年
620年
開化59年
開化60年
倭国と狗奴国の紛争。この頃卑弥呼死亡。
248年 621年
622年
崇神1年
崇神2年
崇神天皇即位。
249年 623年
624年
崇神3年
崇神4年

トヨを立てた。

つまりアスス621年が西暦248年であり、アスス暦から西暦を出す計算式は、

(アスス暦-125)÷2

ということです。621-125=496、496÷2=248です。倭姫に斎宮を継いだアスス714年は、714-125=589、589÷2=294.5で294年となります。

紀元前は少し手を加えて上記の式からさらに1を引きます。なぜなら紀元0年がないからです。紀元前3、前2、前1、紀元1、紀元2…となるので単純な引き算だと1年ずれます。アスス87年は87-125=-38、-38÷2=-19、さらに-1で紀元前20年となります。アスス元年はと言うと1-125=-124、-124÷2=-62、さらに-1で紀元前63年となります。ただアスス暦も初期と末期の部分は少し正確性に疑問な点もあるため注意が必要です。

まとめ

以上ホツマツタエに見られる暦と、それから割り出される西暦への計算式をまとめました。魏志倭人伝のトヨが日本書紀の豊鍬入姫命であることがわかり、邪馬壹国(ヤマト国)の所在地も畿内、纏向遺跡であることがわかりました。またこれによりヤマトタケルの生年を導くことができ、そこから空白の4世紀の解明につながりました。

空白の4世紀

仁徳天皇陵

日本書紀と歴史

日本史には空白の4世紀と言われる謎の時代があります。大きな日本史の流れとしては250年ころ弥生時代から古墳時代へと移行するのですが、その古墳時代の前期にあたる270年~400年ほどの歴史が文字資料に残っておらず空白になっているのです。この空白を埋めようと多くの歴史家が様々な仮説を立てていますがどれも決定的とは言えない状況のようです。

しかし実は単純に日本の歴史書「日本書紀」を読み解くことで空白の4世紀が見えてくるのです。これは奈良時代、日本書紀の編纂時に意図的に封印し、後世正しい視点で読み解けば自ずから浮かび上がるように仕組まれたものでした。これは相当に高度な技巧を要するものであり、当時の日本の文化レベルが極めて高水準だったことを物語っています。この技巧は儒教で言う「中庸」の観点を文章に埋め込み歴史を表現するという、極めて高い精神性が要求される手法と言えます。

歴史というものは勝者によって描かれる、というのは否定できない事実です。奈良時代に現存していた各種の文献もそれぞれの立場によって描かれ、どれが真実の歴史なのか判別に困っていたのだと思います。しかし見方を変えれば勝者によって描かれた歴史自体がありのままに歴史を表現しているとも言えます。やはり自分に都合の悪いところは書きたくないとか、敵方の悪いところは誇張するとかというのは自然であり、その描き様から当時の時代背景や為政者の気持ちを読み解くことができるわけです。奈良時代というのは一旦日本の歴史が元に帰り、まっさらな状態で時代を見つめることができた貴重な時期だったのだと思います。その時にどう歴史を残すのか、日本人の知恵と文化が結集され、世界に歴史書のあり方を問うた渾身の書が日本書紀と言えるでしょう。

ヤマトタケルについて

では実際に空白の4世紀を明らかにしたいのですが、避けて通れないのがヤマトタケルです。ヤマトタケルは景行天皇の皇子であり、熊襲征伐と東征を行い大和王権の拡大に寄与した人物です。生きた時代については記紀の年代をそのまま取れば紀元100年ころの人物になります。しかし実際は293年に生まれています。そして310年に東征からの帰還中死亡したとされています。これだけ見ると天皇の皇子として2度の戦争を指揮し、皇位に付く前に病に倒れてしまった人物のようです。それにしては日本各地に伝説が残り、その名前や逸話を知らない日本人はいないほど有名であり、さらに武神として各地に祀られ信仰の対象にもなっています。なぜここまで過大に持ち上げられるのか、そこを説明しなくてはなりません。

  • まずヤマトタケルは310年で死んではいません。景行天皇の次の天皇は成務天皇ですが、ヤマトタケルは東征後景行天皇を殺し自ら成務天皇となりました。ここが日本史の大事件であり、その隠蔽はヤマトタケル自身が行ったものだと考えられます。
  • 次にヤマトタケルの生きた時代です。293年に生まれ、死亡したのは399年、実に数え107歳まで生きたたいへん長寿の人物です。古代で長寿と言えば武内宿禰が思い出されますが、武内宿禰はヤマトタケルのことであり長寿という部分は史書にも残っているわけです。成務天皇の享年は107歳です。古代の異常に長い歴代天皇の年齢のなかに埋没され見過ごしてしまいますが、その中に一人だけ本当の年齢の人物がいた事になります。
  • そしてヤマトタケルは仁徳天皇でもあります。仁徳天皇と言えば日本最大の古墳、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を思い出しますが、まさにあの古墳がヤマトタケルの陵墓です。成務天皇と仁徳天皇が同一人物とか意味がわからない、と思うかもしれませんが、天皇の事績として仁徳天皇紀に書かれた出来事はヤマトタケルが天皇だった頃の史実ということです。これは後に解説していきます。
  • さらに武烈天皇もヤマトタケルです。暴虐で何一つ良いことをしなかったという武烈天皇の記述も、実は若き頃のヤマトタケルの事績なのです。武烈天皇は18歳で死んでいますが、18歳と言えばヤマトタケルの死んだ年齢でもあります。このように巧妙にヤマトタケルを隠蔽しながら、その史実はきちんと日本書紀に残されているのです。

空白の4世紀を知る上で、このヤマトタケルの事実を語らないことはできません。というよりも、日本史における空白の4世紀それ自体が、ヤマトタケルが王として君臨した時代そのものと言えるのです。このことを踏まえたうえで、今一度古墳時代初期からの歴史を見ていきたいと思います。

景行天皇の治世

垂仁天皇と景行天皇でも触れたように、景行天皇は山口県を拠点とし、九州へと攻め入ります。私の推測では馬韓からの渡来人、もしくはその子孫だと考えています。九州での戦争では弥生人の国家を次々と滅ぼしており、それは景行紀の12年に詳しく描かれています。

290年九州を平定した景行天皇は大和へ向かいます。後にヤマトタケルは兄オオウスとともに生まれたことになっていますが、実はオオウスは景行天皇とともに九州から大和へ来たのだと思います。ヤマトタケルは武内宿禰でもあります。武内宿禰の父は武雄心命とされていますが、この人物がオオウスなのだと思われます。出生地は佐賀県武雄市です。景行天皇の軍勢は和歌山市付近に滞在します。そこで武雄心命は影媛と呼ばれる女性との間に子供をもうけます。しかし影媛は景行天皇の女性でもあったようで、293年に生まれた子ヤマトタケルは景行天皇の子供ということで育てられます。294年には武雄心命(オオウス)は美濃を任されます。

この頃の治世には倭姫の話埴輪の話などがあります。ともに垂仁天皇の治世のように見られますが、年代を計算すると景行天皇の時代になるのです。景行天皇は暴君のようなイメージがあります。一方で殉死の風習をなくし埴輪を作らせるなどの政策も行ったようです。しかしそれも垂仁天皇の事績にされるなど、当時としても良いイメージはなかったのかと思われます。

306年、景行27年に再び熊襲が叛いたとあります。先の戦争で九州から船で逃れた熊襲、隼人が上総国(千葉県)にいる事が判明し、それを討ちに景行天皇は自ら出征します。しかしここでは思うようにいかずに敗退し、その帰路美濃へ立ち寄ったのだと思われます。そこで美濃の武雄心命(オオウス)とヤマトタケルが似ているとわかり、景行天皇は二人が親子だと悟ります。しかし今更そのようなことは言えるはずもなく、彼は兄だということにしたのでしょう。周囲の人たちも薄々気づいていたのだと思います。

ヤマトタケルの東征

景行天皇とオオウスは仲が悪かったという記述があります。上記のような経緯もあり、さらにオオウスを恨んだのでしょう。しかし美濃では一定の勢力があり簡単に討てる相手でもありません。ですがその存在は目障りなため一計を案じます。つまり美濃の勢力で相模、上総などの東国を攻めさせようと考えたわけです。しかしオオウスもそれに素直に応じませんでした。なので景行天皇は息子のヤマトタケルを東征へ向かわせたのです。16歳のヤマトタケルはその辺りの事情がわかりません。兄の代わりに自分が行くのだと単純に考えたのかもしれません。また戦果を上げるチャンスと捉えたのかもしれません。そして308年冬10月、ヤマトタケルは東征へと出発しました。16歳で無謀な気もしますが、吉備武彦大伴武日の軍勢をつけてもらっているので軍としては備わっていたのでしょう。ただし景行天皇の思惑としては成果の期待はしていなかったでしょうし、むしろそのまま戻ってこなくてもよいとも思っていたのではないでしょうか。他人の息子を皇子としておくわけにも行きません。

ヤマトタケルの東征についてですが、大筋としては静岡県、神奈川県相模での戦闘を経て上総国へ。途中浦賀水道でオトタチバナ姫を失います。上総国でも戦争を行っており主な目的はここだったのかもしれません。その後茨城県の鹿島神宮へ。そこから北上し福島県の勿来に陣を張ります。東北の軍と対峙しますがお互い争いは避けたかったのか、多賀城で会談をしたと思われます。帰路はそこから南下して新治、筑波を経て再度相模へ。武蔵の国はこの時に作られたようです。その後長野、美濃をへて尾張へ。ここでしばらく滞在しました。途中吉備武彦を越へ向かわせており、尾張で合流するのを待ちます。

景行天皇を討つ

309年尾張へ到着するのですが、ここはオオウスの支配地域です。ここでヤマトタケルは兄オオウスが実父であると知ったのでしょう。苦難と葛藤の末、ヤマトタケルは近畿へ攻め入り景行天皇を討つことを決断します。まずは吉備武彦を帰国させヤマトタケルが三重県能褒野で死亡したと報告させます。叛意を悟らせず油断を誘うためでもありますが、生きて天皇でもある養父を討つという汚名を残したくなかったというのも理由の一つでしょう。近畿へ攻め入ったヤマトタケルは景行天皇を高穴穂宮へと追い詰め、ついに討ち取りました。310年のことです。

最近5世紀の日本を調べていたのですが、新たな発見などもあり現在過去の記事を精査中です。とりあえず年表を作成したのでそれを載せておきます。